■■■■■マリナはきっと、今でもあのレストランで料理人を続けているのだろう。
けれど、私たちがマリナと会うことは、二度となかった。■■■■■
* * *
マリナと別れてから、アリチェの姿が見えるまでの時間は、本当に短かった。
魔術のことなんて一秒も考えない。それより彼女も何を話そうかと、思考はコマみたいに高速で回る。
自分に会う直前に、マリナとアリチェは何を話していたのか。
アリチェがよすがを引きつけるためだけに自分の電話を壊してみせた――マリナが言っていた言葉は、本当に正しいのだろうか。
とてもじゃないが信じられない。でもマリナの言葉には、虚ろさはあっても嘘の気配はなくて――
回り続ける思考は実を結ばない。身に過ぎた大金を賭けてしまったかのように、頭が熱に浮かされている。
よすがはマンションの四階まで足を動かす。マリナが言ったとおり、鍵はかかっていなかった。
「……アリチェ」
「よすが……」
手に持っていた電話のような破壊は、部屋の中には見受けられなかった。
お行儀よく足を揃えて、アリチェはリビングの椅子に座っている。
「――かえれ」
だから、壊れているのは、アリチェ自身だけだった。
「え? アリチェ、今なんて……」
「だから――帰れよ。
アンタ、まだ私のお友達のつもりなの?」
その言葉は、吐き捨てるような悪意と、突き刺すような害意に染まっている。
表情は――心底憎い相手を刺す時に、きっと人はこんな顔をするのだろうと言うような、ひきつった笑みだった。
絵本を血染めにする、アリスの貌だ。
「あ……ぅあ……」
「うん?」
「な、なんで……そんな、こと言うの?
私、あなたのこと……すごく心配して、探しに……」
アリチェに悪意を投げつけられたという事実だけで、よすがの心はもう折れていた。
涙が勝手に出てきて、その場に膝をつきたくなる。
マリナがアリチェの様子を話さなかったことに、今は感謝すらしていた。
こんなのを知ってたら、きっと部屋に向かう前に挫けてる――
「なに言ってんの? 一分も話してないのに、なに勝手に泣いてるの?
ほんとに前から怖がりで、嘘つきで――中身なんて、なんにもない!
クチだけでなんにもできないよね、よすがはさあ!」
「ぅ、う……だ、だって……」
幼い子供のような涙声で、よすがはかろうじて抗弁する。
「だって、アリチェ……なにを、なにをそんなに、怒ってるの……?」
「怒ってる? ――わたしが?」
理解が追いつかないうちにテンションが一転する。
アリチェはよすがの言葉を、冷たく嘲ってみせた。
その怒りの理由がわからない、と考え、魔術師としての認知が遅れてやってくる。
人は誰しもオーラのような〈混沌〉の流れをまとっている。そしてそれは心臓の鼓動に応じて一定のリズムを刻むものだ。
アリチェのオーラも、ごく普通に脈動していたはずだったのに――今は、そのリズムが全くのデタラメになっていた。
怒りによって心音が激しくなっている、のではない。何秒も止まった後に、激しく四連符の鼓動を打つことすらあった。
それが生物としてのどれほどの断絶を示すか。血液の流れ、呼吸の仕組み――
気付いてしまえば、彼女は、どう見てもヒトではない。
「怒ってるっていうんなら、ずっと前から、何もかもに怒ってた――」
ヒトではないものが人として生きることが、どれほど腹立たしいものなのか。
それは多分、よすがにはずっとわからない。
「……ああ、そうだ。
さっきカギもかけずに、ここから逃げ出したマリナにも、イラついたよ」
「マリナにも……その顔を、見せたの?」
「そうだよ! 軽く言ってやっただけで、アイツは逃げ出したけどね!
わたしは言ってやった、マリナは――アンタは、いくら魔術師やら何やらを探したってどうにもならないって!
アンタは奇跡を知りたいんじゃない、奇跡が自分に降ってくるのを待ってるだけだ!
そんなのダメじゃん!
そんなアンタに、この先ずーっと――奇跡なんて、起きるわけないじゃん!」
狂騒的な笑い声が数秒。
また一転、アリチェは黙りこくる。
「マリナは……それを聞いて、どうしたの?」
「それはね、とっても悲しそうな顔をしてた。
でもキレたりはしなかったよ。
”私たちはやっぱり、最初からお友達でもなんでもなかったのね”って、それだけ」
「それは……」
「……ああ、ものすごくムカついたよ!
ああいうふうにうまくあしらわれるのが、一番わたしはイラつくの!
そんなキレてる時に、アンタがわざわざ電話なんかかけてきたから――」
「!
だ、だから、電話を壊したの……?」
「そうだよ! ああ、たまってる、イラつく、電話なんかじゃ足りやしない……!」
アリチェが牙を剥いた気がした――その錯覚だけで、ひっとよすがの喉が鳴る。
彼女の歯は漫画のように伸びたりはせず、愛らしい犬歯の収まっている――だがそれは、たしかに吸血鬼の牙だった。
なぜなら今、彼女は眼前のよすがを、思いきりその歯で食いちぎろうとしている――
「わたし足りないよ、ぜんぜん、ぜんぜん足りない!
なんでみんな正気なの!?
どうしてともだちを潰さずにいられるの?
なんでみんな言葉で殴っただけで逃げるの! もっと殴りたいよ――隅々まで殴りたいよ、もっと、もっと!」
「アリチェ……」
「やめてよ、やめて、その顔――抉りたくなるんだよ!
早く消え失せてよ! もっと引っ掻いて、ブチ抜くまでやりたくなるから!
どうせそんなことさせてくれないんでしょ!? なら、なんで――」
なんで、と吠える彼女の言葉が、言葉にならない叫びになる。
誰かを抱きしめるように伸びる手が空を切る。
人間に出せる力ではなかった。その手がよすがの身体をかすめていたならば、肉を丸ごともいでいただろう。
歯を噛み締めて呻く。ぎりぎりと鳴るきしみは、人の血をすすりたいのではなく、その命を吸い尽くしたいのだと告げている。
そしてアリチェが、口を開いて――
「なんで――なんで誰も、わたしに殺されてくれないんだよお!」
よすがは理解する。それが彼女の本能であり、彼女を怒りに駆り立てていたのだと。
――これは、むりだ。
私やマリナには、こんな巨大な歪みは手に負えない――そう、よすがは思う。
私が逃げなければ、アリチェはすぐにでも私に牙を突き立てる。
そしてその結果として、彼女は心底から人を殺せる。
死にたくない。
殺されたくなんかない。
死にたく、ない――
「……どうしたの、よすが」
絶叫の後の声は、呆けたように静かだった。
「その顔……
マリナとぜんぜん違う。あいつは私の話を、半分くらいしか信じてなかった。
口先でごまかして、顔だけ笑って逃げ腰だった。
いまのよすがのその顔は――本気で私に殺されるって、怯えきってる顔だ」
よすがは何も言えない。
少しでも動いたら殺されると、そう錯覚するほどに恐怖している。
――じゃあ、とアリチェはちいさく笑う。
「じゃあ、帰れ。
私のために死ねないなら、さっさと帰れ」
――ああ。
この言葉は、何もおかしくない。
アリチェ自身がどれほどヒトでなく、心の底まで狂気に満ちていたとしても。
あるいはごく普通な、ただの女の子だったとしても。
嫌ならば離れた方が良いというのは、何のいびつさもない提案だ。
マリナが去ってしまったことは責められないとよすがは思う。だって彼女も、今と同じ言葉を聞いたのだろうから。
自分にだってアリチェのために身を捧げる理由はない、と心が認める。
死にたくない、という本能が百万回も脳を揺さぶる。
揺さぶられて、震えて、腰が抜けて、そして――
「…………わかった」
「え?」
よすがはひざまずく。
「アリチェ。
私を、殺してください」
首を掲げて、牙を突き立てるのを待つように、アリチェに向けてみせる。
「――――、――」
彼女は呆然としている。
心底から折れたままで、泣きながら、よすがはアリチェの採決を待つ。
「ごめんね……ごめん、わかってあげられなくてごめん。
こんなのアリチェじゃないって、そう思っちゃってごめんなさい。
アリチェは綺麗なだけの女の子だって、そんなふうに思い込んでて、ほんとにごめん」
「……、ちが……」
「ごめん……こんな私でよければ、ぜんぶ吸ってほしい。
汚い血だけど、まずいかもだけど、ごめんね……」
――結局アリチェには、自分の正体についてなにひとつ言い出せなかった。
小さなかばんの中のノートがむなしく揺れる。
「――ふざけんなッ!」
アリチェは叫んで立ち上がる。
壁を壊さんばかりに拳を打ち付けると、信じられないような轟音が響いた。
ちいさな拳の形に合わせて、壁紙のクロスが歪んで弾ける。
「ふざけんな、ふざけんな……いいかげんにしろよ、この弱虫が……!」
「え、だってわたし、アリチェの言うとおりに――」
「……ちがう」
そうつぶやいたアリチェの表情からは、急に怒りが失せていた。
“いつもの”アリチェが、沈んだ声の中から顔を出す。
「それはちがうよ。
よすがも、わかってるでしょ?」
アリチェは思っていた以上に、自分のことを分かってくれていたのだと――そう、よすがは哀しく理解する。
よすがはアリチェの望みを理解した上で、それとずれたことを口にしていた。
アリチェはあれほど情念を込めて怒りを叫んでいた。けれど今ここで彼女に食い殺されることには、何の情も通わない。
“殺したい”ではなく、“殺されてほしい”と彼女は言った。
そんなアリチェの好意と害意は、きっと一体なのだろう。
もっとお互いの心を受け入れあって、笑って、たくさん遊んで――その上で心を潰して、命を踏みにじることを、アリチェは望んでいたのだろう。
だがよすがには、そんな重みは受け入れられなかった。
「……わかってるよね?
そう、だから――」
だから――これは、今すぐにでも死んでしまいたいと、そうよすがが願っただけのことだ。
誰かのために死んでしまいたいという願いは、その相手が何を考えてるかなど気にもしない。
アリチェの辛い顔が見たくないから、死んででも遠ざかりたいなんていう願いは――ただの、自分勝手に過ぎないとよすがは思う。
「……だから!
だからわたしは、最初に“かえれ”って言った!
さっさとわたしから逃げろって言ってたのに……!」
なんで、と苛立たしげにつぶやいて、アリチェは跪いたままのよすがに近づく。
「もういい。それなら、わたしは――」
「っ。あ……アリ、チェ……?」
小さな手でよすがの顎を掴んで、強引に眼と眼を合わせる――そして、よすがは気付いた。
今のアリチェには、自分の身体を傷つけるつもりはない。
心に、何かをしようとしている――
「……暗示とか、催眠とか、わりと得意なんだよね。
今の腰が抜けてるよすがには、最高にかかりやすいよ」
「ぁ。――――――あ」
力が抜ける。
跪く姿勢すら保てない。床に寝そうになる身体を、アリチェの腕が支える。
「ま、まって……あり……」
「……いいから。
もとの友達に、戻りたいんでしょ?
こんなこと、なかったことにしたいんでしょ?
じゃあ、全部なかったことにしてあげるよ――」
「……やだ、だめ……!」
アリチェが心底自分を気遣っていることがわかっても、それを受け入れられない自分が嫌でたまらない。
それでもよすがは、催眠に抵抗して顔を背けようとしていた。
「待って、アリチェ……待って!
ダメだよ、それだけはダメ……!」
「なにが……だめなの?」
視界がぼやける。
夢から覚めたように記憶が潰れて消える。
今自分がなぜここにいるか、誰と話しているかを、数秒のうちに辿れなくなっていく――
「だって、だって、ダメだよ……
今私が“これ”を忘れたら、誰が“これ”を受け入れるの?
こ、これ、だって、アリチェの……」
これ、が何なのか、もう理解が及ばない。
むりだよ――と、アリチェはさびしく笑う。
「よすがにはむりだよ。だってさっき、私から逃げようとしたじゃない。
……よすがは、私に何がしたいの?
ねえ、わたしのことなんかより、よすがのことを話してよ……」
「……それ、は」
すべてがぼやける。
魔術で変身を保てているのかすらわからないが、よすがはアリチェに生身を見られることを、今でも怖いと思っていた。
心はまだ死んでいなかった。自分が誰かすら忘れそうになる中で、いくつかの言葉が口をついていく。
「これ……わたしも、これ、があるけど。
こういうのが、たくさん、あるけど……
でも、それでも……」
空隙ばかりになった心の中で、言葉が弾ける。
――わたしは、寂しかった。
綺麗じゃない手で、それでも誰かとふれあいたかった。抱き合いたかった。
でもそれは、きっとアリチェと一番したかったことじゃない。
わたしは――アリチェと、笑い合いたかったんだ。
「おたがいたいへんだったねって。
がんばったねって。
これからもよろしくねって、そう――」
「――わかったよ、よすが」
アリチェの気づかいを感じる。
それ以外には何も感じられない、世界が柔らかく溶けて消えていく。
けれど――その気づかいを、アリチェの勇気や優しさとして考えることは、よすがにはどうしてもできなかった。
「でも、だめ」
それは、二人の共通の性質、友達になれた理由の一部。
それは、アリチェとよすがの“おそろい”だ。
「西東よすが。
今夜のことは、全て忘れ去りなさい」
それは、友達の苦しむ顔を見たくないと思うがあまり、もっと大切なものを砕いてしまう心性だ。
誰かの涙を厭うあまりに、自らの魂を差し出すような、全き愚かさだ。
* * *
■■■■■……アリチェのかけたその暗示は、今はもう解けている。
この夜の記憶を消されていたと気付いたのは、いつだったろう。
その瞬間後悔が無数に弾けて、いまでも私の腐った脳を苛んでいる。
だから私は、その夜を経験せずに済んだ私を、羨んでいる。
――たぶん私は、ここでアリチェの本性を知るべきではなかった。
どれほど怯えても、たとえ逃げ出しても――殺してほしいなんてことだけは、絶対に言うべきじゃなかったんだ。■■■■■
* * *
(続く)
(そして始まるのは、おんなのこがきちがいになるおはなし)