小説のよすが・第三話『藤井真理奈には何もない』

私はその夜、アリチェに伝えたいことのすべてを言えなかった。
それなのに、言うべきでないことを言ってしまった。
言えなかった。言ってしまった。
言えなかった。言ってしまった。
言えなかった。言ってしまった。
言えなかった。言ってしまった――――――
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* * *

■■■■■――これは、私がいちばんの失敗をした、その夜の物語だ。
     西東よすがは失敗する。
     そう。
    “あの人”の知る私より、更に取り返しのつかない失敗をした、これは私の物語。
■■■■■■■■■■

* * *

 よすがは行方の知れないアリチェと会うため、喫茶店を目指して走り続ける。
 家の外の乾いた空気も、喫茶店までの道の長さも、よすがの頭を冷やすには十分なものだったろう。
 ――理屈で考えれば、今のアリチェが“いつもの”喫茶店にいるはずはない。
 それでも、理屈とは別の場所で、よすがは目的の正しさを確信している。
 
 思い出を圧縮して、短くよすがは追想する。
“いつもの”喫茶店――そこにアリチェと入ったのも、ずいぶん昔のことのようだと思い返す。
 最後にあそこに来たのは、マリナと出会った日だった。
 あそこで頼んだハーブ入りのお茶にアリチェが拒否反応を起こしてしまったことがきっかけで、マリナと仲良くなれた。
 その夜にアリチェからかかってきた電話のことは、今でもよく覚えている。
「――よすがはさ。なにか、わたしに隠してることあるよね?」
 そんなアリチェの言葉は、よすがの心の底までを突き通していた。
 そうしてその後マリナの働くレストランで食事をして、三人でアンティークショップに行って――そうだ、あの時マリナの話した“おはなし”の真意は何だったのだろう?
 マリナのすることには、やはりどこか不審な個所がある。
 でも――
「それなら――いずれよすがは、アリチェに自分の秘密を話すことになると思うの」
 そう言ってくれたマリナのほほえみは、本当に優しかった。
 たとえよすがが、その優しさすら受け止められない歪んだ人間だとしても。
 よすがが、自分が他人を性的な目で見ることがあるという、そんな”秘密”にすら耐えられない弱い人間だとしても。
 アリチェに殺される自分のイメージを思い浮かべてはそれに嫌悪する自己撞着の果てに、よすがはカッターで自分の思いを綴った日記を”編集”した。
 思い出の塊を切り刻んだ刃の感触は、今でもその手に残っている。
 そして、”編集”されたものであってもアリチェに自分の正体を話したいと決意して、彼女に電話をかけたら――

 ――通話相手の電話が砕けて壊れる音。それが受話器で増幅されると、あれほど怖い音になるとは思ってもいなかった。
 よすがの走りながらの回想はそこで終わる。記憶のカバンをひっくり返しても、アリチェが今いる場所を示唆するような情報は出てこない。
 アリチェの電話以外での連絡先は知らない。友達の連絡先も、彼女が暮らしている学生寮がどこかすらわからない、
 探そうとしたところで、一切の手がかりがない――だがそんな理屈は、よすが自身もとうに理解している。
 理屈に頼れない領域では、よすがの魔術が実用的な道具となる。
「――――、――」
 詠唱も術具も今この時点では余計だった。”歩く”ことそのものを焦具として、よすがは魔術を展開していく。
 思索を故意に止める。いったん自分の呼吸と鼓動だけを意識に乗せ、次に記憶に残るアリチェの顔、声を思い浮かべ――そして自己の肉体に、”混沌”と名付けられた流体が通っていくことをイメージする。
 早歩き程度に速度を落としても動きは止めない、眼は開いても焦点を合わさず、いつしか足が勝手に動いていく。
 自分が向っている場所を、よすがは他人事のように理解する――自分はまた、あの喫茶店に行くのだと。
 そして一度展開された魔術は、止める方が難しい。
 走ればよすが自身の身体が振り子となり、足は勝手に至るべき場所へと導かれていく――


「――マリ、ナ?」


 夜の風が身体に吹き付けても、今のよすがは寒さを感じない。
 喫茶店の前で待機している女性を見た時も、何ら驚きには震えなかった。
 ただ言葉だけが不審に揺れ、待っていたと言わんばかりのマリナの視線に視線を返す。

「よすが……そう、やっぱりアリチェを探してるの?」
「マリナ、どうしてここに? あのね、さっきアリチェに電話をかけたんだけれど――え、それ……?」

 まくしたてるようなよすがの言葉に割り込むように、マリナはハンドバッグから光る塊を取り出す。

「! それ、アリチェの……!」

 ガラスが割れるどころか、中身の基盤までもが折れている。
 それほど完全に破壊された携帯電話の意味はといえば、せいぜいガラスの残骸が街灯に煌めいてみせる程度だった。
 アリチェの好んでいたケーキのストラップが、壊れた塊にくっついて揺れている。

「マリナ……それを持ってるっていうことは、あなたもあの子を探してたの!?」
「……いえ、あの子を探す必要なんてない」
「え?」
「私の家よ。うちにあの子が来て以来、彼女はどこにも行ってないもの」
「マリナの家? ちょっと待って、つまりあなたがお家にアリチェを招待して、そこであなたとアリチェが話をしてる最中に、私が電話をかけて……?」
「ええ。あの子すごいわよね。ケータイが鳴った二秒後に、自分でこれを床に叩きつけてみせたんだもの」
「……は? え、え……?」

 よすがは、自分の頭が混乱していくのを抑えられなかった。
 アリチェが自分の電話を自分で壊した?
 ――なぜそんな嘘を? いや、嘘だとして、どこにそんな嘘をつく意味がある?
 マリナの言っていることが正しいとして、アリチェは何を考えてそんなことを?
 マリナが何かしたの? マリナとアリチェは、さっきまでどんな話をしていた?

 いや。
 そもそもマリナは、いったい何者なの――?

「……混乱してるようだけれど、少し落ち着いて。
 アリチェが自分でやった、というのは嘘じゃないし、そんな嘘をつく理由だってないわ。
 彼女はきっと、そうすればあなたが焦って自分を探してくれると思ったのね――」

「アリチェが……私を呼ぶために、わざと電話を壊してみせたっていうの?」
「そうよ。でも、あなたがたどり着けなかったら困るから、アリチェは私を使いにやらせたの。
 でも少し驚いたわ。私から電話もかけてないのに、どうやって私を見つけたの?」

「それは……それは、カンみたいなものだよ。
 それよりマリナ、その説明はやっぱりおかしい。
 アリチェが私を呼ぶために、自分の電話を壊すなんて……普通に電話で呼び出しすればいいじゃない、なんでそんな――」

「じゃあ、悪意のある誰かがアリチェから電話を取り上げて、壊してしまったと仮定しましょう。
 ……それもまた、おかしいのよ。
 そんなのアリチェが抵抗しない訳がない。もみ合ったり声をあげたり、そんな音が必ず受話器から伝わるはずよ」
「それは……もみあってる最中にとっさにアリチェが通話ボタンを押して、そのまま電話が床に落ちて、とか……」
「いいえ。私も横で聞いてたもの、わかるわ――
 あなたが通話をはじめた後に聞いたのは、数秒の沈黙と、アリチェの電話が壊れる音、それだけだった。
 通話がはじまった時にもう電話が落下していたのなら、数秒も間があるはずがないわ。
 外部からの介入はなかった。アリチェは自分の持ち物を、自分の意志で壊してみせたのよ」
「っ……そんなはず、ない……!」
 苛立たしい。よすがの視線が険を帯びる。
 アリチェがそんな意味の分からないすることをやるわけがない。
 アリチェは違う、そんなのじゃない――

「あなたからすれば、私が怪しく見えるのも仕方ないかもしれないけれど……
 ――そうね。私がやったとすれば、私は悪意の塊ね。
 アリチェを助けも求められない状態にして、どこかに監禁でもしてるのかもしれない」
「……マリナ、どうしたの?
 アリチェだって、あなたが言っているようなことはしないし……それにあなただって、いつものマリナじゃないみたいだよ……」
「いつもの私? ――何のこと?」

 今夜はじめてのマリナの表情の変化。
 だがかすかな笑みは、ただの口元の裂け目でしかなかった。


「“いつも”とは程遠い事態は、もうとうに起きているのよ。
 ――可能性を考えましょう。アリチェが、自分で自分の所有物を壊したとすれば、どうかしら?」
「……だから、そんなのは」

 マリナの、唇がゆがむ。
 そして――

「ありえない? 普通じゃない? まともじゃない?
 なら、アリチェは――」

 
“――彼女は、異常者なのよ”
 

「……マリナ」
「ええ」
「今、なんて言った?」

 なぜ自分がマリナを殴り倒していないのかわからない。
 そこにナイフがあれば刺していたかもしれない。息をする間に異常な域に達した怒りが、よすがの頭を痺れさせる。

「言葉通りよ。アリチェの本性は、今のあの子に会えばよく分かるわ」
「……いいから。今の言葉を、訂正して……!」
「すごい顔ね。そんな今のあなたは、正常? 異常?」
「話を逸らさないで、私のことなんかどうでもいい! それより――」
「でも、私は寒いわ。――ほら、こっち」
「……っ!」

 突然歩いていくマリナに、よすがも追いかけざるを得ない。
 よすがの怒りを逸らし、間を外す彼女の動きは堂に入っていた。
 まるで獣の調教師だ、とよすがは皮肉に思う。
 今のマリナの挙措は、軽くも重くもなければ、優しくもなかった――


* * *

■■■■■そして、私は失敗する。■■■■■

■■■■■……今でもこの夜のことを後悔している。
本当に憎むべきは、アリチェのことをなにひとつ知ろうとしなかった私自身だったのに。
■■■■■■■■■■

* * *


 よすがは他者への悪意を持続させられない性質だった。
 抱いた時は殺意に近かった怒りも、抑えてしまえば萎むのは早い。
 マリナの住むマンションは、喫茶店のある商店街からほんの少し路地に入った場所にあった。

「入って。アリチェもこのマンションの中にいるわよ――ああ、あの子が勝手に出て行っていなければね」
「マリナ……」
「うん?」
「……今のあの子に会えばわかる、って言ってたけど。
 今のアリチェは、そんなに様子がおかしかったの?」

 マンションのロビーは広くはないものの、静かで人もいないのは、よすがにとってありがたかった。
 鋭く問い詰めるつもりの言葉も、思ったよりうまくいかない。
 マリナも考え深げに沈黙してから、返答とは違う言葉を慎重に述べる。

「……喫茶店であなたの悩みを聞いたの、覚えてる?
 あの少し後に私、アリチェとも話をしてたの」
「アリチェと……二人きりで?」
「電話だけどね。私も、あの時ようやく気付いたわ――あの子にも、あの子なりの悩みがあったんだって」
「……私も、それは……そういうことは、ちゃんと考えてなかった……」

 アリチェはアンティークショップで吸血鬼の写真に対して怯えていた。それにも深刻な理由があったのかもしれない、とよすがは思い出す。
 それにハーブに対するあの拒否反応は、まるで漫画に出てくる、ニンニクを忌避するあの種族――

「……アリチェは、マリナにどんな悩みを話したの?」
「そうね。まあ……ちょっと、非常識なことを言ってたわね。
 アリチェは言ってたわ、私の血が吸いたいって。
 彼女は――吸血鬼なんだって」

 よすがに驚きは、やはりなかった。

「――そっか」
「さっきはあんなに怒ったのに、そこはびっくりしないの?」
「……うん。
 驚くよりも、アリチェが私にそれを話さなかったことの方が、つらいかも」
「あの子は、あなたに嫌われるのが怖いのよ」
「……そうかな。アリチェにも、怖いことがある、んだよね」
「ええ。あの吸血鬼の写真を怖がってたみたいに――」
「……そうか。アリチェは、吸血鬼が怖かったんじゃない。
 知り合いに怖い吸血鬼がいて、それを思い出して怯えてた。そういうことだったんだね」
「――――」
「知り合い……いや、そうだ、アリチェのお父さんはすごく厳しかったっていう話は、聞いたことある……
 私の知識なら少しくらいは助けになれるかもしれない。
 擬似的な血潮を作れば飢えた時に役立つかも、でもお節介かな……」

 そうつぶやく横顔をじっと見て、マリナは咳を払う。

「よすが、あなたオカルトにはまってたり――いや、違う。そういうレベルじゃない。
 あなた、本物の魔術師ね?」
「え? マリナ……」
「違う?」
「……いや。違わない、けど……」

 よすがは目を丸くして、マリナを改めてまじまじと見る――
 そして、気付いた。
 大鍋に垂らした酒一滴を嗅ぎ当てるようなものだったが、それでも今なら感知はできた。
 微弱な、ほんの微弱な“混沌”の流れが、マリナからも感じられる。

「マリナも、魔術師だったの?
 全然わからなかったよ。それこそあなたは、オカルトの話なんて全くしなかったし……」
「だって私、魔術とか学んだこともないもの。
 修行なんて、普通に無理だもの」
「マリナは……そういうことに、あまり興味がないの?」
「そう。悪魔に魂を捧げるくらいなら、ふつうに生きたかったから。
 私が使える魔術は、ふたつ。
 そして、実際に使っている魔術は、たったひとつ――これだけよ」

 そう言うとマリナは傷一つない両手を掲げてみせる。
 やっぱり綺麗だな、なんて他愛のないことを思った瞬間、両手はとろんとした紫の光にぼやけた。
 数秒後――紫の光が消えた後の手によすがは息を呑む。
 あかぎれと新旧の火傷の痕、マリナの手には幾条もの傷が走っていた。

「変身の魔術!? マリナ、その傷は……」
「……普通よ。
 コックの手が綺麗な手でいられるわけ、ないじゃない」

 つぶやく声が、柔らかさと寂しさを帯びる。

「別に料理なんて好きじゃなかったのに、就職先が決まらなくて、結局アルバイト先のレストランの店員になって……
 ……ふつうにこなしてきただけなのに。気がつけば、こんなになってたの」
「ふつう? これ、が――」
「そう。むしろ、普通以下かもね。
 不器用だからケガをして、痕を隠すのが面倒だから、魔術なんかに頼ったの」
「それは……そんな、まるで……」

“まるで私みたいだ――”という言葉を、よすがは飲み込む。

「……マリナは、どうやってその魔術を覚えたの?」
「しゃべる猫がね、私の前に現れたのよ」
「しゃべる、猫? それって……」
「……まあ、悪魔のたぐいよね。
 本当に唐突だった。火傷をメイクで隠すのが面倒で仕方なかった時期に、あいつは私の家の前にいたわ。
 あの猫は魔術の知識とか、オカルティックな世界観とか、そういうことを教えてくれた。
 ああ。平行世界が実在するだなんて――そして魔術で平行世界に旅行できるだなんて、知った時は驚けばいいのか笑えばいいのかもわからなかったわ。
 結局、私は魔術の素質なんてなかったみたい」
「マリナは、その……猫と、あまり仲良くなれなかったの?」
「そんなのムリよ、最後まで何を考えてるかもわからなかったんだもの。
 仕事の愚痴をあの猫に話してる時に言われたわ。
 “あなたは何か尋常でない鬱屈を抱えているのかと思っていたのですが、別にそういうわけでもないようですね”って――失礼しちゃう」

 マリナは無表情を解く。
 それは、一言では言い表せない表情だったけれど――よすがはアルバイト先で、そういう表情には見覚えがあった。
 古本屋の店主が、客が来ない時にたまにするような顔。
 悲しい、とも言い切れず、どこか可笑しさが混じったような、そんな薄い悲哀の顔だった。

「私の覚えが悪かったからか、他の物差しで私を判断したからか、それはわからないけれど――
 悪魔は一ヶ月もしないうちに、私のところから消えたわ。
 二度と、会うこともなかった」
「――でも、魔術の知識が消えることはなかったんだね」
「……そうね。むしろあの猫が消えてから、オカルトへの好奇心は増してたわ。
 普通の子に話したらドン引きだもの。滅多に口には出さなかったけど、私みたいな魔術師がこの街にいないかって探してたわ」
「それじゃあ、もしかして……それが、私たちの友だちになってくれた理由?」
「……半分はね。
 アリチェはあからさまに超常体質だったし、あなたからも“混沌”のオーラは感じられたし。
 でも――」

 ううん、とよすがは首を横に振って、その先の言葉を制する。
 でも、の先を知りたくない怯えが、マリナに全てを話させることを拒んだ。

「……そうか、そうなんだね」

 その代わりのように、心に理解がやってくる。

「マリナ。あなたは何者なのかって、私は疑ってたけれど……
 ……何のこともないね。あなたは、ふつうの人だったんだ」

 マリナは数秒の間絶句する。
 空気を求めるような喘ぎは言葉にならない。
 今しがた胸をナイフで刺されたのだと、そう言わんばかりだった。

「……そうね。
 私は、ほんのすこしだけ魔術を使えるだけの、普通の女よ」

“ふつう”と“異常”の境界が、よすがの目の前で揺れている。
 どこか哀しい共感が、よすがの胸に染み渡る。
 ――この人もまた、装っていたんだ。
 普遍の鬱屈を抱えて、ふつうのおとなを、やっていたんだ。

「……あなたは、もう行きなさい
 アリチェがいるのは403号室よ。
 鍵はかけずに出ちゃったから、いつでも入れるわ」
「マリナ……アリチェ――」

 壊れた電話は、室内の灯りにきらめいている。
 マリナはよすがの目の前で、アリチェを異常者と評してみせた。
 だがそれは、無意味な挑発ではなかった。
 アリチェの正体を明言した上で、引き返すなら今だと、彼女は暗に告げている。

「……マリナは、どうするの?」

 マリナの手から電話を預かると共に、おずおずと伺う。
 返ってきたのは、温度のない微笑みだった。

「私は、もう怖いわ。
 あなたもアリチェもふつうの女の子なのに――していることだけが、普通から外れてしまったんだもの」

 その言葉で、もうこの人はわたし達のことを助けてはくれないのだと、よすがは理解する。
 いや――そもそも、マリナが自分たちのために少しでも身を削ってくれる道理は、どこにもない。
 彼女が求めているものを、アリチェもよすがも、持ってはいなかったのだから。

「マリナ……」

 アリチェが危うい娘だというのが本当のことなら、彼女は自然にアリチェやよすがを避けるだろう――もう会うことはないとしても、何も不自然じゃない。
 それが別れの言葉になるなら――たぶん、ごめんなさい、とだけ言いたかった。
 けれど謝意は寂しさに打ち消される。

「……あのね、マリナ。
 手の傷、隠さなくてもいいんじゃないの?」

 よすがの心の反響は、自身でも予期しない言葉になって口をついた。

「え? それは、そんなの……」
「だって、あなた自身が言ってたじゃない。
 そんな傷くらい、普通だよ――」

 ――私と違って。
 そう言いたかったのか、それとも私と同じように、と言いたかったのか、今のよすがにはわからない。
 マリナはその問いに答えなかった。
 わずかに首を横に振って、よすがに静かな言葉をこぼす。

「――どうして私に、私自身のことを考えさせるの?」
「え?」

 静かな口調に反して、マリナの口元は歪んでいた。
 その歪みの意味をよすがは知っている。
 それは、自己嫌悪というものだ。

「よすが。私が年をとってわかったのは、わたし自身には何もないっていうことだけなのよ。
 だから私は、魔法みたいな良い子と逢いたかったの。
 ほんとのことを言うと、混沌の力なんていうものはどうでも良いのよ。
 でも超常の力を追えば、普通と違う心の持ち主と会えるかもしれないでしょう?」
 上辺の綺麗さが本心まで達しているような娘。
 そんなおんなのこと、私は会いたかったの」
「それは……どうして?」

 よすがの喉に嫌な塊が膨らむ。
 どうして、と聞く自分の声がきもちわるい。

「だって、心に何かある子と対面したら、私も何かを考えなくちゃいけないから」
「……マリナ、なに言ってるの。
 前に私の相談に乗ってくれた時、あなたは何も考えてなかったの……?」
「ああ――あの時は、あなたは大丈夫って言ってほしかったんでしょう?
 だから大丈夫よって、そう答えただけよ」

 目に涙が滲んだのは、酷い言葉だと思ったからではない。
 本当に酷いものは、よすが自身の内にある。
 
「私はもう疲れたの。
 私は、自分でいたくない。
 自分の頭で考えたくない、自分の心で感じたくない――」

 頭痛に似た感覚がする。
 いま自分を襲う、目眩のような感情はなんだろうと、よすがは自問する。

「だからね。
 私は、アリチェが綺麗なら良いと、心底から思ったの」
 
 それは失望だ。
 くだらない、と心の底から感じた理由は、自問するまでもなかった。
 眼の前のマリナという大人が抱えていた考えが、よすが自身の考えと、酷く似ていたからだ。
 ――何も考えずに過ごすために、綺麗な心の持ち主を求めていた。
 自分もそうだ、とよすがは共感しかけて――アリチェのもとに行くために、その共感を押し殺す。

「……マリナ」
「うん?」
「私は……もう、行くよ」
「それなら忠告しておくわ。
 アリチェと対面するならば、あなたが自分をしっかり持つしかない。
 後戻りができないようなことには、ならないようにね――」

 その言葉がいかに柔らかく響いても、マリナの表情から優しさを読みとることは、もうできない。

「――と、大人としては気遣うべきだろうけど。
 でも、本心では思う。
 何もできないわたしのかわりに、あなたがなにもかも壊しちゃうなら、それがいちばんきもちいいの」
「壊す……私が?」
「ええ。もしあなたが、いずれ“あれ”に至るのなら――」

 厭わしいものを口にする喜びを込めてマリナがつぶやく。
 よすがは暗黙のうちにその正体を察した。きっと“あれ”とは、マリナが少し前に言及した――彼女が行使しうる、そして永遠に行使することがないだろう、ふたつめの魔術だろう。
 マリナと違い、よすがの魔術の全ては独学だった。
 唯一の教師はただ一冊の本。何度も何度も読み返した魔術書の中に、よすがには思い当たるものがあった。
 魔術によって、文字通りなにもかもを壊す方法があるとすれば、それは物理的な破壊ではない。
 何らの炎も伴わない、疎んじるべき魔術書の最奥――

「それは因果破壊の魔術。
 この世でもっとも後ろ向きな、混沌のちからよ」

 心の底から失望する。
 ――そんなものは、使わない。
 決して。



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