小説のよすが エピローグ

 ――そして、これが、本当の“いま”。
 今、よすがはひとりだった。




 自分は〈混沌〉に取り込まれて消失するのだ。
 だって人間は、自分の限界以上に〈混沌〉に親しむことは出来ないから――
 そう思っていたのは、甘すぎる予想だった。

 確かにアリチェを殺害した直後、いったんよすがの肉体は〈混沌〉に溶け去っていた。
 けれどすぐに、現実世界に身体が吐き出されたことに気付く。
 ようやく意識が戻って、見下ろした自分は――今までの容姿が穏当に思えるほど、粘土のように歪んでいた。
 右腕に関節がふたつ増えていた。
 もげて落ちていた肉片は自分の鼻だった。
 血は紫色に濁っていた。

 こぼしたゼリーのようにそのまま飛散しそうになる肉体を、かろうじて魔術で整える。
 その後も〈混沌〉に呑まれては戻り、解滅と再生を繰り返す。
 心もその例外ではなかった。
 これほど失ったらとても自分を保てないと、そう怯える以上の記憶を吐き出させられる。
 自分の経歴と家族のことを忘れ、食事の仕方を忘れ、歩き方を忘れ――“忘れていた”と気付くのは、記憶が再生してからのことだった。
 
 生活どころか金銭の概念すらあやふやになっても、時間は容赦なく過ぎ続ける。
 最初は飢餓に怯えて冷蔵庫の残り物を漁ったが、すぐにそれは不要だと気付いた。
 何かを食べること自体がこの身体には不要だった。少量の水をすするだけで、四大元素に含まれる〈混沌〉をいくらでも循環できた。
 今では本を読み込んで魔術を覚えていた自分も遥かに遠い。
〈混沌〉はすぐそばにいくらでもあるのに。空気や太陽の光からでも取り出せるようなものに、どうしてあれほどの手間をかけていたのかが分からない。

 そうして発狂する。
 止まらないおかしさに高らかに笑う。
 死ねない自分を笑って、何ひとつ有意な行為をできない孤独に笑う。
 夜に街を歩き、通行人に悪夢を見せて笑う。
 数日は一瞬だった。
 時間の流れは記憶の失効により意味をなくした。
 空間の広がりは魔術にねじまがり弄ばれた。
 もはや〈混沌〉の遊び場でしかないこの世界を笑って、笑って――

「……アリチェ」

 まぼろしに気付く。
 建物のガラス戸に、ふたつ結びの金髪が映っていた。

 彼女をこの手で燃やした事実は、ずっとずっと刺さり続けていた。
 気が狂えば逃れられると思っていた痛みは、何も重みを減らすことがなかった。

 よすがは街を歩く。
 今度は人目を避けて、裏路地のさらに裏に分け入って。
 
 笑いを収めて、ひたすら歩き――目指すのはこの世界ではなく、過去に垣間見た平行世界の広がりだった。
 壊れた自分がアリチェのまぼろしを見ることは不思議ではなかった。
 けれどそれが、もし幻覚でも妄想でもなく、本物の別の世界のアリチェであるのなら。
 ――その可能性があるだけで。
 平行世界のアリチェは、今でも元気でいるのかもしれないと、その妄念を抱くだけで――
〈混沌〉はきっと、よすがを別の世界に連れて行ってくれる。

 歩く。もはや地面は地面ではない。
 壁を歩き、宙を歩き、次元の狭間を越えていく。
 心も身体も変形を繰り返しながら、たったひとつの目的で転げていく。

 視界はミラーハウスを進むかのように歪んでいく。
 自分ではない自分、アリチェではないアリチェが現れては消え、しかしその全てはまぼろしに過ぎない。
 どれほど無数の並行世界があっても、その世界と接点を持てるのだと信じられない。
 いつまでこれが続くのだろう、と、そう思った頃――

“――ね。私たち、友達になれるかな?”

 そんな声が、確かに聞こえた。
 自分のいた世界と極めて近い平行世界に接触できた――
 そう直感すると、その世界の歴史が拓ける。
 マリナとよすが達が出会わなかった世界。
 結果、よすがが“あの人”と出会う前にアリチェの本性を知ってしまうという事件が起きなかった世界。

“あの人”とは誰のことだったか。それが、今のよすがには思い出せない。
 けれど、平行世界の向こうの光景が何なのか、理解はできる。

 これは、よすがとアリチェと、そして“あの人”の、出会いの光景だと。

 焼き切れた記憶がわずかに再生する。
 アリチェがよくない男に絡まれているときに、たまたま視界に入った人。
 よすがはその人をネタにアリチェに絡んだ男を言いくるめて追い払う。
 そこまではそっくり同じだった。
 平行世界の“あの人”の容姿や言動が、自分の世界のそれと一致しているかはわからない。
 もう記憶の中に、“あの人”の情報は残っていない。

 いつしか歩みは止まっていた。
 今のよすがは次元の狭間に揺らめく亡霊のようなものだ。
 まだ平行世界を観測することしか出来ず、干渉することはできない。
 けれど、“あちらの”よすがが、時空に干渉するような愚かな魔術を使えば――時空のゆらぎを利用して、世界を越えることができるだろう。

 今はただ、世界の壁の向こうを、眺めることしかできない――
 平行世界のよすががアリチェと笑っている、その光景への羨望だけで気が狂う。
 観測するという正気を保つことすら、今はひどく難しい。

 そして不安のあまり気が狂う。
 平行世界のよすがもまた、自分と似た破滅願望を抱えているのだろう。
 そんな愚かさが、アリチェや“あの人”を巻き込むくらいなら、今すぐあちらのよすがを破壊してしまいたい――
 けれど今は、じっと世界の向こうを眺めながら待っている。

 あちらのよすがは、死ねばいい。
 ころす。
 けれど、アリチェは絶対に死なせない。

 もし平行世界のよすがとアリチェもまた、お互いを傷つけあうだけの関係に落ち込むならば、その世界のよすがを殺す。
 そうなりかけただけでもよすがを殺す。
 殺すことが駄目なら心を壊す。
 とにかくよすがは破壊する。

 けれど――そんな狂気に落ちた自分が、必要とされないことを、心の底で願っている。
 平行世界の三人は、アリチェのためにワインボトルにビー玉を貯めていく約束をするだろうか。
 約束が守られる光景を胸の内で待ち望む。
 弱かったふたりの女の子が、ただの自分でいられるための結末を希う。

 ずっと心の嘆きを抑え続けていたアリチェが、もし心のままに泣けるのならどれほどいいか。
 ついにアリチェを支えられなかったわたしが、もし人並みの強さを得られるのならどれほどいいか。


* * *


 そうしてよすがはあのひとにいのる。
 正体不明の、すきなひとじゃないすきなひとへ。
 代替不能の、ともだちになれなかったともだちへ。

 ――きっとあなたは、いつかアリチェとよすがの、隠された顔を知るでしょう。
 それは二人の弱さ。
 きっとそれは酷いもの。
 その酷さは、受け入れられるようなものじゃないかもしれない。
 けれど――


 受け入れなくてもいい。
 ただ、あなたは辿り着けばいい。
 自分自身の意志で。自分自身の約束のために。


(のよすが・前日談『ころされてあげるから』おわり)


(そして、ゴースト『のよすが』へ)

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