『いつかまた』第5話“cross over”

 山に来て ひとよ
 優しい焚き火の色が
 ぼくを げんしじんにするのだ
 
 ぼくはおれになりおれはもう
 遠吠えして
 肉の心は
 地中の鉄の錆の色
 まえは愛や恋だったにんげんの死体を
 岩や
 苔や
 林や
 雪や
 山の時間の中に葬ってくる
 
 火がとろりとあがり
 火がちょろりとくるう
 
 ふん だ
 ふふん
 
 幻想舞い
 木々の梢がかぶさって
 暗い夜空に
 遠吠えが立ちあがる
 
 焚き火を見つめ
 自分のけものをけものが見つめ
 ぼくはぼくを見つめ
 もうぼくの中にあなたはいないよ
 ひとよ
 ひとよ
 けものになってゆくぼくをとめてよ

 
                   ――岩村賢治『深山幻想』


  
 苺々の家の家賃は法外に安い。
 噂によると前の住人が謎の失踪を遂げたからだそうだが、事情を知っている――しばらく前に知った苺々にとっては、一方的に得なだけだ。
 アルコルとの邂逅の後。苺々は何もしないのだと決めてから、しばらく経った夜だ。
 苺々が寝不足の顔でいる隣で、桃歌は眠っていた。
 鎖を首につけたままで。
 苺々にはその寝顔は、重たそうな、辛そうなものに見える。
「…………」
 それでも桃歌の寝顔を、苺々は可愛らしいと思った。
 ――待ってる。
 彼女は、そう言っていた。
 ――苺々ちゃんが、もう少しだけわたしの事を信じてくれるようになるまで、わたしは待ってるよ。
 苺々は桃歌のことを愛している。
 けれど今はまだ、その愛を自分のためにしか使えない。
「ねえ、桃歌――」
 目覚めている彼女にそれを聞かせる事すら罪深い、と、そう思って。
「大好き」
 そう、寝顔にささやきかけた瞬間。
「……っ!?」
 ずん、と重い揺れが、二人の部屋を襲った。
「――な、なに? 地震っ?」
 桃歌はすぐに跳ね起きていた。地震だとは思えないからこそ、彼女はこれほど慌てているのだろう。
 苺々は素早く窓の外に視線をやり、遠方に火炎の色を見て取る――これは、遠くない場所からの、爆発の余波だ。
「苺々ちゃん……」
 桃歌の不安げな声にも、まだ答える事ができない。
 恐らくはアルコルたちの仕業だろう。ならばその理由は、月夜を殺すため以外にありえない。
 ――このまま家にこもり、桃歌を守るか。
    それとも外に出て、桃歌と共に逃げだすか。
 前者を選べば、無駄な危険に身をさらすことはない。
 だがもしこの建物にも爆発物が仕掛けられているならば、確実に二人とも死ぬだろう。
 戦闘において他人を巻き込むことに対し、アルコルがためらいを覚えるかどうか――絶対にためらわない。
「桃歌」
 苺々は思う。
 これから自分は、ひどく傲慢な事を言う。
「とても危険な奴らが、私たちを戦いに巻き込もうとしてる」
 たった今まで怖くて覗き込めなかった桃歌の目を覗き込む。
「私たちの家も壊されてしまうかもしれない。もちろん外も危険だけれど、ここにいる場合の危険よりはましだと思う」
 桃歌の反応は――その目を見る限りは、真摯なものだった。
 その身をさらわれた経験があるのだ。彼女は、危険に対して鈍感な性格ではない。
「ほとぼりが冷めるまで、〈塔〉に――いや、あそこが安全だという保証もないか。
 できる限り遠くまで、走る事になると思うわ」
 こんな状況に際し場慣れしているのは、明らかに桃歌ではなく苺々の方だ。
 二人とも生き残りたいならば、桃歌は苺々の指示に従うしかない。
 けれど。
「桃歌は、あたしから(・・・・・)逃げたりしないよね?」
 ――今になっても、こんな最低の信頼しか、桃歌に寄せてあげることができないのに。
 桃歌の唇がわずかに歪む。
「苺々ちゃんは、わたしのことを守ってくれるよね」
 笑っているのだと気付いたのは、しばらく後になってからだ。
 苺々は大声で泣き出したくなった。
 ――帰ったら、絶対に、桃歌の鎖を外す。
 桃歌を自由にする。今までそう思ったのは何度目か分からないけれど、自分は言葉に出してそれを誓えないほどに臆病だけれど、それでも今度こそ。
 そして随分と久しぶりに、苺々は桃歌の手を引いた。
 前の住人の遺物は、桃歌によって整理された形で箪笥に収められている。
 最低限の貴重品と、もしかしたら必要になるかもしれない水晶球。それだけを鞄に詰めて、二人で家を出た。
 ――桃歌が靴をはくのもまた、随分と久しぶりの事だ。
 

 そして結論から言えば、二人は無傷で戦場を脱しかけていた。
 苺々には嗅覚がある。血の跡とわずかな物音から戦場となりうる地域を先見し、土地勘を頼りに地図を縫った。
「…………」
 桃歌も苺々も、先ほどから一言も喋っていない。二人はしっかりと手をつなぎ、苺々が桃歌の速度に合わせて歩いている。
 弾痕や血痕。そんな暴力の痕跡は、苺々が予想していたよりは少ない。
 戦いの最中を目の辺りにすることすらなかった。一度だけ道端に死体を発見したが、桃歌の手を引いて通り過ぎたのみだ。
 アルコルの仲間が手回しをしているのか、警察や消防もまだ来ないらしい。――五十人の手練がいるならば、街ひとつにたいていの操作を加えられる。
 外灯がちらついている。月光の下で、桃歌の顔が良く見えない。
 二人はある公園を通り過ぎ、小さなビルの前まで来ていた。
 ここより先にアルコルたちの気配はない。ここを通り過ぎ、その先の大通りにでも行けば、当分は安心だろう。
「え?」
 そう、苺々は思っていた。
 苺々がビルを見上げた瞬間、嗅覚を通り越した本能が、直接心臓を打撃する。
 窓の中に、闇がいた。
 そう理解した時に、脳が身体の指令を放棄した。
 ――あそこだけは、だめだ。
 羽蟻が蜘蛛に捕らえられたならば、生きて帰れない。
 刀で心臓を貫かれたならば、生きて帰れない。
 あのビルの中に入った者は、決して生きて帰れない。
 いや違う、自分はビルの中に入るのではなくその足元を通り過ぎるだけで、だから安全でどこまでも安全で苦しみはなく即死して逃れる事はできなくて、だからだからあたしは桃歌を守らなくちゃいけなくて、あそこにいるのは一体なんだ(・・・・・・・・・・・・・)
「苺々ちゃん……!」
 桃歌が苺々の腕をしきりに引っ張っている。
 なぜか二人の中で苺々だけが、あのビルの中に入ろうとしていて――それを桃歌は、今まで必死に止めていたらしい。
 ビルの中からの強い魔術か、それに類する異能による誘惑。今はそれしか分からない。
 苺々は誘惑に抵抗し、桃歌の手に従おうとして――ふと、笑った。
 鞄から小さなポシェットを取り出し、それを桃歌に押しつけた。
「え……?」
 用意のいいことだ、と苺々は自分を笑う。
 銀行の通帳。保険証。家の合鍵と周辺の地図。〈塔〉への行き方と、アルバイトが可能な場所への連絡先。その他雑多な書類とメモの類。
 要するにそのポシェットの中身は、苺々が死んだときに、桃歌に託すべきだと考えた全てだ。
「ここから、まっすぐ走って。
 何があっても振り向かないで、それから夜が明けたら家に戻ればいいわ」
 ――ああ、そうか。
 その時、ふと月夜の事を理解する。
 何より辛いのは別れではなく。
 また会えると、そう思う事が辛いんだ。
 この手を放したくない、別れたくない、もっと桃歌の顔を見ていたい。
 そのためだけに彼女を縛った。愛しすぎて気がおかしくなって、桃歌を自分の奴隷のように扱った。
 けれど、ひとつだけ思った事がある。
 桃歌の鎖の施錠は簡単な魔術によるものだ。勿論施術者は苺々で、解除の条件は術者の意志か死。
 このビルに入りさえすれば、苺々は絶対に約束を守れる。
「……苺々ちゃん?」
 桃歌が呆然とした顔を浮かべた、その瞬間に。
 きっと何の役にも立たないだろう水晶球の入った鞄を、もう一度抱えなおす。
 苺々は自分の意志で、地獄へと走っていった。
 
 さよなら。

 
 
 それは、ひどくさびしい風景だった。
 視界に映る人間が、皆片端から死んでいる。
 いるのは何処とも知れない部屋の中。視線を動かしてみれば、そこは全てが描かれた後のキャンバスだ。
 床は赤塗り。
 一人二人が鮮血でもって虹を描くくらいなら、床本来の色も見えたろうにと思う。十人を越える人間が砕かれて撒かれているせいで、床に流れる血は未だに固まらない。
 壁は赤塗り。
 男とも女ともつかない誰かが、壁に執心して頬擦りをしているように見えたが、良く見たら頬から頭蓋が砕けていた。
 苺々自身の体も血にまみれているはずなのに、その身体はどうしても視界に映らない。
 その部屋は腐っていた。
「……あ」
 その部屋は尊かった。この部屋の主に相応しく、全てをあらかじめ(あつら)えたかのように。
「――残ったのは、貴様だけだ」
 ひどく冷たい声が、苺々の意識を縛った。
 視界に映る人間は、皆片端から死んでいる――故にその声の主は、人間ではない。
 黄金率の肢体。黒く、長く、どこまでも流れていく髪。
 床上に満月が在る、という錯覚を覚える。それほどに彼女の瞳は深く、禍々しく赤かった。
 その身には服らしい残骸のみがこびりつき。
 全身は精液と血の混合物にまみれ。
 だと言うのに裸の身体は紅潮を知らず。
 彼女は世界の支配者だ。
 ――苺々とさして変わらず、全員が自分から(・・・・)死にに来たのだろう。
「どうして」
 そんな光景を目にして、どうでもいい言葉が口から漏れる。
「どうして、私だけが……?」
「我は骸を数えていた」
 なんということもなく、彼女は漠然と部屋を眺めやった。
「二で割り切れたなら蛙を殺す。でないならば牛を殺す」
 それは戯れに。
 一時の惑いもなく、確かに彼女は苺々を殺すだろう。
「ああ……」
 鞄を抱えたまま、その場に崩れ落ちる。
 べしゃりと音を立て、誰かの血塊が体重で潰れた――腰が抜けたのかどうか、それすらも良く分からない。
「………………つき、よ」
「我を、その名で呼ぶか」
 彼女の――黒い月夜の表情が、はじめて人間らしく変わった。
「――そうか。貴様は、あちらの月夜の餌であったな」
 末期を述べよ、とつまらなさそうに言葉を落とす。
「せめて命を乞え。先の骸とて、その程度の芸当はしたものを」
 眼前の姿を正視できず、一秒ごとに喉が潰れていく。
「あ、の――」
 苺々は、地面を這いずるようにして言葉を漏らした。
「あの、白い……白い、月夜は……?」
「あやつは、我に敗れた」
「え?」
 呆然とした苺々を見て、月夜は愉快げに頬を歪める。
「生に倦んだのだ。我らは表裏、表の想いが弱まれば裏が強まるは道理であろう?」
 月夜の言っている言葉の意味は、苺々には良く分からない。
 ――ただ、生に倦んだという言葉だけが。
「何を呆ける?」
 ――だって。
「そんな事は、ない」
「……何だと?」
 月夜の眉が、わずかに歪む。
「…………あの人には、好きな人が、いるから」
 今の自分が何を言っているのか、苺々には良く分からない。
「あのひとの事が、好きだから」
 苺々には月夜の事が分からない。何ヶ月も一緒に暮らしている桃歌の事すら分からないというのに、一度だけ出会ったのみの彼女を理解する事などできないだろう。
 けれどいつか見た寂しさだけは本物だ。
 ――だから、死なない。
 寂しくとも、終わらない恋をしているから、生きる事から離れられない。
「だから、負けるのは……」
 苺々の中で、論理が飛躍する。
 根拠はない。けれど恐らく、黒い月夜は白い月夜に勝つ事ができないだろうと思った。
 そう思い、月夜に視線を合わせようとして――
「戯言にしては楽しめた」
 月夜は、微笑(わら)っていた。
 口元は裂け目のように。
「…………ひ、」
 喉が凍りつき、言葉が出なくなる。
 まるで幼子に対するように、月夜は片腕で苺々を抱えあげた。
「――ああ。古き主か」
 ひとときだけの透明な表情。
 いまだかすり傷も負っていない苺々は、冗談のように血まみれだ。
我ら(・・)と古き主の別れより、幾年が過ぎたか。
 あやつは諦めた。諦めの上に重ねた諦めを不屈としたが、何を取り戻すべきかも忘れた女よ。
 ――人や、猫には、たかが百年も長すぎたか」
 沈黙したままの苺々を、月夜は見下ろす。
「どうした。既に言葉も尽きたか?
 ここで我の手に屈するなら、今まで耐えてきた意味もなかろうに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
 そんな事を言われても、身体どころか思考すらろくに動かない。
 その代わりに空想がうごめいて、苺々の心を刺した。
 ――ああ、そうか。
 このひとも、やっぱり月夜なんだな。
「ふふ」
 彼女の左手は胸をやさしく撫でる。場違いな快感が、胸の奥にほどけた。
 だが白く伸びやかな指は、触れただけで苺々の心臓を探り当てる。
「褒め置こう」
 気が触れるほど美しい笑み。
「絶えて無かった事だ。
 貴様は、我を怒らせた」
 ――月夜は、あの女性と別れる時に、何を思ったのだろう。
 それは永劫の別れではないのだと。いつかまた出会うのだと、そう心に決めたのだろうか。
「――――せよ」
 ならば。
「――顕現せよ今この場にある真実よ、知られざる精霊の名において」
 いつかとは、今だ。
「…………何故だ?」 
 それはただの偶然に過ぎないのだけれど。
「――ドライツェル・ゲルメズ、引かれたる弓矢の手よ」
 どうやら今、月夜を助けてやれるのは、この世に苺々だけしかいないらしい。
「何故貴様が、古き主の――我らの知らぬ魔術(・・・・・・・・)を知っている……?」
 それは苺々の住んでいる家が、あの女性の住処だったからだ。
「――配置せよ。北方に光、東方に光、西方に夜、南方に闇。汝が名は時の司祭」
 鞄から水晶球がひとりでに転げ落ち、薄青の光をたたえて浮き上がる。
「――配置せよ。朝靄に地、白昼に火、黄昏に水、白夜に風。汝が名は空の賢者」
 あの女性はその家で、次元間を渡るための魔術を研究していた。現実世界(マテリアル)から星幽界(アストラル)と呼ばれる世界へ、恐らく一方通行の。
 住人の失踪とは、その魔術の成功――あるいは失敗のためだろう。
「――ナーレンジー・ザブス、ナーオミーディ・ハダフ、我が目は閃光の一指、彼方より見定める者」
 月夜がこの魔術を教わっていないのは――恐らく、魔術が成功したからだ。
 月夜があの女性と共に星幽界(アストラル)へ渡り、そしてあの女性の関知しない事情によりふたつの次元をさまよう身となったならば、教わる意味はないと思われただろう。
「――行け、流れ行く夜の月。来い、流れ行く夜の女」
 そう、本来ならまるで意味はない。
 あの女性自身すら適任とする人物を思いつかなかった、現実世界(マテリアル)からあの女性を呼ぶための術などは。
「――我が魂は時の一指、神ならざる者はここに在り、契約の名はひとつ」
 苺々の〈塔〉とはまるで違う系統の魔術だ。苺々が、系統のみの違うほぼ同一の術式――〈塔〉へと渡るための術式を知らなかったならば、読解も習得も不可能だったに違いない。
「……その名は、――は、ぐっ……!」
 だが、その為に術式の違う箇所を越えられない。
 深海で潰されるような、唐突なほどの激痛が苺々を襲う。
 あの女性とはどれほどの魔術師だったのだろう。これほどの魔術を、苦もなく作成できたのだろうか。
「ぁ……う、く――!」
 意識が薄れかける。死ぬかもと思う。死にたいと思う。死にたくないと、相反する想いを思う。
 ――桃歌は今頃、随分遠い場所まで歩いていったのかもしれない。
 大嫌いな苺々から別れられるのだから、すぐに苺々のにおいのする家も捨てて、〈塔〉のどこか良い場所に引っ越してしまうかもしれない。
 それでも。
 それでも、いつかまた――
 
 
「――その名は夜姫! 人の子にして、月を抱く女なれば!」
 
 
 月夜の声が、朱血に染まった部屋を圧して響く。
 最後まで欠けていた魔術は、最後の月によって完成を見た。
「あ――――」
 次元の鳴動。紫電。轟音。
 強い重圧の中で、苺々の意識が薄れていく。
 
 
「……苺々ちゃん?」
 桃歌が、苺々の名を呼んでいた。
 ぼんやりとした桃歌の姿。揺れる鎖が目に障る。
 ――鎖なんか似合わないな、と、少しだけ思う。
「あ……」
 目を開ければ、視界にあるタイルから風呂場にいるのだと分かった。
 見覚えはある。ここが苺々の家の風呂場なら、この家は心配に反して無傷だったに違いない。
 桃歌の顔が随分近い。彼女は下着姿で、どこからかシャワーの流れる音が聞こえる。
 ――風呂場にいるのだから、そんなものなのだろうか。
 そんなことを考えながら、苺々はぼんやりと桃歌を見やる。
「苺々ちゃんは軽いけど、ずっと背負ってるとやっぱり重かったよ。
 ……あの建物の中は、すごく怖かった。
 たくさんの人が倒れてて、無事なのは苺々ちゃんだけで」
 ――背負う? 誰を?
「それに……ほら。傷はないみたいだけど下着の中にまで血が入り込んでて、顔色はついさっきまで真っ青で……」
 苺々は呆けていた。自分が服を脱がされている事にすら、今の今まで気付かなかったのだ。
「……もう、べとべと。わたしの服も汚れちゃったけど、苺々ちゃんは目を覚ましてくれたね」
 椅子に座らされた状態で手を取られ、石鹸を染み込ませたタオルで指先をていねいにこすられる。
 きもちいいな、と苺々は漠然と思う。
 こんな時に他の何を思えばいいのか、それが苺々にはわからない。
「…………なんで?」
 ただ、つぶやいた。
「え?」
「なんで……あたし、連れて……?」
 桃歌の表情は笑っているのか、それとも別の何かか。
「――あの、ポシェットの中身ね。
 中身の意味が分かった時は、びっくりしたし、悲しかったけど、苺々ちゃんはわたしのことを気遣ってくれてたんだって分かった」
 空気が暖かいのは、シャワーのせいではないと苺々は思う。
「苺々ちゃんは……いいこなのかわるいこなのか、わたしにはよくわからない。
 これからも苺々ちゃんは、わるいことをしちゃうのかもしれない」
 それはこの鎖のように。
「でもあなたは、ほんのちょっとだけど、わたしの事も信じてくれた」
 それはあの、結局何の意味もなかった逃避行のように。
「わたしね、気付いたんだよ。
 苺々ちゃんはこわい子だけど。
 それでも、わたしのことだけをずっと気にしてくれてた苺々ちゃんの事を、わたしは好きだったのかもしれないって」
 桃歌が苺々に向けて、やさしくほほえんだ。
「苺々ちゃん。わたしたちはね、何もかもやりなおせると思うんだ」
 そして桃歌は、言い繕うように言葉を添えてくれる。
「――ほら。それに苺々ちゃんがいなきゃ、この首輪は外しようがないでしょ? わたしもいろいろやってみたけど、それでも外れなかったし……」
 胸を刺すのはその言葉ではなく、ありきたりな日常の一部のように、苺々の身体を洗うてのひらだ。
「…………だ」
「え?」
「……おまえなんか、嫌いだ」
 そんな泣き声が、苺々の唇から漏れた。
「きらいだ……やだあっ!
 桃歌と、これでようやく桃歌とさよならできると思ったのに……!
 なんでその桃歌が、あたしにこんなことするのよ!?
 あたしはついさっきまであなたの事を監禁してたんだよ!?
 あたしはこんなお風呂場じゃなくて、牢屋に入れられてても文句を言えなかったんだ!
 殺されたってよかった!
 あ、あたしはひとりっきりでもだいじょうぶなのに、とうかなんか、とーかなんかぁ……!」
 彼女の身体にすがりつくこともできず、苺々はずっとしゃくりあげていた。
「――うそつき」
「……っ!」
 桃歌、とぐずる声は、いつのまにかごめんなさい、という声に変わっている。
 そうして桃歌の首を絞めていた枷が、音もなく砕け散った。
「――もう、しないから。
 桃歌を家から出さなかったりしない。
 桃歌のためなら何でもする。桃歌が望むこと以外は何もしない。
 なんにも……他にはなんにも、いりませんから……」
 ――だから、一緒にいてくださいと懇願する。
 
 桃歌は指先から腕を、腕から身体を洗いながら、苺々の身体にこびりついた血を落としていく。
 やさしく身体を洗いながら苺々に、友達になろうよとささやいた。
 
 
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