部屋の中。
ずっと前から、苺々は桃歌に謝罪をしていた。
「……ごめんなさい、桃歌。
私……桃歌に、あんな……」
謝るべき事はいくらでもある、と苺々は思う。
「ねえ、苺々ちゃん。
わたしはそんなに気にしてないから、そこまで言ってくれなくてもいいんだよ」
――でも、なぜだろう。
自分が桃歌に何を謝っているのかが、今の苺々にはよくわからない。
「でも、私……桃歌に、酷いことしてきたから。
だから、その……あの……」
「うん?」
彼女はやさしく、苺々に顔を寄せてくる。
「あたしは、桃歌に――」
――桃歌に、何をしてほしいんだろう。
今更、罪を許されたいのだろうか。
「――――」
しばらくの間。
その後ふふ、と桃歌が笑う。
「つまり苺々ちゃんは、わたしにおしおきをされたいんだね?」
「――え?」
呆然。
「と、とう……とうか、さん?」
およそ似つかわしくない妖艶な笑み。
そして桃歌の手が手に触れるだけで、苺々は声をあげてしまう。
「ひゃんっ!? な、なにするの、桃歌……」
「苺々ちゃんがしてほしい事を、してあげるだけだよ」
じりじり伸びる手。後退するとすぐに壁にぶつかってしまう。
「と、桃歌――むぐっ!?」
唇を奪われ、子供のように手足をばたつかせた。
「ん、ちゅ、ぷぁ……」
「ぅんっ、むうっ、はう……っ」
「――ふふふ。あの首輪、苺々ちゃんにもつけちゃおうかな」
と、唇を開放した後、苺々の首筋に舌を這わせる桃歌。
「と、桃歌、そんなところ――きゃーっ!?」
「――はっ!?」
そうして苺々は、ベッドから跳ね起きた。
「おはよう」
にこ、といつもの微笑みで迎えてくれる桃歌。
「……あれ、どうしたの? なんか、顔がまっかだけど」
「い、今桃歌があたしのあれをそれでこうしていや現実的にはありえないんだけどそれはそれでアリだと思えるのが……っ!」
「…………苺々ちゃん、わかんないよー」
ひとしきりわめいてから、苺々はベッドに突っ伏した。
「――はあ。ごめんなさい、ヘンな夢を見たんです」
あれから半年も経つのに、とつぶやく。
「もう、そんなになるんだね」
そうすると、どこか眩しげに窓の外を見て、桃歌が応えた。
桃歌の首輪が外れてからの話だ。今の苺々と桃歌は――半年前よりはずっと、健全な生活を送っている。
少女二人の同居生活。苺々が〈塔〉で雑多な仕事を受け、桃歌が家事を分担する。
最近は二人で外出をする事も多くなった。桃歌も最初は物怖じしているところがあったが、元々苺々以上に社交性に秀でた彼女だ。すぐに初対面の人物にも笑顔を向けられるようになった。
「ねえ、桃歌……」
「うん?」
今のところ、苺々が懸念している事はふたつだけだ。
――自分が桃歌をどういう目で見ているか、彼女はとっくに気付いているのだろうか?
――自分が桃歌にしてきた事。十分に罪悪感が薄れたら、自分は彼女を抱こうとしてしまうのだろうか?
「今、何時だったっけ?」
今のところは、おくびにも出さないでいられるけど。
「十時。……ね、月夜さんの事だけど、やっぱりこっちから迎えに行った方がいいんじゃないかな」
「――――」
大丈夫だと思うけど、と口の中でつぶやく。
苺々が月夜と会うのも、また半年ぶりの事だった。
お互い連絡先も知らないのだから、半年ぶりに連絡が取れたことすら奇跡のようなものだ。
「地図は渡したし、この辺の土地は相手も慣れてると思うんだけど……」
半年前までは、誰にも言わなかった二人の家の場所だった。
月夜は人間以上に優れた能力を持つ妖だ。彼女なら大丈夫だろうと思う反面、なぜか不安な気がしないでもない。
「わっ」
そんな時に玄関のチャイムが鳴ると、桃歌がびくりとした。
もし月夜なら、と苺々は怪訝に思う。約束の時間には、まだ一時間ほど間がある。
「ま、まだ準備とかしてないよ。苺々ちゃん、ちょっと相手しててっ」
そう言われても、苺々に至ってはパジャマから着替えてすらいなかった。
「――ひさしぶり」
着替えて顔を洗って髪を撫でつけ、そしてよそいきの雰囲気をまとうまでに五分ちょっと。
半年ぶりの月夜は――何も、変わっていないように見えた。
「苺々は、変わったね」
「……そうですか?」
「うん。なんだか、雰囲気からして違うよ」
あなたは変わらないと返そうとして、ふと苺々は言葉に詰まる。
月夜の隣に、小さな男の子が立っていた。
年齢は十歳程度だろうか。年相応の体躯に茶色の短髪、だがただの少年と言うには瞳に理知的な光が宿っている。
「お子さん、ですか?」
本来ならば、月夜はこんな大きな子供がいる歳には見えないが。
だが月夜はくすくすと笑うのみで、代わりに少年の方が渋面を作った。
「残念ながら、そのような関係ではありません」
「え?」
少年の声は、その瞳以上に丁寧な響きをまとっていた。
「……月夜様、私との関係を初対面の方に推理させて遊ぶのはどうかと」
「子供とか甥っ子とか今まで言われてたけど、恋人って言った人だけはいなかったね」
「…………」
「がんばれ三日月」
「何をですか!?」
そして玄関先で黙っている苺々に向け、ごめんごめんと月夜が言った。
「この子は、わたしのファミリアだよ。名前は――さっきも言ったけど、三日月って名付けた」
「
「うん、
「……それにしても、まだ十時ですよ? もしかして、約束の時間を間違えて――」
「あ。この辺りの地形は全部忘れてたから、半日くらい前に寝床から歩き出せば時間までに着くかなって」
「…………え?」
「だから、歩いてきたんだけど」
「…………」
沈黙。
「――この場合重要なのは出発の時間です。それと、付き合わされる私の身にもなって頂きたく」
「いいじゃん、三日月はほとんどだっこしながら歩いてたんだし」
そう言いながら汗も浮かべていない月夜は反則だ、と苺々は思う。
「……迎えに行けばよかったですね。とにかく、立ち話もなんですから」
リビングを振り向くと、桃歌も手早くの片付けを終えたようだった。
「桃歌のことは、苺々から聞いてるけど――実際に会うのは、これがはじめてだね」
月夜と三日月が歩きだした。こんにちはあ、と柔らかな声。
ちょこちょことふたりの前に歩いてきてから、桃歌は亜人の耳を垂らしてほほえみかける。
「はじめまして、桃歌って言います――苺々ちゃんとは、昔からのお友達です」
リビングにふたりが案内され、
「――わ」
月夜が、思わず声を漏らす。
四人分のチョコレートムースと、琥珀色の紅茶。
苺々が玄関先にいた間に、それが魔法のように現れていた。
「わたしね、お菓子づくりが趣味なんだ」
嬉しそうな桃歌が、そのまま言葉を繋いだ。
「ムースもたくさん作ってみたの。だから、おかわりが欲しかったら言ってね」
四人がテーブルにつくのはほとんど同時だった。
添えられたスプーンで表面を撫でると、ムースが柔らかく震える。
「――おいしい。
桃歌は、すごいね」
月夜の唇が、いつのまにか微笑の形を作っていた。
甘いものには、人を笑わせる力がある。
「そ、そうかな?」
「はい。桃歌はお菓子作りの天才です」
「で、でもまだがんばってないところがあると思うよ、たとえばムースに何か付け加えるものとか……」
何か、と月夜はしばし考え、
「鯖」
「……おさかな?」
「鯖」
月夜は目が本気だった。
「…………あ、あはははは、つつ月夜さんは冗談がうまいなあ」
桃歌の冷や汗がすごい事になっている。
「ねえ苺々、桃歌はいい子だね」
「ええ。……って、私に振るんですか、それ」
「うん。わたし、もっと桃歌のを食べてみたいな」
「た、たべ!? まさか月夜さん、あなた桃歌に手を……っ!」
「……おててがどうかしたの?」
そんな会話を横目に、三日月はちまちまとムースを口に運んでいる。
「三日月――えっと、三日月さん、で、いいのかな」
「はい」
「……えっと、ムースだけど、どうかな?」
「いただいています」
彼の顔は無感情ゆえの無表情なのか、それとも単に緊張しているのか、苺々にはよくわからない。
「三日月」
と、月夜の声。
「……美味しくいただいてます、とても」
「よかったあ。男の子は、こういうの好きじゃないかもって思ったけど――
うん。さっきもいったけど、おかわりが欲しかったら言ってね」
はい、と短い声。苺々は改めて、三日月の顔を横目で見る。
三日月くらいの年頃の少年からしても、桃歌は魅力的な女性だろうと思う。
けれど彼の表情には、照れよりも戸惑いに近い好意が揺れていた。
――苺々は三日月に、ほんの少しの好感を抱く。
苺々は男が嫌いだ。
けれど子供とも少年ともつかない、そんな三日月の事は、苺々は嫌いではない。
「三日月さんは、月夜さんと仲がよさそうですね」
「……左様で」
思った事をそのまま口にすると、三日月が複雑な表情を見せる。
「三日月とは、ちょうど半年前からつきっきりだからね。
あの時、お姉さまと――」
「……お姉さま?」
その言葉について考えを巡らせた瞬間、苺々は思わず声をあげていた。
「そうです! お姉さま――夜姫さんのこと!
のんきにムース食べてる場合じゃないです、私――」
「……苺々ちゃん、わたしのお菓子いらない?」
「い、いやそうじゃなくて、食べてる場合ですけど!」
深呼吸で落ち着きを取り戻し、改めて苺々が言葉を紡ぐ。
「――私はあの時、結局月夜さんと夜姫さんが会えたのかどうか知らないんです」
半年前の大魔術――次元を越え、月夜の想い人を呼び寄せる魔術。
今では桃歌もだいたいの事情は知っている。だが桃歌が気絶した苺々を発見した時には、月夜も夜姫もそこにはいなかったらしい。
「私、半分はあの時の顛末を聞くために月夜さんを呼んだのに――」
「……ああ、あれ。今になってみると、ちょっと懐かしいね」
月夜の表情は、透明でありながら複雑なものだった。
「結局、魔術は失敗だったよ」
「え――」
「確かに次元間の穴は開いたけど、それは数秒間の事だった。お姉さまを見つけた直後に、穴が閉じて終わり」
「…………」
ならば、意味はなかったのだろうか。
苺々が知った魔術にも、いつかの月夜の寂しそうな顔にも。
「――ほんと、一瞬だったからね。
キスくらいしか、できなかったよ」
「……え?」
なぜかそう聞いて、苺々は混乱した。
「キスって……あのキスですか?」
思わず間抜けな事を聞いてしまう。
「うん、そのキス」
その時の月夜は、黒い髪をしていた。
白い月夜が黒い月夜を押しのけたのか、それともふたりの月夜は本質的に同一の存在なのか――それは、苺々には分からない。
ただ、その表情で。
「あの時のは、凄く気持ち良かったな」
心の中のどこかが、意味はあったのだとつぶやいた。
「ありがとう、苺々」
「――いえ」
そんな短いやり取り。
「……なんか、すごい世界だね」
桃歌はあてられたのか、自分のムースにも手をつけずにうつむいている。
「その、苺々ちゃんと月夜さんって、どういう関係なの?
ふたりの話は聞いたけど、それでもわたしにはよくわからなくて――」
一瞬の間。
「友達だよ」
「…………友達、です」
苺々はおずおずと、月夜は明朗に。
――ひとときだけ、アルコルの事を悼む。
苺々の親友だと自称していた少女。
良心の欠片もなく、他人を殺す事をなんとも思わない少女。
そして恐らくは、月夜に殺された少女。
「――そうだ」
月夜の声が、短い回想を終わらせる。
「わたしが探してる人は、お姉さまだけじゃないんだよ」
「え?」
「お姉さまの恋人……かな。わたしたちと比べれば、普通の人間だけど」
そう聞いて、苺々の頭に浮かぶ疑問符。
「それは……どうして、今になって話を?」
「――それはね。あの
月夜は、そんな事を口にした。
「ひと……男?」
嫌な顔になる。
「全く。月夜さんも節操のある方だとは思ってませんでしたが、男にまで手を出していたなんて」
「苺々ちゃん、なんかそれ逆……」
「冗談です。――でも、その男がどうかしましたか?」
「普通じゃないんだよ、あの人も。
――もしかしたら、そのうち苺々たちとも会うかもと思ってね」
意味深な口調。今の苺々には、眉根を寄せることしかできない。
「どうして、そんなこと……」
「苺々も、あの人の事を好きになっちゃうかもしれないからね」
笑顔が目にうつる。
それはきっと、はじめて月夜が浮かべてみせた、とびきりの笑みだ。
「――わたしね。あの人の事も、やっぱり好きだったんだよ」
苺々たちと別れてから、甘い匂いとは縁のない公園で。
月夜は何かを思い出すふうに、遠くを見ていた。
「あの人に頭を撫でられるのが好きだった。胸を触られるのも、嫌じゃなかった」
左様で、と気のない風に返す。
「苺々は今のわたしじゃなくて、昔のわたしに似てたのかもね」
――昔のわたしは、あの人に頭を撫でられた時、あんな風に嫌そうな顔をしてみせていた。
「きっと、また会えるよね」
永遠を生きる女が言った。
「待つべき人がいるならば、いくらでも待てるよね」
風が吹く。
誰かを待っている間に真っ白になった髪が、力なく揺れる。
「――――」
左様でと返す代わりに、三日月は月夜に向き直る。
彼女の頭に手を乗せ、背伸びしてそっとなでた。
「――え?」
驚いているのだろう彼女の顔が、今はよく見えない。
「私が、はじめて人の形を取ったときには、月夜様にこうしていただきました」
それはたしか、髪をなでつけるように。
優しく、夢のように優しく。
「……ああ」
月夜の声が、言葉にならず漏れる。
「――そう、そうだね、わたし……」
三日月は月夜に言われたのだ。
あなたは、独りではないと。
そしてまた。
いつかまた、幸運な男がやってくる。
(了)