『いつかまた』第4話(後編/修正版)“eclipse”

 人間の社会には、個人の記憶を知識として共有する役割がある。
 人が忘れてしまった記憶も、たいていは別の誰かが同じ事を覚えているものだ。
 
 では猫が忘れた記憶は、誰が覚えているのだろう?


 
「死んでくれる?」
 アルコルは月夜にそう言い放ち、フォーロックを全身で振るった。
 露骨なほどの首狩り狙い。だが鎌の重量を利した閃きは、重く速い。
「……!」
 速い――が、そんな速さは、月夜が幾度も乗り越えてきたものだ。
 地を這うほどに身をかがめ、鎌の軌道の内側へと入り込んでいく。
 ささやかな爪が、死神の鎌よりも疾く風を切った。
 地面からすくいあげるような、同じく首狙いの一撃を、アルコルはぎりぎりで顎を逸らしてかわす。
 一瞬の後懐の外側から迫ってくる刃先。月夜はそれを危なげなく回避して、フォーロックを構えるアルコルと睨みあった。
 月夜は武術に疎いが、それは一見して守りの姿勢と分かる。
 大鎌を手元に引き寄せ、刃よりも柄を使うために、両拳を広げた手持ちの構えだ。
 一秒。
 その秒間の後、月夜は再び踏み込んだ。
 ――交錯。
 濡れ布巾を広げて叩くような音が、ふたりだけの部屋に響いた。
「弱い」
 床を踏み鳴らして、月夜はそう呟く。
 たった一度の交錯で。
 鎌を持つアルコルの右拳は砕け、灰色の骨を飛び出させていた。
「……弱いからこそ、なかなか死なないんだよ」
 だが、その手は鎌から離れない。
 粘着か補強か、なんにしろ簡単な魔術だろう。利き手を砕けば武器も使えない、とはいかないらしいと月夜は思う。
 再度の交錯、柄に拳を打ち当てても結果は変わらない。衝撃は鎌の方で吸収してしまうのか、アルコルの表情はそのままだ。
 痛みは――ないのだろう。彼女の口元には、微笑に近いものが浮かんでいる。
 アルコルがわずかに立ち位置を横にずらす。月夜は部屋の窓を背にする形で、その移動に追随した。
「ねえ」
 ふとアルコルがささやいた。
「楽しい?」
 楽しくはない、と月夜は思う。
 全身につけられた傷口が、今更のように痛みだしただけだ。
 拳よりも違うやり方で身体を交える方がずっといい。こんなものは辛いだけで、何も楽しくなんかない。
「嬉しい?」
 嬉しくもない。この手でアルコルを殺したところで、満たされるものは何もない。
「じゃあ、寂しい?」
 
 
 踏み込む。
 ――寂しくはない。
 寂しいとはどういう事か、月夜は忘れてしまったから。
 そんな過去の出来事など、覚えているのは我くらいのものだ。
 
 
 幾度かの交錯を経て、月夜は傷ついたアルコルを見る。
 月夜は不意打ちの傷痕だけを腕に残し。敵は胸に脚に傷を刻んで。それでもアルコルは倒れない。
 双方の身体能力の差は歴然としている。厄介なのは持ち手ではなく、彼女の持つ魔刃フォーロック。
 だが、その魔刃を構えてアルコルが守りに専念する以上、月夜は彼女にとどめを刺す事ができない。
「ッ!」
 唇から呼気を繰り出し、受け止められるだろう拳を放つ。
 柄で受けられる。予測済みの挙動に微笑み、月夜は更に身体をひねった。
 二度。この程度では足りない。
 三度。殴る手に痛みを覚えるのは、久しぶりの経験だ。
 ――アルコルが、何事かを呟く。
 まさか。
 あるいは、やはり、と。
 四度。
 五度。
 六度。
「…………!」
 アルコルの表情が、恐怖と喜悦に歪んだ。
 刃に拳を、柄に拳を、幾度も幾度も打ち当て――そうして、月夜はフォーロックを破壊しようとしている。
 だが、アルコルが構えを崩すことはできない。
 長大な鎌は自在な挙動を見せられるものではなく、攻勢に出た直後彼女は野獣の一撃によって即死するだろう。
 息を吸う。吐くまでに三度打ち込んだ。
 ――つい先ほど皮膚でナイフを弾いてみせた現象は、月夜の全身に満ちる妖力によるものだ。
 特に意識せずとも、その力が体内にある限り、発揮されるのは無敵に近い防護力だった。
 その力を拳に込める。
 生物学を超越し、腕ではなく魂で拳を握る。
「は――っ!」
 長大な柄にわずかなひびを刻んだのは、紛れもない破壊の意志によるものだ。
 アルコルは構えを変え、刃で拳を受けようとする。
 だが遅い。
 息を吸う。
 皮下の筋肉は過剰に最適化され、掌となった拳は爪と共にわずかに光る。
 窓の外の月光を背にする。脳は攻撃のためだけに熱を孕み、神経は昂ぶりのあまり焼け付いてしまいそうだ。
 踏み込みは雷の速度。地鳴りのような音が部屋を揺らす。
 足より腰。
 腰より腹。
 腹より胴。
 胴より腕。
 腕より掌。
 掌より爪。
 ナイフを切り刻むナイフとなって、月夜は妖の剄を夜に発した。
 ――ひとときの、完全な無音。
「    あ、」
 アルコルが呆然と音を漏らした。
 刃と柄は寸断され、それから柄が腐り落ちるようにひしゃげる。
 刃を構成する金属が、ひび割れながらねじくれていく中で、アルコルは床に膝をついた。
「か……は……」
 口の端から吐血を漏らし、胸に冗談のような裂け目を刻んで、目がうつろになっていく。
 アルコルは死ぬだろう。
 余波にすぎないとはいえ、コンクリートの壁を切り落とす刃を破壊するような一撃を受けたのだ。
 彼女は特別な力を持たない、普通の人間だった。――ならば、耐えられるものではない。
「は――あは、は、あはは……はあ」
 彼女の末期の息は、笑っているようにも聞こえた。

 
 笑っていた。
 アルコルは、ある男の出番を待っていたのだ。
 依頼を受けて以降、現場指揮官となって練り上げた計画がようやく叶う。
 二重のおとりが功を奏したのだ。そのためなら自分が死ぬことも気にならないくらいに、嬉しくてならなかった。
 ――月夜が窓を背にして戦うよう、アルコルが計らった原因。
 フォーロックが破壊されたその時点から行動を許された男。
 隣のビルの屋上で、狙撃手(・・・)がライフルの引き金を絞った。
 
 銃声。
 
 月夜の身体が二度揺らぎ、額と胸に痣が作られる。
 それだけだった。
「――あ」
 目に絶望を宿して、アルコルの表情から力が抜ける。
 弾き落とした弾丸を踏み、月夜はうずくまる彼女の目を覗き込んだ。
「わたしの妖力が空になる瞬間を狙っていた?」
 ――それは随分、不遜な行為だ。
「あの鎌を破壊させれば、そうなる可能性はあると思っていた?」
 ――この月夜(・・・・)ならば、可能性は確かにあっただろうか。
「…………あたしは、楽しかったんだ」
 返答はないままで。死にかけの唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「弱い人を殺すのは楽しい。強い人を殺そうとしても楽しい。人でなくても楽しい。
 その時あたしは、殺意を向けられてるから。
 あたしは独りじゃないから」
 ――人など殺さなくとも、人間は独りでは生きられないというのに。
「あたしはそのために生きてきた」
 ――ならば、ここで死ぬのも当然だろう。
「月夜」
 ささやくように皮肉に。
「あなたは、なんで生きてるの?」
 
 何故だろうと。
 そう考えてしまったが故に、終わった。
 
 長い沈黙。
 その間にアルコルが死ななかったのは、とても不思議なことだ。
「ねえ、月夜。
 あなたに、帰る場所はあるかな?」
 ――必要ない。我はただ、望んだ場所を侵すがゆえに。
「……月夜?」
 怯えたような声。
「あなたはどうしてあたしを見るの?」
 ――その不遜の代価を量っている。
「あなたの髪は何色なの?」
 ――黒。
「あなたの瞳は何色なの?」
 ――赤。
「あなたは……だれ?」
 ――我が名は月夜。
    あるいは、黒の月夜。
「あ…………」
 今までの彼女の絶望は、しかし絶望と言うには足りなかったのだろう。
 アルコルは黒の顔貌を目の前にして、ぼろぼろと涙をこぼした。
「ねえ」
 末期に微笑はなく。
「殺してくれる?」
 
 月夜はアルコルの首を捻じ切り、頭蓋を床に叩きつけて潰した。
 そして自分を狙う残党はあと何人か、と月夜は考える。
 ――いかに殺し、愉しむか。
 ――いかに殺さず、愉しむか。
 敵どもの持っていた最強の武器は、とうに砕け散ったあの鎌だろう。
 ならば今の月夜がいかに遊んだとしても、餌は餌に過ぎない。
 心中のどこかにうずくまっている白い月夜を把握し、黒い月夜はささやいた。
 ――貴様はもう、戻らずとも良い。
 白の月夜が人の形をした人猫(じんぴょう)ならば、黒の月夜は人の形をした闇である。
 闇は人間と同じ事を考えない。白い月夜が脳髄の奥底に封じた記憶を、黒い月夜が全て知悉しているとしても、その大半は人のための屑でしかない。
 それは一時間後か、それとも一年後か。
 具体的な時間は分からないが、近いうちに白い月夜は奥底に閉じこもるだけの存在となる。
 なんと愚かなのだろう。
 アルコルの言葉は小さなきっかけに過ぎない。無為を嫌う人の心を持ちながら、彼女は自らの無為を肯定した。
 なんたる平凡な結果。そのために白い月夜は魂の主導権を失い、心を黒い月夜へと明け渡した。
 
 これからの月夜は、人を食らい、世界を支配する事しか知らない。
 それは何処までも楽しく。
 永遠に、続くだろう。
 
 
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