月夜は夢を見ていた。
それはもう通り過ぎてしまった時間、大昔の誰かの夢だ。
一週間か、二週間前。そのくらいの頃だろう。
月夜がいるのは事故の現場だ。大通りに炎を吹き上げるタンクローリーの残骸、夜空には三日月が冴えている。
けれど、なぜか視線の中心にあるのは猫の死体だった。
彼は事故の中心地からやや離れた場所で、停止した車にもたれるようにして死んでいた。
その猫と知り合った記憶はある。だが、それ以上のことは覚えていない。
死体の近くにいた幼い三毛猫が、すがるように小さく鳴いた。
月夜は唐突に、今この子猫を守れるのは自分だけである事に気付く。
自分が人間の姿をしていることに気付いたのは、両腕で子猫を抱き上げた後だ。
――その途中、猫の死体に、どうしてか何かを謝りたくなった。
その猫のことなんか、ほとんど何も覚えていないのに。
ささやかな痛みを感じて、月夜は夢から目を覚ました。
時刻は夜、現在地は眠りに就いたときと同じ閉店されたスーパーの屋上。同じでなかったにしろ問題はない。
「――な、」
目の前には見覚えのない男がいる。なぜか目を見開き、愕然とした表情でいた。
右手にはナイフ。手馴れた様子で持ってはいるが、姿勢は殺気に欠けている。
月夜は眠りかけの頭で、彼は何をしに来たのだろうと考える。
その時右目から、なまぬるい液体が流れ落ちた。
――ああ、そうか。
「いたい」
痛みによる涙は、血と混ざり合っていた。
「あなたは、わたしを殺しに来たんだね」
殺したつもりだったのだろう。まぶたを裂き、目から脳を貫いて。
そして月夜は思う。
――どうして彼は、信じられないような表情で自分を見ているのだろう?
「おまえ……無防備なはず……」
男は手の中のナイフを、わずかに震わせていた。
右目をかすめただけの刃傷は、何をせずともふさがっていく。
「なんで、ナイフがまぶたで滑るんだよ――!」
短いが鋭い刀身だ。鋼鉄か合金か、何にしろ強く鍛えられた刃だろう。
けれど、
ただ鍛えられただけの刃では、月夜の皮膚を貫くこともできはしない。
「しぃッ!」
悲鳴のような気合をあげて、男は月夜にナイフで突きかかってきた。
――首か、腕か。
月夜は寝転んだまま、冷静に男を見切る。
彼は利き腕を折れば止まる類だ。腕を折られ、その後なお行動する気力は起きないだろう。
そう考える時間は一瞬にも満たない。ナイフを持った腕を掴み、力ずくで間接を折り取る。
「ぎ……っ!?」
獣の声。その場にうずくまる男を無視して、月夜は立ち上がった。
殺さない程度に傷付け、それからなぜ自分を襲ったのかを聞き出そうかと思ったが――そんな暇もなさそうだ。新手らしい者の気配は、既に建物のすぐ外にまで迫っている。
月夜が屋上を去り、歩き出そうとした瞬間。
「え?」
建物が木っ端微塵に爆裂した。
状況を理解するまで、数秒を必要とした。
月夜が寝ている間に、敵は建物に爆薬を仕掛けたのだろう。
いたのは屋上とはいえ、不意を突かれた状態で崩れた足場から跳び去る事も出来なかった。
全身は瓦礫に埋もれている。服のあちこちが破れたのも気にかからず、あまりの重みに身動きが取れない。
目に砂が入り込み、全身に鈍い痛みが走る――これがただの人間ならば、痛みを感じる間もなく肉塊になっているだろうが。
「――先走りしたか。そう、抜け駆けできる相手でもないだろうに」
瓦礫の外から、重厚な男の声が聞こえた。
言っているのはナイフの男のことだろうか。瓦礫の下の肉片を見て、悼むように十字を切る。
「なんてことだ。だというのに、敵はまだ生きているのか」
瓦礫の隙間から月夜の動きを察したのか、男は嘆息を発した。
そして隙間から外を伺ってみれば、敵の数は独りには程遠い。
銃。
刀。
炎。
弓矢。
牙。
蟲。
魔剣。
思い思いの得物を携えた修羅たちが、ただ月夜の首だけを狙って迫ってくる。
身動きの取れない女を虐殺するには、煮え滾った殺気は熱すぎた。
「往くぞ」
男が吼えた。
満月の下、その顔面が狼のそれへと変じていく。
――どうか、ただの人間がここに来たりしませんように。
――あの子猫、抱き上げた後はどうしたんだったっけ?
月夜はそんな事を同時に考え、すぐにその双方を頭から追い払う。
今度は手加減はできない。打たれた相手が死ぬかどうかは、本人の資質によるだろう。
――あるいは
そんな理解できない思考を頭の中から追い払い、月夜は腕に妖としての力を込める。
頭上を圧迫している最も大きな瓦礫を掴み、それを男へと
「――!」
さすがに剛速球とはいかない。ゆっくりと飛んでいく瓦礫をあっさりと男はかわし、まだ左脚を挟まれたままの月夜に肉薄する。
「っ、……くっ!」
力ずくで脚を抜くと、そこから嫌な音が聞こえた。
足は折れたろう。だがその程度の傷ならば、待つまでもなく治っていく。
人狼と化した男の爪を掌で受けると、月夜は折れたばかりの足を酷使してその場から逃げだした。
当然それを逃がす敵ではない。人狼の爪は、今度は腕ごと月夜の腹を貫いた。
「 あ、」
絶息する月夜は、更に背後に熱を感じた。
背中から魔術で焼かれる。銃弾を肩に受ける。霊木の矢が突き刺さる。
――ああ、それでも死ねない。
「…………!」
数瞬の後、人狼が狼狽の相を見せる。
突き刺した自分の腕が、月夜の腹から抜けないのだ。
――妖力と身体の力の融合は、人狼の動きを封じていた。
そのまま額を相手の頭蓋に叩きつけると、彼は眼窩から血を流して崩れ落ちる。
けれど相手の動揺を待つ暇はない。
即席の死体を腹から引き抜き、近くの敵に
今度は、当たった。
月夜は思う。
おそらく今の自分は、敵を皆殺しにするのだろう。
――でも、何のために?
守るものなど、もう何もないのに。
瓦礫の山から抜け出し、大通りから路地を抜け、いくつもの建物を出入りして――気がつけば月夜は、小さな無人のビルの中まで逃げ込んでいた。
床には人間三人分の血糊と肉塊が散らばっている。
「……は……あ」
いまだ記憶は連続している――最初のナイフから数えて、相手取ったのは十と二人。
人狼を頭蓋を砕いて殺した。
魔術師を首をはねて殺した。
弓使いに矢を刺して殺した。
銃士を内臓を砕いて殺した。
蟲使いを素手で突き殺した。
全身は自分のとも他人のともつかない血でまみれている。最後の敵が突き刺した剣の破片は、いまだ身体に食い込んで抜けない。
けれど休む暇はない。見える敵はいないとはいえ、部屋の壁越しに、もうひとり人間の気配がする。
月夜は壁に近づき、音で敵の動向を探ろうとして――
「!?」
激痛。
敵の刃に、
「……っ!!」
今までにない鮮烈な苦痛。再生が阻害されている事を直感し、壁から跳びすさって距離を稼ぐ。
「やあ、ひさしぶり!」
返す刃で壁に大穴を開け、敵はそこから入り込んできた。
「――ああ、顔を合わせるのはこれが最初だったか。
でもね、ひさしぶり。元気してた?」
場違いなほど明朗な声の、色黒の少女だ。
自分の身長に匹敵するほど大きな鎌を、重たげに両手で支えている。
「あなたは……」
「名前はアルコル。今は、この鎌の運び役みたいなものだけどね」
その鎌は――確かに、恐るべき魔力を放っていた。
月夜ですらその一撃を受けては無事ではいられない。先ほどの傷口がそれを証明している。
「――あなた達は、何者なの?」
月夜は長く生きた。退魔の者やごろつきに襲われた経験など、片端から忘れるくらいに積み上げている。
けれど彼女――アルコルたちには、退魔の信念も下卑た欲望も感じられない。
ただ殺意と喜びだけを胸に、月夜と闘争を演じていた。
「ただの雇われ者の集まりだよ。まさか相手がこれほど強力だとは、思ってなかったけれどね」
その説明を聞き、月夜は眉根を寄せた。
刺客に襲われるような恨みを買っていない、とは言い切れない。
だが恨みのためだけに数十人の人間を雇って月夜を襲うなど、そんな行為にはあまりにも益がない。
「……むかしむかし、あるところに、ふしぎな扉があったと思いねえ」
アルコルは鎌を構えたままで、昔話のようなことを口にする。
「その扉からは、どんな世界にでも行ける。
剣と魔法、機械の世界、動物の世界、どんなところでも――
行き先の世界の事を、知ってさえいるのなら」
月夜もまた、世界と世界の間を――そして、時の流れをも遡る存在だ。
月夜のそれは任意なものではなく、旅と言うよりは漂流に近いものだが。
「もちろん扉にはそれを出入りする者がいた。
彼が最近見つけたのは、神と魔法の支配する大きな世界」
その世界のどこ、そして
仮にこの世界に行くとしても、扉が開く時間が現代か石器の時代かでは事情があまりに違う。
「そこは強力な武器が、何らかの事情で遺棄されてしまった世界」
その武器を持っていた誰かは、一体どうしたのだろう。
戦いの半ばで息絶えたか、それとも戦いに飽きたのか。
それとも、持ち主が戦いという生き方を終えた後の事だったのだろうか。
「そして彼は、扉を使わずに世界間の行き来を可能とした者を発見した」
可能とした者を発見した、というのは少し違うのではないだろうか。
正確に言うなら、その世界に行こうとして失敗した痕跡を発見した、とか。
「あなたのことだよ、月夜」
そんな事が自在にできるのなら、月夜には今すぐ会いたい人がいるというのに。
「雇い主の目的は、その技術の研究のためあなたを生け捕りにすること」
アルコルの話はそれで区切りがついたらしい。
疑問に思った事を、ひとつだけ口にする。
「……今までのあれは、わたしを殺す気だったとしか思えないけど」
あはは。
あははは。
あははははははははははははははははははははは。
「あなたみたいな化け物を生け捕りになんて、できるわけがないんだよ」
笑いながら。
アルコルは笑いながら、簡潔にそう言った。
「そう、殺した方がずっと楽だよ。苺々ちゃんにも、そう教えたくらい」
笑いながら言う。
彼女は狂っている、と月夜は思う。
「ねえ」
唇は歪んでいる。
「死んでくれる?」
フォーロック。
異世界にてそう名付けられた鎌を掲げて、アルコルはいまだ笑っている。