だから厚い黒雲の層が、
二人は今までお喋りをしていた広場を抜け、今は町外れを経由して住宅街のディイの家へと歩いていく。
大きな身体で付き従うアベルの足音は、不思議に静かだった。
「――夜が来るわね」
「うん。三時間くらいは、続くかな」
雲を読むのはそれほど得意ではないが、アリスにもそのくらいは分かる。
頭上の夜は既に、空の九割がたを覆っている。けれど来るのが速い夜は終わりも速いし、直感的にもこの雨が長続きする気はしない。
隣の娘が黙っているところを見ると、どうやら彼女は雲読みは苦手らしいけど。
「……月が、出かけてたんだけど」
残念そうに言うアリスの視線の先では、雲が月を覆い隠してしまっていた。
「それより、明かり。こっちからは仕事してる人もいないから、明かりもつかないわよ」
そう言ってロビンが、沢山のポケットのついた長衣の中から小型のランタンを取り出す。
彼女の護衛である男達の一人もまたランタンを取り出すが、ロビンは特に何も言わない。
色々とあって慣れたのだろう、とアリスは思った。
「その服ってさ、荷物の重みで破けたりしない?」
「何言ってるの。……急ぐわよ、アリス」
さっさと火口箱を使ってランタンに火を入れるロビンを見つつも、アリスは言葉を続ける。
「ロビン姉さん、昔から地味な服が好きだったよね――あの時から、ずっと」
初対面の時と言わせなかったのは、どんな心根だったのか、アリス自身も分からない。
「……あの時、ね」
「うん。マーシャ姉さんと、お別れしてから」
マーシャ――アリスの実の姉は、既に死んでいた。五年前、彼女が十歳の時に。
殺人鬼に襲われた訳でも魔術の暴走に巻き込まれた訳でも疫病に罹患したのですらなく、単に寒いというだけでも人は死ぬ。
単に不作のため痩せ、単に冬が長く、単に少しだけ長く雨にあたり、単に少々風邪をこじらせただけでも――
「……」
ロビンが沈黙しているのは、アリスがその事をどれほど悲しんでいるのか、本当に見当がつかないからかもしれない。
本当に、珍しい事ではない。ロビンもまた、実の父親を既に失っている。
――人は死に、生き延びた者は削れる。
塵屑の如く偶然に殺戮されながら、それよりも速く強く猥雑に繁殖するのが、竜の上に立つ人間だ。
ただアリスは、詩のように呟いた。
「姉さんは、あの時に来てくれたから」
「……あの時は私もただの〈水〉の候補で、私はただ父さんの仕事についてきただけだった」
ロビンもまたアリスと同じ透明な表情で、静かに受け応ずる。
「姉さんは、あたしと一緒に暮らしてくれた」
「……仕事の間、住む場所がなかったのよ。あなたのお父様と私の父さんは、懇意な間柄だったから」
「姉さんはあたしと、いっしょのベッドで寝てくれたよ」
「――」
少しの沈黙。
それは確認だったのかもしれない。
お互いに共有すべき記憶があるということ。ロビンが決して否定しないものを、アリスが持っているということ。
姉妹の間柄とも言えるものについて。
「……それで、その時にディイと会ったんでしょう?」
次に言葉を放ったのはロビンで、アリスは軽く応じた。
「うん」
――ディイ君はね、お腹を空かせてたよ、と。
そんな、なんでもない事を言うような言葉は、突然現れた記憶喪失の少年を表現するには不適かもしれない。
「ディイ君はね、お腹を空かせてたよ」
けれどアリスは、伝えようとして語る。
「あの子はね、歩いてたの。
靴をすり減らして、雨に濡れたりもしながら、歩いてたんだよ。
口元が震えてて、よく見たら殴られた痣もあった――
――きっとね。働くからごはんをくださいって言いたくて、けど上手くそう言う方法が分からなかったんじゃないかな。
だから、ディイ君は歩いてたの。食べられるご飯を探して、眠れる場所を探して。
あの子、自分が誰か分からなかったけど、それでもお腹がすいてたから」
毒のある果実を横目にし、震え音を立てる虫を足元に通らせ、二人は静かに道をゆく。
「だからあたしは、ディイ君に言葉をかけたの。
それで、手を伸ばしたの」
――終わった。
その言葉でアリスの語りも、満ちていた透明な空気も、あっさりと終わりを告げた。
アベルが小さく鼻を鳴らしたのは、彼なりに何かを察した印なのかもしれない。単に顔が乾いていただけかもしれないけど。
「……記憶喪失、ね」
少しの間の後、ロビンの応答は呟くようだった。
「で、ディイがかわいそうだったから家に引っ張り込んでパンを食べさせて着替えさせて、お金もあげて一緒に寝てあげたって訳?」
「男の子と一緒に寝たりなんか、しないよう……」
アリスの返答はぼそぼそとしたものだった。自分でもうぶすぎる気もするけれど。
「――それに、お金は受け取ってくれなかったから。だからお父様と相談して、ディイ君にはお仕事を紹介したの」
「それは知ってるけど――そういえば、どんな仕事?」
「えっと。町に夜が来たら、明かりをつけて回る仕事」
「――え?」
その言葉に、ロビンは驚いたようだった。
「バベル卿のコネなら、もう少し良い仕事があるような気もするけど……」
「うーん、……ディイ君、苦労するのが好きみたいだから」
アリスの言葉は、全く自信のないものだった。
バベル・パウル――〈風の広塔〉の管理者は、〈水の広塔〉管理者ロビン・パウル、〈地の広塔〉管理者ノエル・パウルと同じく、
バベルが先ほどまで
〈地〉のノエルに至っては農作用の土とあらゆる金属に関する魔術の権利を一手に握っているのだから、これで権力を握らないはずがない。
魔術による物資の生産が無ければ、人は暴走する竜の血肉を飲み食いでもして生きるしかない。
――自分は管理者としては補佐やら何やらに実権を握られ、実際はお飾りのような立場に過ぎないと、ロビンは何度もアリスに言っていた。
けれどそれでも常に連れ立っている護衛だけでなく、管理者候補のアリスでさえ驚くような規模の権力の行使を、ロビンは時々行っている――
「――なに。あいつ、マゾ?」
そしてそんな世界の事情にもっぱら関わらず、管理者の少女は眉根を寄せていた。
「そうじゃなくて。でも、不思議な子だよね――」
もうすぐディイ君の家だよ、とささやき、土と露出した
「――あたしより年上だと思うけれど、でも守ってあげたくなる。ううん、あの子のほうから離れようとするから、ここにいてって繋ぎたくなるのかな――」
「――」
「とにかく、仕事は真面目にしてるし、愛想も良くていい子だよ。――ですよね、モールさん?」
ロビンが言葉を決めかねている間に、アリスは締めくくってしまう。
急に呼ばれたアリスの護衛の一人は、少々驚いた顔を見せつつもうなずいてみせた。
「ああ、ロビン卿と連れ立っている時に話した事はありますが、単純作業を倦まず弛まずこなせるものだとよく……」
その言葉が、途中で止まる。
アベルが進んでいた。アリスよりも先に。
彼は数歩をかけて全ての人間の前を行き、低く喉を鳴らしていた。
モールが表情を、険しく変える。
「……卿、アリス様。我々のうち俺ともう一人で先行し、一人を残します。この場でお待ちください」
「え?」
アリスが、間の抜けた返事を返す。
「
アリスはしばし間を置き、その後頷いた。
彼の厳しい声は予断を許していなくとも、いつも漂う薄い血の風とは、明らかに違う空気がある。
「でも、モールさん……」
「――ファビオを連れて行きなさい。後は任せるわ、モール」
心配げなアリスの声を、軽くロビンが打ち消した。
「え――」
アリスの反応よりも先にモールはうなずき、彼よりも身長の低い黒衣の男を伴って消えていく。
「……姉さん。モールさんと、ファビオさんが、」
アリスの言葉を片端から畳み込もうとしているかのように、ロビンが割り込む。
「考えてみなさい。
つまり、目の前の厄介ごとを片付けたいけど、それには単に私達が邪魔だったって言うこと。
――彼らの事が心配なのは分かるわ。でも、偽善者みたいな事言わないで」
「……」
アリスはそう言われ、更に抗弁できるような性格ではなかった。
しばしの沈黙の時間、彼女は自分の服の裾をつまんでいる。
そして二人の予想より早く、一分もかからずモールとファビオは戻ってくる。
「危険はありません。路上で殺し合いがありましたが、一方は既に逃げたようです」
淡々と伝えるファビオの口調の中で、アリスは一呼吸の間のみ停止した。
――ころし、あい?
「っ――!!」
そして言葉をなくし、彼女は血の匂いのする方向に向かって駆け出していく。
「ちょ、誰が明かり持ってるって思って、こらアリス――!」
それに追従してロビンが、続いて彼女の護衛たちが走り出した。
――けれどアリスが垣間見たモールの顔は、彼女たちを憂うでもなく殺人者への怒りに震えるでもなく、なぜか、どこか納得がいかないような表情に見えた。
そして。
道端で倒れ首を折り曲げているディイは、どうも死体のように見えた。
危険はないと確認しつつ明らかに通常より近い距離でロビンを囲んでいる護衛達は、一向に口を開かない。
アベルは未だ警戒を失わなかった。ただしその視線は、ディイの身体に向いている。
「――首の骨が皮を破って飛び出してるわ。よほど強く
ロビンの声が無機質に響いた。
その声は、冷静さを取り戻そうと無意味に落とされた言葉でしかない。
ディイは血を流し、その眼球はほんの少し飛び出していた。
そして、アリスがまだ口を開いていない理由もある。
ディイが足を動かした。
膝も。
「ん……ロビン……」
ディイは立ち上がった。
彼は生きていた。
「――ぁ」
ロビンが、幼女のような声を漏らす。
アベルは一度だけ、びくりと震えた。
「と、あれ――あれ、あれあれ」
ディイは困っているようだ。首が折れ曲がっているのでは、意図通りに視界が働くはずもないだろうから。
「あ、ああ――僕……」
何かを納得したかのような声をあげて、彼が自分自身の首に手をかける。
……ごり、と。
ごりごりと骨が筋肉と擦れ合い、骨と骨がどうかして、不自然に過ぎる整体が行われている。
――アリスは気を失わず、ロビンは泣き出しもしなかった。
代わりにロビンがディイに向けて、一歩を踏み出す。
ずっと思っていたと――耐えかねたと言わんばかりに、彼女が口を開く。
「……あなた、何者なの?」
「ああ、――そこが僕にも、良く分からないんだ」
ディイのその笑みは、どこか泣きそうなものに見えた。