およそ全ての誓いを破る。
少女が魔王になるまでの物語。
第一章.高い空の地下――二週間前
〈風の広塔〉とその町の賑わいは、血と食べ物の匂いから出来ている。
地上には飾り布つきの荷車で構成された即席露店の群れが、雑多なおもちゃ箱じみた色合いを為していた。
品目の一番人気は干した葡萄か林檎を小麦粉と卵で固め、それに希少な純白の砂糖を飾りに散らした焼き菓子だ。
大人にとっても子供にとっても砂糖は航自機か馬車がたまに積んでくるだけの贅沢品だから、これは良く売れる。
焼き菓子の次に人が集まるのは肉と魚の露店。本当に新鮮な高級魚が出回ることはないにしろ、まだ鮮やかな赤を保ったままの豚肉を揚げ焼きにして食わせる屋台は、後々人気を得るだろう。
また宝石店に並べるほどではないが捨てるのは惜しいと踏まれた傷付きの希石は、貴族の少女達の黄色い声を呼んでいた。
――遥か見上げた上空の色は、泣きそうなくらいの赤だ。
焼けた空に浮かぶ
航自機は当代の最新技術の結晶だ。どの機体も極限まで軽く作られ、空中で大きく広げられた翼も重みを感じさせない。
機体の原動力たる灼けた竜の血の匂い――
そして低空をゆっくりとはばたく航自機が影を落とすのは、ゆっくりと歩く一人の少女だった。
航自機がほとんど目の前にまで下がってきても動じない。血の匂いは嗅ぎ慣れた様子の少女が、楽しそうに露店の合間を縫っている。
彼女は育ちの良さそうな服装の分だけ可愛らしかったけれど、むしろ首輪も無しに彼女に付き従う黒犬の方が、より人目を引くだろう。
――アベル、と犬に声をかけただけで、少女は歩く向きを変えた。
気ままに歩く自分に犬がそのままついてくると信じきった、気楽で暢気な歩き方。
彼女は仕事が長引いている父親を気にしてもいたけれど、身体は友人に会う約束を優先して歩いていた。
待ち合わせの場所に足を向けたのがついさっきだ。時間には遅れるかもしれないけれど、町民の時間の基準となる筈の教会の時計が良く狂う事は誰でも知っているため、彼女もさして急いではいない。
歩きながら露店を冷やかし、たまには真剣に購入を考える。
少女はこの日を楽しんでいた。
二体の竜の再接近の日、この街には全てが揃う。
ここには普段の町並みからは考えられないくらい沢山の人間が集まっている。忙しそうな者も、嬉しそうな者も。
美味しいご飯も綺麗な飾りも旅人も狩人も詩人も魔術師も、血も魔術も手品も、ついでに喧嘩と窃盗と裁判も(少女は今日一日で財布を三回すられかけた)。
だから少女にとって、この日が――
「アリスっ!」
その声に
振り向いた先にいたのは、アリスよりも美しい少女だ。
彼女の外見はアリスよりも年上に見え、社会的には“女”と呼んでも全く差し支えない域にあった。
更にその少女には、思い思いの服装と
「ロビン姉さん、一年ぶりだね――もう来てたの?」
威圧感を
「もうじゃなくて、あなたが遅いから探しに来たの。それに“姉さん”もないでしょう? 別に、私はあなたの血縁じゃないんだから――」
少女にして世界の一部を支配する大魔術師、史上最年少の広塔管理者。
〈水の広塔〉の主ロビン・パウルこそが、アリスの友人だった。
「姉さんは姉さんだよ? あたしだって〈風〉に住んでるし、パウルの苗字も貰ってるもん」
だからさ――と間を置いて、アリスから上目遣いの視線。
「ロビン姉さんの作ってくれた水、久しぶりに欲しいな」
「……その前に、何か言う事があるとか思わない?」
「遅くなってごめんなさい。どのお店も楽しそうで、つい寄り道しちゃったの。――その、これでいい?」
言葉と共に頭を下げた辺りで、ロビンは納得したらしい。
「まあ、いいけど、……でも水くらい、その辺で買ってあげるわよ」
「そうじゃなくて。“作ってくれた”のが欲しい」
アリスがロビンに視線を据えると、ロビンは黙り込んでしまう。
「精骸は貴重品なのに……」 「竜の血くらい、その辺を掘れば出てくるよ?」 「じゃあ掘ってみなさい。今舗装割って」 「……いじわる」
言われて、ロビンは嘆息する。
けれどほどなくして、沢山のポケットの付いた長衣の中から、彼女は紅い液体の詰まった瓶を取り出した。
大きさは片手に少し余る程度。その中身が何であるかは、アリスもとうに知っている。
「――わ、密封されてる」
それには当然よ、とだけ返し、ロビンは瓶を持ったまま、短く呟いた。
「
それは、魔術だった。
一瞬の後に瓶を取り囲んで出現したのは、球状に張られた蜘蛛の巣のような幻影だ。
ロビンの生来の魂を反映した色――蒼白の魔法陣が、対象物の変成の予兆となっている。
「……
まず最初にコルクと共に瓶を封じていたはずの蜜蝋が、自然に――いや、熱を与えられて融け落ちていく。
そして次に生じた現象は、立ち込める煙に似ていた。
瓶の中の紅色が、ふわりと中から薄れていく。あまりにも自然な雪解けのような動き。
涙が出そうな赤い空の下で何人かが足を止めて、その光景に目を奪われる。
「――これで、良いんでしょ?」
ほつれ崩れる網のように、魔法陣が解けていく。
血液が全て飲み水に変わるまでには、数秒もかからない。
「うん、ロビン姉さん、やっぱり優しいね! じゃあさっそくぴゃっ」
身体ごと手を伸ばしたところをロビンに避けられ、アリスは面白い声をあげて転んだ。
それを横目にロビンはしゃがみこみ、アベルの頭を撫でながら水を飲ませている。
「アベルちゃん、こんなのに付き合わされて喉渇いたでしょ? ぜんぶ飲んでいいわよ、ほら良い子良い子」
「……姉さん、アベルは男の子」
「知ってるわよ。――あなたは甘やかされすぎよ、たまには自分の飼い犬のことくらい気遣いなさい」
もっともらしい声を返し、ロビンが表情を平常に戻す。
「そうだ、ディイは? あいつは、あなたと一緒じゃないの?」
アリスが少し困った顔をした。彼女がここで会う約束をしていたのは、本来はロビンだけではなかったのだ。
「ディイ君も、もう少ししたら来ると思うんだけど……もしかして、もうすぐ露店が閉まったりする時間?」
「もしかしなくてもそういう時間。買い物するなら急ぐわよ――それとも、先にあいつを探しに行く?」
「ディイ君は、こういう時はいつも一番最初に来てるからね。あの子の家に行こう、きっとお腹が痛いんだよ」
「……まあ、根拠がない限り、否定はしないけど」
せっかく〈水〉から航自機を三機も乗り継いできたのに――と愚痴りながら、ロビンは早速歩き出したアリスとアベルに追従する。
「そうだ、姉さん」
最後に見かけた露店で小指大の水晶の欠片を三つ買い、その後アリスが振り向いた。
「え?」
「遠い所から、あたしに会いに来てくれたの?」
「え――――な、何を、今更」
「ね。そうなの?」
ロビンはしばらくの間、黙り込んでいた。
「……あなたとは、色々あったから、ね」
赤い空の色を頬に映り込ませて、それだけ返す。
「そう、だね」
アリスの声は、どこか透明に響いた。
「うん、そうだね――ありがとう、姉さん」
そうして喋り声を途絶えさせ、二人で共に歩いていく。
空を翔ける航自機の数も、ごちゃ混ぜの喧騒も、食べ物と血の匂いすら、ディイの住居に向けて歩を進めるごとに減じていった。
「わ……」
――数秒だけ、ひどく強い風が吹く。
ほつれ崩れる網のように、空に張られていた陣がほころぶ。
そうして空の色は、魔術の赤から自然の青へと変わっていった。
上空の
「お父さんの仕事、終わったみたい」
アリスの呟きに、ロビンは応えなかった。
ただ彼女は露店の向こう、建物の向こう、土塀の向こう――町外れの“精骸溜り”と呼ばれる竜の血肉の溜りに視線を据えて、しばし動きを失っていた。
世界は竜で出来ている。
アリスとロビン、そして数百万からなる人間の住まうこのくにの名は
現在その上空にあるもうひとつのくにの名は、渦竜
どちらも百万の家と千万の動植物を支えて恥じない、人語の及ばないほどに巨大な肉塊だ。
――そう、血の匂いを嗅ぎ慣れていない人間など、この世界にいるはずがない。
誰もがこの
ではこの
日が陰る。魔術の反動となった風は、雲に諌められて薄れていったらしい。
――ただ、かなわないな、と、ロビンが呟く。
その独語にアリスは答えようとして、けれどうまく応えられなかった。
二体の竜の再接近の日、この街には全てが揃う。
だから少女にとっては、この日だけがお祭りだ。
アリス・パウルにとって、渦竜
「……水晶だけで、良いの?」
「何が?」
アリスが欲しかったものは、掌からもこぼれないような小さな欠片だ。
「え、アリス――」
今はロビンの、それからディイの手を握っていたいから、大きなものは手に持てない。
三人が揃わなければお祭りなんてお祭りじゃないとは、いくらアリスでも恥ずかしくて口に出せないけれど。
だがアリスが〈風の広塔〉の管理者の娘でなければ、ロビンと彼女は出会うことすらなかった。
〈風〉の管理者の跡継ぎと見なされ、呑気で善良な性格に育ち、魔術の勉強以外には勤めるべき仕事すらないアリスは、この世で最も恵まれた部類に入る少女だ。
少なくとも、この日までは。