はじめに、あなたを守りたいと言われた。
苺々は桃歌に優しい声で語りかけ、外界の危険さを、家の全ての扉を閉じておくことの重要さを強調する。
桃歌にも辛い経験はあったから、それはすぐに受け入れられた。
あの時の苺々は本当に真剣だった。受け入れられる筈もないような首輪と鎖すら、それが彼女の言葉と共に提示されたものであるならば受容してしまえるくらいに。
そして桃歌が苺々の真意に気付いた後でも、ひどく
――たまに、触れただけで壊れてしまいそうな顔で、苺々は昔の事を思い出していた。
騙されたとは思わない。
ただ過ぎゆく時の向こう側に、もっと幸福な日常を幻視する。
そして苺々は、今までずっとそうしてきたように、桃歌と同じ場所にいる。
「……わたし、苺々ちゃんの気持ちがわからない」
戸惑うように首輪を撫で、桃歌は苺々の眼を覗く。
――目の前の大きな瞳は、ひどく悲しそうに歪んでいた。
「桃歌……」
苺々の心の中で、脆く柔らかい何かがうごめいている。
「こんなことしなくても、わたし、逃げたりなんかしないよ?」
嘘だ、とは苺々は思わない。
だって桃歌は桃歌だ。
たとえ彼女が苺々のことが大嫌いだったとしても、たった一つの貸しがある。
「あの時のこと、ほんとにうれしかった」
過去の桃歌もまた、鎖に繋がれていた。
桃歌が獣人を扱う人買いにさらわれた後、それを買い受けたのが苺々だ。
――救われた。助かった。あるいはただ単に、独りぼっちの桃歌が
解釈は自由だ。
“うれしかった”
ただその言葉は、嘘ではないと思いたい。
それがとうに台無しになってしまった気持ちだとしても、思い出として保存できるように。
「……桃歌」
気付いたら泣き顔になっていた、そんな自分を
「私は……その……」
言葉を選ぶ。
言葉を、何か、取り繕って、保たせて、
「…………ぅ」
――苺々自らが付けさせた首輪は、どんな言葉よりも雄弁だ。
桃歌とはじめて出会ってからまだ三ヶ月も経っていないと言うのに、こんなにも
もう崩れているものを、どうやって取り繕えば良いのかが分からない。
「……桃歌の言ってること、嘘だとは思えないけど」
ただ唇だけが動いていた。
「じゃあ、なんで――」
「桃歌は、知ってる?」
「え?」
「人は、いなくなるの」
苺々は何も知らない。
そんな事は覚えていない。
心の中で動いている。
それは脆くて柔らかい。
「どんな人も、いつかはいなくなるのよ。死んだり、消えたり、心の中身が変わったりして」
「……苺々ちゃん。わたし、よく、」
「それは絶対。捕まえていないとすぐ消えちゃう。どこかに行っちゃう」
「――――」
「……桃歌が、どこかに行っちゃうのは、嫌だ」
言葉は思考と関わらない。
喋りながら考える。
どうすればいいんだろう。
――あたしの事が大嫌いな桃歌は、どうすればあたしのそばにいてくれるんだろう。
「…………」
そして沈黙が続く時間は、思ったより短かった。
「待ってる」
「え?」
「待ってる、って言ったの」
よくわからない表情だと苺々は思う。
「苺々ちゃんが、もう少しだけわたしの事を信じてくれるようになるまで、わたしは待ってるよ」
困ったような笑みだと気付くと、喉から声が漏れた。
「……あ」
ごく単純に、涙が出そうなくらいに嬉しくて、苺々は顔を覆った。
「ごはん」
「ふぇ……?」
「ふふ。――ねえ、まだ食べてないよね?」
言い置くと彼女は、返事も待たずにキッチンに向かう。
「……ごめんなさい、桃歌」
立ち尽くして呟いた。
その声はきっと小さすぎて、ごく普通に歩くだけの少女にも追いつけないだろう。
その後の平凡な夕食は、ふたりにとっては得難いものだった。
「……すぅ」
家――賃貸マンションの三階。食事も終わり、桃歌が湯船から出るのを待ってから苺々もシャワーを浴びて、その後ぼんやりしているともう真夜中になっている。
すっかり寝入った桃歌を横目に、苺々は部屋の中で
「…………」
別に桃歌に見つかって困る事をする訳でもないのに、いつも桃歌が寝ている時に事を運んでいるのはなぜだろうと思う。
なぜも何もない。
自分で閉じこめた桃歌と、一秒でも長く同じ時を過ごしたいからだ。
「よ、っと――」
吹き込んでくる寒風が桃歌の身体をなぶるよりも早く、苺々は窓枠に足をかけた。
――なんだか、逃げ出していく泥棒みたい。
洒落っ気のある思考も束の間、そのまま完全に足場を窓枠に移行し、身体を夜空に
足場は窓枠。
窓を閉めて一歩を踏み出した。
宙を踏みしめる靴に、手応えはない。
「――――」
〈塔〉の本質は、多数の世界を結ぶ通路である。ならばそこに至るための煩雑な経緯は、できる限り省略するのが当然だろう。
ごく普通の家屋から、定型で原始的な魔術によってたどりつけるくらいに。
言葉はない。
踏みしめて登っていく。
〈塔〉への階段は、
――寒い。そういえばあの家の家賃は法外に安かった。前の住人が謎の失踪を遂げる事件があったからだそうだが、その内幕を知っている苺々にとっては一方的に得なだけだ。桃歌は怖がっていたけど。最近ではもう怖がりもしないけど――
「……ほんとは、短い階段のくせに」
一歩ごとに桃歌が遠ざかる。振り向いても何も見えないことは分かっている。
手応えのないものだけを選び取り、平行ではなく螺旋を描いて登っていく。
――もう溶けた雪を踏んで上へ。
たぶん脆くて柔らかい。昔のことを思い出す。
ドーナツの穴を踏んで上へ。
胎児の記憶を踏んで上へ。
思い出すのは、苺々がまだ小さかった時のことだ。
勿論苺々はクマだけど、実家には沢山の家族がいた。
沢山の沢山の家族だ。確か、二百人くらい。
「…………っ、あ」
頭の中の、どこか柔らかい部分が痛んだけど、無視して階段を登っていく。
記憶を掘り起こしながら登る。家族には小さいのも大きいのもいたし、可愛いのも可愛くないのもいた。
――乾いているか湿っているかでいえば、湿っている家族が多かった気がする。勿論
しかしその日に逢った家族のひとりは、ひどく乾いていたと思い返す。
『お兄ちゃん?』
確か、そんなふうに声をかけた。
寒かった日の事だ、彼は雪道にかがみ込んでいた。
その時の彼が何をしていたのか、苺々にはよく思い出せない。
ただ呼びかけられた後、どうなったかは覚えている。
たぶん脆くて柔らかい。
一見眠っているのかと思ったけど、彼は揺さぶっても起きなかった。
『ねえ、どうしたの――』
苺々の手に触れる身体が、凍りつくほどに冷たい。
――顔を見てみると、少しおかしかった。
眼球のあるべき場所に、雪が詰まっているように見えた。
『え、』
思わず手を離すと、彼はうつぶせに地面に寝転がった。
『え、……え? え?』
骨と筋肉で出来ている。
それ以外のものがない体は、とてもおかしい。
『……なんで?』
両脚は流血と混じり合い、膝から
空中でまた一歩脆いものを踏み、今になってあれが獣に食い散らかされた証だと理解する。
幼い頃に、そんな事があった。
そんな事が、百回と少し続く。
二百人くらいいた家族は、今は三十人くらいになっただろうか。
――忘れ去った記憶を、いつの間にか踏み越えていた。
夜空の点と化した苺々が、〈塔〉の
それはあまりに脆いから、とうにひび割れて壊れていた。
それが何かは分からないけど。