月夜との出会いは、たった四時間前の事だった。
群雲に月光が隠された、憂鬱な夜空だ。
彼女は路地裏で眠っていた。
猫耳と猫の尻尾が付いたその姿を見て、本当に
そんな彼女に手を伸ばせば、他者からは同胞を求めたようにも見えるだろうか。
――ぱさり。
苺々の人でない耳を覆っていた帽子が落ち、眠たげな視線に晒される。
「ねえ、とうかって誰?」
「――――――へ?」
そして苺々は、気が付いたら月夜に不思議そうな目で見られている。
「な、なんで、その名前を、」
月夜に手を引かれてからの半時は、完全な忘我の時間だった。
何を言っていたかどころか何を考えていたのかも覚えていない。恐ろしくなって問い返す。
「わたしに後ろの方をいじられてる辺りで、とーかとーかって何度も何度も」
「……あ、う」
わめきだすよりも先に突っ伏した。
ここはホテルの三階。嵌め殺しの窓を突き破って飛び降りたくなる。
客観的に見て最低だし、主観的にも最悪だ。
「聞かれたくないこと?」
小首を傾げる月夜から目を背けた。
「……というか、その」
「ん?」
「嫌じゃ、ないんですか?」
ようやく外気の冷たさを自覚して、裸の身体にシーツを被せる。
一枚のシーツをふたりで使うと、視線を逸らしにくくて気が焦った。
「……こ、こういう状況なんだから、私がその、桃歌をどう思ってるかくらい分かるでしょう?」
頬が赤らむ。女同士だろうが何だろうが、付き合いにはルールがある。
ベッドの中でこんな事を言うのが無粋なら、いきずりの相手との最中に別の女の名を叫ぶのは、醒めた眼で見られたい類の馬鹿だろう。
なのに目の前の月夜は、茫洋と微笑むだけだ。
「浮気なんだ」
「――――」
浮気なのだとしたらどれほどいいかと、一瞬だけ思ってしまった。
だって桃歌は苺々の、
「わたしも、浮気なんだ」
「……はい?」
沈黙する。
ちょっと待て、と思ったが、月夜は待たなかった。
「お姉さまのことが好きなんだ」
――ああ、そうか。
その顔を見て理解する。
苺々にも嗅覚がある。正体不明かつ初対面の女性に感じて当然の、危険と不安の匂いをどうして嗅ぎ取れなかったか、ようやく分かった。
そしてどうして月夜が、初対面の苺々の誘いを受けたのかも。
この場所にいない誰かを好きと言う。
告白をした顔に何もない。
「……怒った?」
「まさか。――ねえ」
「ん?」
傍目から見れば綺麗なままで、月夜は酷く欠けている。
「殺されそうになった事って、あります?」
「あるよ」
言葉に合わせて猫の耳が微動する。
苺々や彼女のような異形は、この世界では存在すら認知されない身だと言うのに、真面目に隠す気もないらしい――ホテルへの道すがら“苺々の耳を見てなければ、なんとか誤魔化そうとしてたよ”と言っていたけれど、どんな誤魔化しを試みていたのか怪しいものだ。
もっとも、それはそうだろう。
誰だって、
「……殺されかけて、その後はどうしました?」
「食べちゃった」
ふとももの付け根を撫で、ほとんどはね、と彼女は言い置く。
思った通りの答えだ。
あるいはあの路地裏で、既に演じていた答えだったのかもしれない。
たとえ苺々がナイフを振りかざしたとしても、彼女はそれを受容するだろう。受容の形はともかくにせよ。
――それが先天的なものかは知らないけれど、彼女は純粋すぎる生き物だ。
行き先には安全を、出会いには愛情を、傷病には寛解を――人間ならば当然の、世界への期待と言うべきモノが、ほとんど完全に削ぎ落とされている。
たとえ内面が嵐だったとしても、傍目からは隠者のように見えてしまうほどだった。
ため息をつく。
危険な匂いも何もない。この白いひとは、世界で最も安全な女性だ。
恐らくは、彼女がまだ人間のふりをする理由にさえ触れなければ。
「聞かれたくないんなら、いいんですけど――」
それでもなお彼女は魅力的だ。
益もないというのに、気紛れの分だけ深入りをしてしまいたくなる。
「あなたの“お姉さま”ですけど、今は会えない理由があったりしません?」
「……なんで分かるの?」
「行方不明とかなら、せめて名前だけでも聞いておこうかと思いまして」
驚く月夜に、質問には答えないままで意向だけを口にする。
もっとも答えるのも馬鹿らしい。先ほどまでのやり取りから考えれば、何をどう見たって今までの絡みは代償行為だ。
旺盛に影もなく苺々を求めていたと言うのに、本命には気まずくて手を出せないという事はないだろう。となると、後は分かりきっている。
「あなたは、
そして苺々がそんな事を考えている時、いつの間にか月夜の顔は、困ったように笑っていた。
――いつも、他人の事ばかり考えながら生きていたかもしれない。
けれど桃歌の事を考えるのに比べれば、こんなのは片手間だけれど。
「お姉さま……
彼女が妙に考え深げな顔をしているのは、何かを隠しているからなのだろうか。
ともかく苺々は首を横に振る。聞き覚えは無いと示すサイン。
「その人は、今は――」
「……今は、どこで何をしているかも分からないよ」
今になって寂しげな顔が覗く。
「長生きをしすぎてね。色々な事を、忘れてはいけない事まで、忘れてしまったの」
それは彼女が初めて見せた顔だというのに、苺々にはどうする事もできない。
「あのね」
どうしようもない沈黙が訪れる前に、眠ろうと考えかけていた。
「おっぱいを出しても良いよって言われたの、ちょっと嬉しかったよ」
軽い頷きだけを返す。
どんな生き物でも、母乳が出るのは出産の後と決まっている。
けれども彼女の本命は女性らしい。
――本当に、
苺々は男は嫌いだけど。そういう気持ちは、分からないでもない。
「……ねえ、もう眠い?」
ささやくような声に、少し、とささやき返す。
「かえるって、寒いと眠っちゃうんだったかな」
指で耳をつつかれると、ちょっと痛い。
「私はクマです」
「髪からして緑色なのに……」
無視してうつぶせになり、月夜の視線から顔を隠す。
「また会えるかな?」
「――――」
また会えば悪くない時間を過ごせるだろうけど、あまり会いたくはない。
彼女なら自分の心を受け止めて、そして受け止めた上で
そんな妄想を引き起こすから、どちらかというと会いたくない。
「――あなたが会いたければ、会えますよ」
ゆっくりと顔を上げて言ったのも、どちらともつかない言葉だ。
期待をするだけならともかく、それを表に出してもしかたがない。
「苺々、さっきから優しい」
そんな風に言葉を濁したのに、なぜか月夜は微笑んでいる。
「なんでですか」
軽く睨むと、面白そうな顔で見返された。
「苺々ってさ、わたしに似てるよね」
「似てませんし、それじゃ自画自賛です」
そう言われて月夜が目を瞬かせる。
「――あ、わたしが優しいってことじゃなくて。
一見他人に興味が無いように見えるのに、思い返せば案外干渉してるっていう意味」
そんな、苺々の人物評を知っているような事を言ってくる。
「初対面なのに、似てるも何もありません」
自分が月夜を評価した事は棚に上げて、常識的な言葉を口にする。
「これでも身体を重ねたのに?」
「…………」
顔を覗き込まれると、目を逸らすことしかできない。
「……美味しい所だけつばを付けてるんです。興味がなくなったら、さっさと忘れますから」
「なら、ますます似てる」
穏やかに楽しそうに笑って。
「――ねえ、また会えるかな?」
そう言って悪戯っぽく手を伸ばしてきたから、すぐに彼女のしたい事が分かった。
けれど腹が立っていたから、あえて彼女の希望を無視する事にする。
「……ん」
「ん……」
子供がやるように互いの指を絡める代わりに、互いの指に
「……それじゃ、いつかまた」
「うん、いつかまた――あ、ところで」
月夜の表情が消えていた。
「桃歌って、誰?」
その問いに何と答えるべきかは、それこそ分かりきった事だ。
月夜と別れたその足で苺々が目指したのは、勿論彼女と桃歌の家だった。
玄関を開けると、さらさらと鎖の落ちる音がする。
廊下を歩くと、だらだらと鎖の流れる音がする。
「……あ」
桃歌がいる。
月夜が猫だとしたら桃歌は子牛だ。ゆるく垂れた黒い耳、角、尻尾。どれも普段と変わる事はない。
「苺々ちゃん……」
彼女は普段通りに首輪をつけ、そこから鎖を垂らしていた。
どこにも繋がっていない鎖だ。狭い部屋の中に縛り付けてしまえば、彼女は歩く事すら不自由になるから。
部外者が見れば、普通の金属からなる鎖ですらないと気付くだろう。
月夜に魔術師などという単語を出されても、驚けるはずがない。この首輪を作り上げたのは、元より怪しい異次元――〈塔〉と呼ばれる世界の技術だ。
(どうやっても切れないけど)軽くて頼りなげで、首を吊る事すらできないような鎖。
(どうあがいても外れないけど)柔軟で薄くて、眠る時にすら身体に干渉しない首輪。
何の役にも立たないまま存在を叫ぶ拘束具。
虐待に似て溶接された
「――――」
桃歌の足が萎えていく姿を見たくない。行動の制限は完全なオートロックと、存在しない合鍵がまかなっている。
――
だが、そう思いかけるたびに桃歌が苺々を正気にした。
桃歌はまっすぐにどこまでも正気だった。自らのすべき事を考え、あるいは家の中を単独で行動し、あるいは苺々に語りかける。
鎖を揺らすままで桃歌が作ったケーキを口にした時、苺々は声をあげて泣いた。
「……あのさ、苺々ちゃん」
けれど今の桃歌は、どんな甘いものも持っていない。
――彼女の顔を見るたびに気が触れる。
それが優しさだとしたら、この世は滅んだ方がいい。
「どうして、放してくれないの……?」
それはこの世にひとりきりの、特別なあなたがそこにいるから。
出会った時からいつまでも、期待する事すら恐ろしい。
桃歌は苺々の奴隷だった。