『いつかまた』第3話“life game:player”

それは、ひどくさびしい風景だった。
視界に映る人間が、皆片端から死んでいる。


いるのは何処とも知れない部屋の中。視線を動かしてみれば、そこは全てが描かれた後のキャンバスだ。
床は赤塗り。
一人二人が鮮血でもって虹を描くくらいなら、床本来の色も見えたろうにと思う。十人を越える人間が砕かれて撒かれているせいで、床に流れる血は未だに固まらない。
壁は赤塗り。
男とも女ともつかない誰かが、壁に執心して頬擦りをしているように見えたが、良く見たら頬から頭蓋が砕けていた。
苺々自身の体も血にまみれているはずなのに、その身体はどうしても視界に映らない。
その部屋は腐っていた。
「……あ」
その部屋は尊かった。この部屋の主に相応しく、全てをあらかじめ(あつら)えたかのように。
「――残ったのは、貴様だけだ」
ひどく冷たい声が、苺々の意識を縛った。
視界に映る人間は、皆片端から死んでいる――故にその声の主は、人間ではない。
黄金率の肢体。黒く、長く、どこまでも流れていく髪。
床上に満月が在る、という錯覚を覚える。それほどに彼女の瞳は深く、禍々しく赤かった。
彼女は世界の支配者だ。
今の苺々には、この部屋の外に世界が存在するとは、どうしても思えなかった。
「どうした。既に言葉も尽きたか?
ここで我の手に屈するなら、今まで耐えてきた意味もなかろうに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)
そんな事を言われても、身体どころか思考すらろくに動かない。
その代わりに空想がうごめいて、苺々の心を刺した。
――おかしいな。
私も、この(しろ)いひとも、元からこんな事をするはずがないのに。
「ふふ――」
彼女の左手は胸をやさしく撫でる。場違いな快感が、胸の奥にほどけた。
だが白く伸びやかな指は、触れただけで苺々の心臓を探り当てる。
「褒め置こう」
気が触れるほど美しい笑み。
「絶えて無かった事だ。
貴様は、我を怒らせた」
彼女の左手が動いたと感じる間もなく、何かが破裂する音が聞こえる。
苺々の目の前が真っ赤になり、漆黒に染まり、そして何も分からなくなった。

「……、……っ」
誰かが呼んでいる。
その事に気付いても、応えるべき唇が重すぎて開かない。
「……お、……、ねえ――」
全身が虚脱している。この重さを跳ねのけ、誰かと対面するなんて、とても今の自分には耐えられない。
「おーい、……嬢……?」
そもそもこの世に、桃歌以外に耐えるべき事なんてあるんだろうか?
「お嬢ー、朝だよ……」
唇より先に、まぶたが自然に開いてしまう。目に入るのは、少なくとも桃歌ではない――
「……あー、しょうがないか、こりゃ」
「ぇ……?」
何か、嫌な予感が、
「ぺと」
緑色のカエルを一匹、顔面に貼り付けられた。
「のァーッ!!!」
バネでも仕掛けたような勢いで跳ね起きる。
「あはは。――お嬢、相変わらずカエルのくせにカエル苦手なんだね」
むしろ苺々にとってはその場で卒倒した方が楽だったかもしれないが、ともかく笑いながら彼女(・・)が手を伸ばすと、アマガエルを模したおもちゃはあっさり苺々の視界から消えた。
「……カエル、言う、な」
きれぎれの声で、未だピントの合わない正面を睨みつける。
「それに、こういう悪戯は止めなさいって、いつも……!」
「いいじゃん、親友なんだし」
「どうしてあなた(・・・)なんかと!? 私には親友なんか要りません!」
「あたしは欲しいよ。お嬢のこと、好きだし」
「っ……!」
もう一度怒鳴りかけ、ため息。
二度の瞬きの後、苺々は平常を取り戻す。
「――アルコル(・・・・)、今日はこのくらいにしましょう」
微光(アルコル)、あるいは(クロ)
その名の通り浅黒い肌を持つ、〈塔〉で生まれ〈塔〉で育った少女。
苺々とは短くない付き合いであり、苺々が口説く気になれない女性の一人でもある。
「ん。でもお嬢から停戦交渉するってのも珍しいね、さっきまでぐーすか寝てたくせに」
「寝ていた? ここは……」
辺りを見回すと、今までいた世界のそれとは若干異なるものの、ごく分かりやすい喫茶店の店内が視界に映った。
〈塔〉は多次元の通路を役割として持つ世界だが、どんな世界でも人が集まれば町くらいはできる。様々な世界から持ち寄られた文化は、くつろぎの場所もまた形作っていた。
アルコルとはここで待ち合わせの約束をしていた事を思い出す。けれど苺々は席につくなり柔らかなソファーに敗北して、今まで眠りこけていたらしい。
「ウェイトレスさんが起こそうかどうか困ってたよ。お嬢、寝てなかったでしょ?」
「……ええ、まあ」
月夜と過ごした時に、多少でも寝ておけば良かったと後悔する。
桃歌と一緒にいる時は、どうせろくに眠れるはずもないのだし。
「しかしお嬢の寝顔がいかにかわいいのかを力説したら、ウェイトレスさんは説得されて去っていきました」
「……それ、冗談ですよね?」
「どう思う?」
苺々は眉根を寄せて、応える代わりに席に置いてあった水で唇を濡らす。
「今回私を呼びつけたのはあなたでしょう。……アルコル、そろそろ用件を言ってください」
「まあね」
アルコルが、わずかにうつむいて息をつく。
「仕事の斡旋。きっと、気に入ると思う」
もう一度上げた顔の中の瞳は、静かに冴えた光を放っていた。
あんな生活(・・・・)は、けっこうお金がかかるでしょう?」
アルコルは、鎌をかけたわけではない。
お互い当然知っていることを、言葉として確認しただけだ。
「どこのお雇いです?」
「さあ」
あっさりとした答えに、苺々が眉をひそめた。
依頼人は不明。そんな時点で、まっとうな仕事ではありえない。
「お嬢らしいよね。真っ先に“誰が”か――」
――あなたは、他人ひとのことばかり見て過ごしてるんだね。
月夜のつぶやいた言葉が、苺々の脳裏をかすめる。
「でも、次は誰だって“何を”か聞きたいよね?」
アルコルは、どこか奇妙な表情をしていた。
笑っているように見え、それなのに震えているように見える。
「……ねえ。お嬢は、月夜っていう名前の獣人は知ってる?」
その言葉に心が応じる。唇よりも先に。
白い彼女の姿が、苺々の脳裏に蘇った。
「――私を殺し屋か何かと勘違いしてません?」
動揺を読み取られないために質問を質問で返す。
「お嬢、先読みすぎ」
アルコルは苦笑して、傍らのジュースに口をつけた。
「いきなりどうしたの? 月夜とやらのことを殺せなんて、誰も言ってないし――」
「月夜の風評だけは聞いていますよ」
苺々は仮面を被って、半面の嘘をつく。
「襲いかかってきた狩人達を、何人も何人も、ことごとく……殺さなかった(・・・・・・)、って」
その言葉に、目の前の表情がまた動く。
「……アルコル、仕事の内容を言ってください」
泣き出しそうか、あるいは笑い出しそうな顔が、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「月夜を殺しちゃってください」
歌うように言う。
「殺して砕いて撒いちゃってください。報酬は指定の口座に振り込み、あるいは代理人から受け取り、手段は問わず、人員も問わず、経費は依頼人持ち、宿泊所完備、風光明媚――」
「……はい?」
苺々が口を差し挟んでも相手にしない。
不可思議な笑みを浮かべて、アルコルは苺々を見つめた。
「ねえお嬢。気を悪くしたら謝るけど、この仕事には五十人くらいの人間が参加してるんだってさ」
勿論苺々は気を悪くなどしない。
それよりも早く襲ってきた目眩に、こめかみを押さえていた。
「……その依頼人というのは、馬鹿か詐欺師ですか?」
無邪気な様子のアルコルを見返して、苺々は声を張り上げる。
「なんでたったひとり(・・・・・・)に五十人でかからなきゃいけないの!? そんなの、無駄にお金がかかるだけ――」
「お嬢。あたしもう前金もらってるから、詐欺じゃあないと思うよ?」
アルコルは、やはり笑っていた。
「ついでに言うと、五十人のうち半分以上はサポート役か後始末役みたい。人選も、でたらめじゃないね。
宿泊所完備って言ったよね? 配置の事まで含めて、うまくお互いがお互いを補助しあうようになってるの。
――ねえ。遊びでスノウナイトやベニゾンの魔女、それに栄子ちゃんにまで話を持ちかけるような奴がいる?」
長広舌にて示されたのは全員が殺し屋、それか傭兵の名だ。
「……かかる費用を合計すれば、映画が一本撮れますね」
「ま、あの子らは断ったみたいだけどね。一度いっしょに仕事してみたかったんだけど、それは仕方ないか」
言葉を切る。
程よくすいた喫茶店の中で、アルコルは明朗と人殺しの話をしている。
「きっとさ、映画を撮りたい奴がいるんだよ。どんな最低の映画(スナッフ)で、誰を喜ばせたいのかは知らないけど――」
「――もう一度言いますが、私を殺し屋か何かと勘違いしてません?」
表情を苦笑の形に固めて、苺々はアルコルの言葉を中断させる。
「え?」
「え、じゃなくて。
……荒事をやらない訳ではないですが、人型の相手は専門外です。そういうのは、誰か別の人に持ちかけてください」
「……本当に?」
「なんですか、それ」
「だってお嬢は、桃歌ちゃんのためなら人を殺せるでしょ?」
「――――」
返答などしない。
ただ、視線を返すだけだ。
「……あは」
「…………」
沈黙。
「やっぱり、引き受ける?」
「……情報が足りません。私が、その……月夜に返り討ちにされたら、桃歌は……」
うつむいて、ぽつぽつと喋る。
「お嬢は、あたしにも桃歌ちゃんのことを詳しくは教えてないからね」
例えば、桃歌のいる家の場所。アルコルが何かの気の迷いで桃歌を連れ出そうとしても、絶対に辿り着けはしない。
――アルコルの顔を伺おうとも思ったが、苺々は中途でそれを止めた。
彼女が苺々と月夜とのことを知っている筈はない――そもそもアルコルが苺々に呼びつけられたのは、月夜と出会う前の話だ。誰がどんな情報網を持っていたとしても、未来に跳んで苺々の出会いを予知する事など出来る訳がない。
「でもあたし、月夜に会ったことあるよ」
「え?」
驚きの声が、思わず喉から漏れた。
「言ってなかったっけ? あたしは偵察役。なら、月夜に会いに行くのも当然だよね」
「……どう……でしたか?」
何故か、問いかける声がしぼむ。
「うん。ちょっと轢いてきたけど、さすがにそう簡単に抜け駆けはできなかったね」
「――轢い、た?」
その笑顔を見て、苺々は改めて認識する。
「そうそう、轢いたの。……あ、勘違いしないでよ? いくらなんでも普通の車で普通の速度で迫るほど、相手を馬鹿にはしてなかったって!」
彼女はとても分かりやすい、何でもする、殺し屋か何かの少女だ。
「こう、車が渋滞してて、月夜が横断歩道を渡ってる時に――それにしても、凄く綺麗な女の人だったなあ――タンクローリーでこう、ね?」
アルコルはジュースの入ったグラスを軽く、小揺るぎする程度に指で押す。
だが苺々の脳裏には、グラスの倒れる様が克明に描かれた。
ひび割れて中身をこぼすグラス。他のモノを巻き込む。転げ回る小さな車。十分な火花。炎上。爆発。
「――――」
「正直、爆発までは起こせる確信があったけど、帰ってこれる自信はあんまりなかったな。
でも月夜は隙だらけだったね! 女の子が十メートル以上もボールみたいに飛んでいく光景って、あたし生まれてはじめて見たよ!」
――痛い。
苺々の左胸が、どうしてかきつく痛む。
「……ねえ、警察って何でしたっけ?」
「主に交通違反の車に切符を切る人だね。
あたしは激突前に運転席から飛び降りてたし、現地警察が〈塔〉まで足跡を辿れるかは怪しいし」
「現地にも、魔術師の一人や二人くらいは――」
「いても気付くまでは時間がかかるだろうね。それにこの際、もっと重要なことがあると思わない?」
アルコルは笑顔を胸に、心を純に、大事なこと以外を切り捨てる。
「……分かるだろうけど、それでも月夜は余裕で生きてた。ほんとは爆発に応じて自分から跳んだのかもしれないけど、そこは良く分からない」
アルコルが息をつくと、楽しそうな笑顔が減退する。
「その後の月夜はあたしを見つけるより、巻き込まれた人たちを助けようとしてたみたい。その頃はもうあたしは逃げに入ってたから、良く分からなかったけど――」
息をつく。
「情報は、これだけ」
いつしかアルコルの表情は、完全な透明をたたえていた。
「月夜は強い、とっても強い、でも不死身でも無敵でもない。
だから(・・・)、たぶん、これは楽な仕事だよ」
苺々は動悸と共に沈黙している自分に気付いた。
心臓が波打ち、アルコルの声を聞くだけで跳ねている。
「もしかしてお嬢は、あたしを殺して月夜を助ける?」
「……そんな事は、しません」
――別れ際に、また会えるかなと月夜に聞かれた。
それにどう答えたのか、今は思い出せない。
「じゃあ、あたし達と一緒に月夜を殺す?」
「……いえ」
その言葉を聞いて、どこか嬉しそうに。
「うん」
とても嬉しそうに、アルコルがうなずく。
「お嬢は、何もしないんだね」
「――はい」
浅黒い肌にほんのりと朱色を混ぜて、アルコルが微笑んだ。
「多分言ってなかったと思うから、教えてあげるね。
あたしが月夜を殺しに行く理由。喫茶店のバイトや星屑の掃除じゃなくて、死体と砕けた拳と燃える脂でお金を稼ごうとする理由。
お嬢が大好きな桃歌ちゃんと一緒に暮らして、それ以外のことを何もしない(・・・・・・・・・・・・・)理由」
その笑顔は、どこか遠いところからの笑みだ。
「それが楽だからだよ」
会話はそれで終わり、苺々は沈黙する。
そうして終わったはずの会話に、どうしてか唇が言葉を添えた。
「――なら、」
「ん?」
桃歌の姿を見ると、いつも胸が苦しくなる。
苺々には彼女を幸せにするどころか、苦しませることしかできない。
だというのに、今心安らぐ時があるとすれば、それは桃歌のそばにいる時だけだ。
「……たった二人で幸せになれるなら、こんなに楽なことはないのに」
ガラスの破片のような、鋭くて得体の知れない何かが、苺々の心を刺した。
楽になるのか。
幸せになるのか。
それとも、二人になるのか。
いくら一人になろうとしても、それだけは決してできはしない。

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