「よっこ、なんか企んでるでしょ?」
再訪したアリチェは、よすがの様子がただ事ではないとひと目で気付いたのだろう。
彼女の表情は、今では懐かしい、“いつもの”笑顔に近かった。
けれどそこには、有無を言わせない響きが込められている。
「……っ。べ、べつに……」
「もー、いまさら遠慮しなくたっていいじゃない。
よすがはまほーつかいなんだよね?
まほーでわたしをぶっ殺すとか、そういうの?」
「そ、それは……しないよ……!」
アリチェが何を考えているのかはわからない――けれど今のよすがには、アリチェのちいさな身体の中に、押し込められている嵐が見えた。
五十時間ほどもまともな発話をしていなかった喉に火が入る。
何かを言わなければならないと思った。警戒されてしまっては何にもならない、逃げられるか、あるいはアリチェの方から“ぶっ殺し”に――
「……ちょっと、長話しよっか」
けれど、アリチェはなぜか、そんなよすがを安心させるかのようにほほえんだ。
「え? で、でも……」
「でもじゃないって。殴らないから。
なんもしないよ……さっきのことだって、そこまで聞きたくもないし」
「アリチェ……」
「ただ昔みたいに、部屋でいっしょにポテチ食べて、だべったりしてさ。
ああ、昔みたいって言っても……わたし、よっことそんなこと、したことなかったっけ……?」
「……うん。アリチェをこの部屋に入れることだって、前はなかったから」
「そう。じゃあ、私はいろいろ買ってくるからね?」
笑顔になる。
その笑顔は昔みたいな純真そのものに見えて、よすがは心を奪われる。
そして彼女の、猫のように気まぐれで身軽な動きはずっと変わらない。アリチェは身を翻して、洗面所に走っていき――
「で、その前に――よっこは、お風呂入ろっか!」
バケツで水をぶっかけられた。
* * *
ずぶ濡れのままユニットバスに入り、念入りに体を洗ってから、久しぶりに変身の魔術を整えてアリチェに対面する。
シャワーを浴びた時は、塞がりきってない胸の傷が痛んだ。
それでも、お風呂上がりの気分は悪くない。買ったきり使っていなかったピンクのパジャマを着て脱衣所を出る。
アリチェはお菓子とジュースをテーブルに並べて、笑顔でよすがを待っていた。
「……お風呂は入るべきだったね、うん」
「まあねー。ぶっちゃけクサかったし」
「そんなこと言わないでよ……というか、バケツで水をかけたのは意味あったの?」
「いや、やってみたかっただけ」
「ひどいよう……」
そんな言葉と共に自然と口が尖ることに、よすが自身が驚いた。
――胸に釘を打ち込まれた時ですら、アリチェを非難するような言葉は出てこなかったのに。
今の自分が、勇気と言えるものを持っているかはわからない。
けれど今は――今だけは、自然と彼女に本音を言える気がする。
「というかもしかして、よすがってゾンビなの? いつもは美白してたけど、ひきこもってる時はなんか灰色の肌してたじゃん?」
「それは……私にかかった呪いみたいなものなの。前に使おうとした魔術が失敗して、身体がこんな風に変わっちゃって……」
「――それ、ずっと気にしてたの?」
うなずく。
冷たくもなく、優しくもない、透明な表情がよすがを見返す。
「ずっと気にしてた。
でも、ずっと言えなかったよ。
アリチェは……ねえ、私の家に来たとき、変身を解いた私が私だって、どうして分かったの?」
その問いに、アリチェはしばらく逡巡する。
どうしてそんなことを聞くのだろう、というような顔。
言葉を探す少しの時間。
「よっこはよっこだよ?」
優しくも冷たくもない、それは当たり前の顔の答えだった。
「……そっか」
「そりゃそうだよ。知らなかったし?」
「いや、知ってた。うん……」
静かにうなずく。
もしかしたら、今からでも私たちはやり直せるのかもしれない。
アリチェの言葉を受けて、わずかな希望が胸に芽生える。
「ねえ、アリチェ――アリチェが人を傷つけるのが好きなのは、もうわかったよ。
私はそれを怒れないし、憎めない。
でもそれは、ほんとうに、ほんとうに、嫌だったの」
「……うん。よすがが嫌がってたのは、よくわかってた」
「今までのアリチェがそれを我慢してたのは、尊いことだと思う。
それなのに、“したいようにすればいい”なんて、言うべきじゃなかったよ……」
アリチェの目をじっと見る。
責任感を心の中で抱きしめ、よすがは語気を強めた。
「ねえ。これからアリチェが立ち直るために、私ができることならなんでもするよ。
“あの人”だって、きっと手伝ってくれる。
……だから、自分の欲に、また立ち向かっていこうよ」
沈黙が降りる。
悟りめいた知覚の網も、アリチェの返答を予知することはできない。
怒りとともに否定されるのか、それとも受け入れてくれるのか、人並みの予想を巡らせて――
「――アンタ、それ、全然心から言ってないでしょ?」
けれど返ってきたのは、もっと根本的な冷笑だった。
「な……私は本気で、今なら三人でやり直せるって……!」
「うっそだー。それがわたしを助けるヒトの目か、わたしを止めるヒトの目かくらいわかるもん。
――よすがは、たすけない。
ただ“あの人”に手を出される前に、わたしをどうにかしたいって、それだけしか思ってないよ。
……ね?」
表情をややゆるめて、アリチェはよすがに同意を求める。
「……うん」
ためらいためらいようやくうなずく。
よすがの弱さは何も変わらなかった。
変わらない自分を抱えたままで言葉を落とす。
「……でも、アリチェとまだ、私は友達でいたいよ……」
「そ」
短い応え。
見惚れそうになるほどの無情な微笑み。
「わたしは、ともだちの命を、つぶしたい」
わずかに灯った希望が掻き消える。
心のなかで、またひとつ大事な物を諦めて、よすがは不可視の〈混沌〉を巡らせはじめた。
「あのね、アリチェ――“あの人”のこと、忘れてもらっていいかな」
そう言って反応を伺う。
んー? と気のない返し。
嗜虐以外の感情を失ってしまったかのように、アリチェは表情を崩さない。
「それは……心がけ的な意味で?
あの人にはもう近づくな、とかそういう……?」
「いや。ほんとうに、忘れてもらうの。
魔術で、まほーで、そういう意味で」
「……できるの?」
「できるよ」
「……まじで、やるの?」
「うん。だって、止めなきゃいけないもの。
私は……もういいけど、わたし以外に手を出すのはだめ。
それに、私はアリチェをたすけない、って言ったけど――アリチェはアリチェで、心から“あの人”を巻き込もうとは思ってないでしょ?」
その指摘で、アリチェがわずかに震えを見せる。
「……そうだね、まきこめない」
彼女の表情が崩れる。
けれどその顔をどう言えばいいのか、いちばんの友達だった女の子の表情を説明する言葉をよすがは持たない。
それは泣いているような、笑っているような、どちらでもない顔だった。
「ごめんね、アリチェ。
私の、せいで」
「……あやまるなよ。
ぜんぶ私のせいだよ。
よすがは、なんにも悪くない……から……」
アリチェの顔がぐしゃぐしゃに崩れそうになる。
今にも大声で泣き出しそうに見えて、よすがは一瞬本気で慌てた。
「――でも。
それって、よっこは最後まで付き合ってくれるっていうことだよね?」
けれど。
すぐに感情を押し込めて、彼女は笑顔になっていた。
* * *
そして、儀式が始まった。
詠唱も何もある訳がない。けれどそれは、やはり一種の儀式だった。
それは、コップに注いだジュースに、二人で口をつけることから始まった。
「――あ、これおいしい」
「でしょー? ブラッドオレンジのジュース、さっぱりしてて好きなんだよねー」
「それは……ブラッドだけに?」
「ブラッドだけに!
あ、でも血の味とはぜんぜんちがくて――」
――時計が目の前に浮かんでいるかのような、奇妙な知覚が心を掴む。
それは魔術的な感覚と、ただの女の子としての、よすがのカンが混ざったものだ。
なにかしらの刻限の予感。
きっとそれは、アリチェと友達でいられる残り時間だった。
「……あ。
よっこ、それ――」
「……うん、かわいいでしょ?
ねえ。このビー玉のこと、覚えてる……?」
たぶんこれが、なにもかも最後だ。
そう思うと、自然とお喋りが続いていく。
ジュースを飲むためのコップとはまた別に、ガラスのコップをテーブルに置く。
――みっつのコップを満杯にする、三十と一個のビー玉。
ひとつずつ指でつまんで、ひとつずつコップに落としていく。
「……そのビー玉は、よすがが用意してくれたやつだよね」
「そうだよ。アリチェは買い物が我慢できないって悩んでたよね?
だからアリチェががまんできるたびにこのビー玉をワインボトルに貯めていって、満杯になったら三人でパーティをしようって――」
それは痛みのあまり、よすがの心の底に押し込めていた思い出だった。
パーティの計画を台無しにされたことを思い出すと、今でも胸がやすられるように痛む。
そして痛みに呼応するかのように、知覚は物理法則を越えて冴えきっていく。
ピンクと赤の混じったオーラの塊として、アリチェの心すら目に見えた。
「うん。だから……ボトルを叩き割った時は、めちゃくちゃ後悔した」
「アリチェ、それならなんであんなこと……」
「それはさ――あんなの、ぜったい気持ちいいってわかってたもん。
だって、だいじなものを潰すのは、とっても、とっても、気持ちいい。
よすがのおっぱいに釘とかぶっ刺してるときより、あの時の方が気持ちよかったよ」
ピンクと赤が拍動する。
――今のアリチェが、何を考えているかまでは、よくわからない。
けれど、その心から伸びているものの一部を焼き切るのは、簡単だった。
「…………あ」
驚きに満ちた声を、アリチェがこぼす。
ビー玉のひとつが粉々に砕けた――ガラスの欠片どころか、塵すら残らない。
高く澄んだ音を残して、二人の思い出のかけらが〈混沌〉に還元される。
「えっと。よすが、今のは……?」
「――儀式が進んでるんだよ。
アリチェ。“あの人”の名前、思い出せる?」
「んん? そりゃもちろん、えーと……」
彼女の言葉が詰まる。
「……いや、ちょっとまって、うわ、えー……」
「でしょ?」
「――うん。切り取られたみたいに、わかんなくなってる。
よっこ、ほんとにまほー使いなんだ」
よすがはうなずいてみせる。
これは暗示による記憶操作などとは違う、最大級の現実に対する改変だった。
「そうだよ。いまのアリチェの感覚、わたしには良くわかる――
だってもう、私も“あの人”の名前を思い出せないもの。
これは因果破壊の魔術、私たち三人が結んだ縁を焼き切るものなの。
いまごろ、“あの人”も、私たちの名前を忘れてる――」
喪失感と戸惑いが胸にある。
けれど、哀しみは薄かった。
“あの人”の記憶を失うことを惜しむより、まだ保っている記憶があるという事実が不自然に思えた。
まだひとつしか壊れてはいないというのに、心はすべてを失うことを実感している――
「……そっか。そりゃー、きれいさっぱりだー」
アリチェも似たような心境なのだろうか。
この諦めたような笑いは、きっと二人とも同じなのだと、よすがは思う。
「ビー玉がぜんぶ砕けたら、記憶がぜんぶなくなるってこと?」
「うん。残りさんじゅっこ……けっこう時間はかかると思う」
「ん。
じゃあやっぱ、お菓子いっぱい買ってきてよかったね」
“あの人”への申し訳無さを抑えつける。
会いたいという気持ちをないことにする。
今はただ、二人で笑いあえることに安堵する。
「――パーティじゃないけど。
二人だけどさ、かるく女子会、しよっか」
そう、アリチェが言ってくれたことを、今は嬉しいと思うしかなかった。
* * *
「――でさ。
雑貨屋には何度も行ったけれど、よっこはほとんど買い物しなかったじゃない」
「あー……だってお金ないし、そこはウィンドウショッピングで済まさないと……」
「ですよねー。
――あ、でもあれは羨ましかったな。
よすが、“あの人”に雑貨屋でプレゼントしてもらったじゃない?」
ふたりで話すことは、どうでもいいことばかりだった。
ビー玉が弾けていく。
笑い合うごとに忘れていく。
「……そんなこと、あったっけ?」
「ああ。
――どうだったっけ、覚えてないや」
困ったね、とばかりに苦笑しあう。
ポテトチップスを食べさせあって、ストローに映るブラッドオレンジの色を見て、おしゃべりするごとに思い出が崩れていく。
みっつのコップをいっぱいにしていたビー玉は、思っていたよりもずっと早くこの世から消えていった。
まだコップふたつ分残っているビー玉を見て、まだまだお喋りができると思う。
その次に目をやった時はもうふたつめのコップが空になっていて、よすがは心を撫でる絶望を感じる。
因果破壊の魔術。縁を焼き切る儀式。
ビー玉が一個もなくなった時が、その儀式が終わるときだ。
「ああ、そうだ。
“あの人”が飼ってるタスマニアオオトカゲ、元気かな……」
「――今だから言うけどさ。
よっこのその嘘つきグセ、たまにウザかったよ」
「ひどいよ!?」
「とかげ、はわりと好きな方だったけどねー」
「むう。ていうか……アリチェだって、考えてみれば、出会った最初からいじわるだったよね」
「やだった?」
「いじられるのはイヤじゃないけど。
でも『わたしハリ治療習いはじめたんだけど』とか言い始めた時は、ほんとに針を刺されるかと思ったよ……」
話題が次から次に出てきて止まらない。
その奇妙な解放感は、まるで明日世界が滅ぶと決まっているかのようだった。
何もかも終わるから別にいい、という諦めを前提に、ようやく本音を口に出せる。
気に食わなかったことがら、ちょっとした相違点、口をつくのはそんな些細な本音ばかりだった。
これからやりなおせるのではないかという期待は、もう抱かなかった。
ビー玉がひとつこの世から消えるごとに、何一つわかりあえない事実に笑い合う。
「――ところでよすが。
このノート、なに?」
「……はい?」
アリチェがどこからか引っ張り出してきた日記帳を見て、よすがは完全に硬直する。
それは、どう見ても、見覚えのある代物だった。
「いや、よっこがひきこもってる時に見つけたのよ。
いつからかひきこもるどころか、ずーっとベッドの上で白目むきっぱなしだったでしょ」
「あれは魔術のために集中してて……むいてたの? 白目!?」
「そりゃもう。
で、さすがにわたくしもヒマしてて、あちこち部屋を漁らせてもらいましてー」
もう何度か読んでいたのだろう。
勝手知ったる顔でアリチェは日記帳をめくり、序盤のページに目をつける。
「えーと……うんうん。
『小柄で華麗。金髪と赤いスカート。対する私は、染めもしない黒髪とモノトーンな服装』……」
「ちょっと!?」
『私――西東よすがと、向かい側の少女――アリチェことアリツェ・ジェンティーレは、何もかもが対称的な友人同士だ』……とー……
あ、かれーってかわいいってことだったのか! わたしほめられてるかんじ!」
「まってまってまって、アリチェったらもう、読み上げないでよぉ……!」
アリチェから日記帳を取り上げようとするが、慌てた手は彼女の敏捷さにかなわない。
しばらくじゃれあった後に、まあまあ、とアリチェはよすがから距離を取る。
「いいじゃない。このノート、わたしへのメッセージっぽいところまであったし。
お返事したいんだけど、ペンないの?」
「ないですー!」
読んでほしかったのは確かだけれど――そう思いつつ、よすがは口をとがらせてみせる。
彼女にこのノートを渡そうとして、しかしそれが叶わなかった夜――そこで日記は終わり、そこからは走り書きだけがノートにかかれていた。
その手記も書き終わってから今日まで、この日記帳の存在自体を忘れていたのだ。
アリチェの暗示による、記憶の封印に巻き込まれてのことだった。
暗示が解けると共に日記帳を読み返した後、日記の執筆を再開するような気にはならず、結局よすがは断片的な心情だけを末筆として書き残した。
けれど記述が断片的になっても構わないとばかりに、アリチェは興味深げに読み進んでいく。
「『冷たく私を嘲るアリチェ。そしてその後、顔を隠して泣いているアリチェ。そのどちらもが本当のアリチェだと受け入れることは、それほど難しかったのだろうか?』かあ……」
「だから読み上げないでー!」
「ごめんごめん。
――まあ、難しかったんじゃない?」
言葉を続けるアリチェの表情には、相変わらず重みはなかった。
「だってよすが、死にたかったんでしょう?」
「――――」
「さっきも言ったよね。
よすがはどうも、本気でわたしを更生させようとしてる気がしない、って。
わたしもよくわかんなかった。よっこはきれいなわたしだけが好きで、きたないわたしを認めないんだと思ってたけど、それは違うみたいだし」
「それは……暴力を振るうようなアリチェは、本当に怖かったよ。
でも……」
「――でも、そういう私は、死にたいよすがにとっては都合がよかったんだよね?」
「……そう、だね」
淡々と続けるアリチェ。その声音には、よすがを責める色すらない。
だから、よすがもまた、淡々とそれを認めるしかなかった。
「私、自分が嫌いなんだ」
「そっか。
――よっことおなじだ。
私も、とっても、わたしがきらいなの」
よすがの口元が歪む。
こんなことで同意しあうしかないのがおかしかった。
アリチェと、そして“あの人”と――三人でずっと笑いあっていたいと、よすがにはそう思っていた時期もあった。
けれどそれは憧れでしかなかった。憧れの価値と自分の価値は遥かに不均衡で、皆に並び立てる位置に自分を引き上げていくのは、あまりに長い道だった。
それに比べれば。
アリチェに化物という役割を被せて、自分を傷つけさせるのは、遥かに楽な下り坂だ。
「……わたしは、だめな子だね」
「うん、よっこはダメかもしれない。
でもやっちゃいけないことをしたのは、わたしの方、で……」
アリチェが語尾を濁すうちに、またビー玉が弾けた。
――“あの人”の容姿が、二人の記憶から消える。
これでもう、いつかどこかですれ違ったとしても、再会することは叶わない。
「…………あ」
いつの間にか、涙がこぼれていた。
それは駄目な自分への憐憫かと思いかける。
けれど違った。もっと単純なことだ。
もう“あの人”の顔を見て微笑めない。
“あの人”の名前をもう呼べない。
よすがの名前を、もう呼んでもらえない。
もう会えない。やりすごし続けてきたその切なさに、ついに胸を貫かれる。
「……よすが、だいじょうぶ……?」
そんなことを言うアリチェの瞳からも、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「だいじょうぶ、じゃない。
そうだ……いつも、だめだったよ。
いつでも、ぜんぜん、大丈夫なんかじゃなかった――」
泣きながら何が悲しいのかが砕けていく。
いくらでもあるはずの言うべき言葉が、次々と消えていく中で、居残った後悔を口にする。
「……ああ。
わたしたち、きっと“あの人”に頼っておけばよかったんだね。
アリチェのこころの、全部がわたしの責任だなんて、そんな風に抱え込まなくてもよかったんだ」
「そう、だね。
わたし、あのひとに、怒られたかったよ。
最低だって言われても良かった。あのひとが叱ってくれれば、きっと――」
その声の切なさが、よすがの胸に伝わってくる。
きっとその涙は、自分の涙と、同じ形をしているのだと。
「――なんだ。
アリチェも、“あの人”のことが、好きだったんじゃない」
きゅう、とアリチェの喉が鳴った。
怒ればいいのか泣けばいいのか、そんな風に表情をうつろわせてから、結局は泣き笑いで――
「わすれさせてよ」
「……うん。ごめんね」
最後のビー玉が弾ける。
硝子の砕ける音が響き終わったとき、アリチェは、長い夢から覚めたような顔をしていた。
――わたしも、あのひとのことが、すきだった。
そんな言葉が、よすがの心を行き過ぎる。
そして枯れ落ちる。
あのひととは誰かが、もうこの二人にはわからない。
* * *
儀式が終わった後、よすがはただのよすがだった。
何も思いつかない。もはや空漠しか心に残らない。
もう、どうすればいいのかわからない。
アリチェもよすがと同じく、しばらく呆然とした後――けれど彼女は椅子を立ち、よすがに近づきはじめた。
ここでアリチェが自分に手をかけるなら、抵抗などはしない。
よすがはおとなしく殺される。もう言うまでもなく、アリチェもそれを理解しているはずだ。
楽になりたい。
たとえ死ぬことがどれほど痛くて苦しいとしても。
もう、全ての荷を降ろしたい――
アリチェの指が伸びる。
「……っ、あ……!!」
爪が眼球と眼窩の間に差し込まれる。
最初は浅く、数秒後に少し深く。
それだけで、激痛と共に右目の視界は赤に沈んだ。
ぞっとすると共に期待する。
この後目をくりぬかれるのか、それとも脳を指で抉られるのか――
「やっぱ、やめた」
「……え?」
彼女の指は、あっさりと目から抜けた。
「じゃ、わたし帰るから」
「ま、待って――!」
去っていくアリチェを追おうと、よすがも椅子を立つ。
けれど目を傷つけられたせいか、立ち上がるとともに目眩が襲ってきて、床にうずくまってしまう。
「な、なんで……そんな……」
「なんでもなにも――どうして死にたがってる子を、わざわざやってあげなきゃいけないのさ?」
「あ、アリ……チェ。
どうする、気……?」
「――あなたのかわりなんて、街にいくらでもいる。
誰かテキトーな男の人でも捕まえて、いたぶって殺すよ」
アリチェは出ていく。
頭の中を擦過する傷に本能が警告を喚いている。
痛い、怖い、痛い、痛い。
ああ、けれど――
「よっこはなんかすごいまほーを使ったみたいだけど、やりかたがまちがってたよね。
そもそもわたしが、誰かをいたぶるとか、思いつかなくなるようにしちゃえばよかったのに」
それはできない相談だった。
人間の心から攻撃性を根本的に奪ったら、生きるための気力まで破壊してしまう。
よすがには、アリチェを壊すという発想はなかった。
――今、この瞬間までは。
「よすがが解き放ってくれたの。
わたしはもう、いきてるかぎり、人を踏みにじるよ」
止めなければ、と心が叫ぶ。
“――私が悪いコトしちゃったら、きっと止めてくれるのは、よすがくらいだよ――”
いつかの夜、聞いた言葉が、胸のうちに蘇る。
どうやって止めればいいかわからないという心の声は、もう欺瞞にすぎない。
唯一の方法は、呆れるほどに単純だ。
「あ……」
〈混沌〉が不可視の空間で火花を放つ。
「――うん?」
アリチェが玄関で足を止め、よすがに振り返る。
心の底から絶望する。
これから最後の失敗を犯すという、その予感に圧死しかける。
――もはや何かを壊さないでいる方が難しい、部屋中を満たす〈混沌〉の圧。
それに若干の指向性を付与する。
よすがが魔術として行ったのは、それだけだった。
魔術を完成させる直前の自分がどんな顔をしていたのか、よすがには分からない。
けれど、アリチェは――
「そのかおが、みたかった」
そう嘯いて、彼女は嗤っていた。
「あ゛――――――――――――――!!」
叫ぶ。
マッチに火をつけるより簡単に、アリチェの身体は燃え上がった。
「ああ――!
ぁ、あー……!!」
叫ぶ。
計測不能の温度の暴力は、アリチェ以外のものを燃やさない。
よすがの眼窩を抉っていた彼女の指先。それが真っ先に焼け焦げ、服が発火し、髪が煙を噴いて後を追う。
だというのに、術者であるよすがは熱さを感じ取れない。
アリチェだけが床に崩れてじたばたと暴れ、何も抵抗らしい抵抗をできず、秒を追うごとに燃え尽きていく。
「あ……、――!!」
声が枯れる。それでも叫ぶ。
叫びながらいつのまにか無意味に腕を振り回していた。よすがの手はテーブルを払い、日記帳がばさりと床に落ちる。
人体が〈混沌〉の流れにねじれて切れる。
人格が人殺しの重みに潰れていく。
西東よすがというひとりの女の子の人生が、残らずドブに流れていく。
日記帳はアリチェの手の近くに落ちていった。
魔術の炎はノートを燃やしたりはしなかった――けれどページを彼女の指が引っ掻くと、炭がその部分を汚す。
がりがりと、鉛筆を滑らせるような硬質な音。
その音はアリチェ自身が焼け焦げて炭化していることを示していて、それでもよすがは彼女を燃え尽きさせるための魔術を止めない。
「っ、……、――あ」
そして、ついによすがが息を切らしても、アリチェは止まらなかった。
ページを延々と掻いて、それだけを最後の執念としてノートに触れ続けて、そして。
「――――」
アリチェは死んでいた。
全身を焼け焦げさせて死んでいた。
よすがは立ち尽くして泣く。
砕けた心を、彼女の最期の言葉が行き過ぎていく。
――そのかおが、みたかった。
その声が、彼女の末期になってしまった。
その顔を見せてくれるなら、ころされてあげるという、それがアリチェの業だった。
開いた死体の口は、もう炭が作る洞穴に過ぎない。
けれどそれは、笑っているように見えた。
「…………あ」
そして気付く。
アリチェが残した言葉は、その声が最後でないことに。
ノートを見下ろすことで、ようやくそれが理解できた。
ただの汚れに見えた線の塊は、ひらがなの羅列として文字を、そして文章を成している。
――ああ。
アリチェはただページを引っ掻いていたんじゃない。
炭化した自らの指を、鉛筆のようにして――
心が持つのはそこまでだった。
意識が薄れていく。
自分の身体がそこにある、という知覚が消えていく。
〈混沌〉に取り込まれて消滅するのだろう――
きっと自分は消えるのだと、よすがは思った。
■■■■■だから――日記の最後は、これを読んでいるあなたのために。
たぶん、アリチェに。
そう。これが、そうなんだよ。
この日記は、きっと全てがあなたのためにあったんだ。
いままでありがとう。
はなしてくれて、わらってくれて、あそんでくれてありがとう。
あなたがこれからもそうしてくれるなら、とってもとってもうれしいの。■■■■■
■■■■■こちらこそ あそ でくれて ありがと う 。
また、
あえたらね。
さよなら、 ともだち。■■■■■