これは夢だ。
「聞いたよ」
真っ白な空間のただ中で、二人の少女が対峙している。
空間に溶け込むような白いワンピース、自己を主張する色は揺れる髪の金色のみ。
二人の容貌は鏡合わせのように同じ、表情も全く同じだ。
スパイスとしての緊張感の中に、ほんのわずかな怯えが含まれた――
そんな真顔が、地顔になっている。
二人の顔は、同じヴィイと呼ばれる少女の顔だった。
「あなた、夢を諦めたのね」
そう口にしたヴィイを、便宜上“夢”と呼ぼう。
“夢”のヴィイは、もう一人のヴィイに責めるような視線を送る。
「言い訳をする気はないんでしょ?
……ハルモニアに行かずに、どうやって人体視願が叶うって言うの。
あなたの夢は、これで終わりなの?」
だがもう一人のヴィイは、その視線に怯む様子を見せなかった。
「そうよ。私の心は、それを選んだの」
“心”のヴィイは、真っ向から“夢”の言葉にうなずいてみせる。
現実味の薄い光景の中で、少女たちの肌はただただ白い。
「……12年」
“夢”は“心”の言葉を受け、苦々しげに声を絞る。
「ウタゲが生まれてから、12年よ。
いったいどれだけの労力が……人体視願の夢を叶えるためだけに、どれほどの心からの想いが、積み重ねられてきたと思ってるの?」
――ウタゲは夢を諦めたけれど、と“夢”は声を落とした。
「それでも、私はウタゲの妹だから。私が夢を引き継いだ。
私が夢を背負ったからには、叶うその日まで、それは落とせない」
見つめる。
“夢”の視線は割れ硝子の先端にも似て、危ういほどの鋭さを持っていた。
「……ねえ。あなたは、12年もの積み重ねを、今ここで捨てるっていうの?」
その言葉を受け、“心”はゆっくりと首を振る。
「12年も、じゃない。9年も、よ。
……いえ。たった9年の、おはなし。
あなたの夢はあなたの夢。ウタゲは関係ないでしょう?」
――私は気付いたの、と“心”はかすかに笑ってみせた。
「気付いたのは、ひどく簡単なこと。
自分には、夢よりも大事なものがあるっていうことよ」
「それは、何?」
「それはね、温もりだよ」
“心”の表情が、はにかみに似てわずかにゆるむ。
「私にはね。手をつないでくれる人がいるんだよ。
退屈な時に、髪を梳いてくれる人。
かなしい時に、あたまをなでてくれる人……」
息をつき、続ける。
“心”の瞳には、ある種の誇りが宿っていた。
「――ねえ。人間を視るための視覚は、本当に私たちに必要なものなのかな?
私は今のままの目でも、人間を識別できるって信じてる。
ぬくもりを目印に、人間がそばにいるんだって……そう信じることは、間違ったことなのかな?」
数秒の沈黙。
風も吹かないこの空間では、沈黙はそのまま無音を意味する。
「……それじゃ、あなたが触れてない人間は、この世に存在しないっていうこと?」
沈黙を破った“夢”は、そのまま皮肉げに笑ってみせる。
「あなたは自分の心の中に人間を押し込めているだけ。
そんなやり方じゃ、永い停滞を招き寄せることしかできない」
足音――
“夢”は“心”に、ゆっくりと近付きはじめていた。
「それに、私は知ってるわ。あなたのしてほしいことは、なでるとか手をつなぐとか、そんなことだけじゃないんだって」
ほどなくゼロに近くなる距離。
“夢”はすっと“心”に手を伸ばす。
「……!」
「こういうこと、されたいんでしょ?」
“夢”の手は、すぐに“心”の腰のあたりに伸びていた。
そのままスカートをつまみ、ゆるゆると持ち上げはじめる。
「やめ、て……」
「やめない」
“夢”の指が、スカートの中で“心”の裸の脚をなぞる。
指が身体のラインを沿うごとに、“心”はぴくんと震えた。
「本当はなでられるだけじゃ不安なんでしょう?
本当にそばにヒトがいるかどうか不安で、わけがわからなくなるまで滅茶苦茶にされて、ようやく安心できるんでしょう?
――わかるよ。あなたは、私なんだから」
“夢”の指は、いつしか“心”の下着にかかっている。
ゆっくりと下着を引き下ろしていく動きは、ひどく隠微だ。
「ねえ、本当は溺れたいんでしょう……?」
「――そうよ。だから、あなたなんかじゃ駄目」
“心”の手はいつしか、悪戯を続けていた腕をしっかりと掴んでいた。
「皮肉げな顔を見せないで。
手を寄せられて、苛めるふりだけをされても、そんなものは甘くない」
“心”の声は冷静だった。
表情には先ほどの行為の余韻が残っていても、その声音に揺れはない。
「あなたは……」
「その声も予測の範囲内で、つまらない。
……そう、あなたは私だよ。
自分で自分を傷つけるのも、自分で自分を慰めるのも、もう飽きたの」
――だから私は、私を壊してくれる人に、自分の心を捧げたい。
「お遊びはここまで。
手を離してよ、変態」
そしてようやく、“夢”は“心”から離れた。
「……あなたこそ、本当にこれでいいの?」
数歩の距離をとってから、“心”は“夢”に問いかける。
「ハルモニアに行ったウタゲの、あの壊れよう……
あれが対策をすればどうにかなるものだなんて、どうしても私には思えなかった」
「いいのよ。アイオーンもあるでしょう?」
「……よくない。私たちのアイオーンを使ったって、ウタゲは元に戻せなかったのよ。
最悪の結果はもう見えてる。それに向かって黙って進む気?」
「それでも、いいのよ。
たとえ私が、あそこでずっと死に続けるとしても――」
“心”が、目を見開いた。
「――そんなこと、簡単に言わないで!」
声を荒げる“心”に、“夢”は驚きの顔を見せる。
「死ぬっていうことは、全部置いていくっていうことなの!
わ、私が、それに悩まなかったわけがないじゃない――
死んだらなくなるの! 夢も、心も、何もかも!」
言葉を次々と撃ち出す中で、“心”の目はいつしか潤んでいた。
こぼれそうになる涙をこらえながら、最後の台詞を口にする。
「……あなたが視たいと思った人間も、置いてけぼりにされて終わる。
ねえ。死ぬっていうのは、夢を諦めることよりも、ずっと酷い終わり方なんだよ……
全部、ぜんぶなくなっちゃうんだよ……?」
言い終わり、その後はただ視線だけを向ける。
「全部じゃ、ないよ」
“心”のぼやけた視界の中で、“夢”はそれでもほほえんでいた。
「死は終わりじゃない。
アイオーンのあるなしなんて、関係ないよ。
私がウタゲの後を継いだように、私が終わっても、きっとそれを継いでくれる人がいる」
そう言って、“夢”は“心”に背を向ける。
「……あ……」
ゆっくりと歩き出す。
一歩、二歩――
この閉じた空間から抜け出して、ハルモニアに向かうために。
「……だから、いくの?」
「うん」
“心”に振り向いて、“夢”は笑ってみせた。
「私が破滅するならば。
きっと後悔するでしょう。
たしか絶望するでしょう。
けれどそれも善いもので」
なぜならば。
最後まで貫かれた夢は、抱いた者の器を越えるから。
私が破滅するとしても、誰か善い人が助けてくれるなら。
それならば、人体視願の夢は終わらない。
「わかったよ。……わかった」
“心”もまた涙を拭いて、“夢”に背を向ける。
「私が何より望むもの。
きっとそれは狭い部屋。
とてもわたしは臆病な。
けれどそれは嬉しくて」
震える心を隠すのはもうやめる。
愛している。
私はもう、何よりも欲していたものを手に入れている。
今必要なのは、それを認めることだけだ。
「さよなら」
違うモノになる自分に決別する。
――これは、ヴィイの見ている夢だ。
自分が二人登場するだけの、ただの夢。本体に影響を与えるものではない。
現実のヴィイがどちらの道を選ぶかは、とうに決まっているのだから。