「――それじゃあなたは、吸血鬼になったに違いない」
スーツの男の発言は、喫茶店の片隅で奇妙な残響を作る。
発言の内容といい、妙に嬉々とした白々しい口調といい、2010年の東京には相応しからぬものだった。
「いいや、俺はそういうのじゃ……ない」
相手の男はどうか知らないが、俺にだって常識の持ち合わせはある。
そういうのじゃありません、と丁寧語のひとつも操ろうとしてから、そんな常識はこの状況じゃ無意味だと押し切った。
「今まで血を欲しくなった事もないし、ましてや道行く女の子に噛みつきたくなったことなんて一度もないよ」
ほほう、と彼がしきりにうなずき、手を組んだ。
ボディランゲージの度が過ぎるようにも見える。
数分前に会った男だ。
呼び止めてきたのは向こうからだし、喫茶店に誘われたのもそうだ。
“こんな状況”じゃなきゃ、話しかけられても無視していたと断言できる。
「その子達は処女じゃなかったとか」
「あのな――その、真面目な話なんだけど」
「ええ、よく存じております。茶化したように感じられたならば謝罪しますよ」
「いや……とにかく、俺は」
とにかく。
とにかく、腹が減っていた。
俺はただ、この“飢え”という状況をなんとかしたいだけなんだ。
「念のため、もう一度食事をしてみましょうか? ここは軽食にも気を使っているそうですが」
「いいよ。“そういうの”は、もう懲りた」
「ふむ」
男の視線が、改めて俺に向く。
彼の目に視線を落とそうとしたが、それでも視線は逸れてしまう。
結果、男の二重巻きのネクタイに視線が落ちる。やつの目を見返すことが、俺にはどうしてもできなかった。
「いくら食事をしても、空腹が止められなくなったと?」
「そうだ」
「朝昼晩と三食お米を?」
「そうだ」
「その次の日には特大のピザを?」
「そうだ」
「その次の日にはパンを、おにぎりを、チョコレートの塊を、肉を、魚を、購入した限りのあらゆる品を一時間以内に詰め込んで?」
「ああ。だから、食い物は当分ごめんなんだ」
三日前からだ。
どんな食事も、水の塊を詰め込んでるようにしか感じられなくなったのは。
腹が減った、腹が減った、腹が減った――
今こうしている最中の俺は、凍死の前にも似た眠気を感じていた。
だが居眠りもできないんだ。まぶたが降りそうになると、胃袋の悲鳴に体内を引っかかれる。
「大変な問題ですな」
ふらつきそうになりながらも、体面を保って――少なくともそのつもりで、ゆっくりとうなずく。
胃の病気というオチをつけたくとも、行き先の医者は首をひねるばかりだった。
こんな状況には、あと一秒だって耐えたくない。
だからといって、詰め込んだ食い物でゲロを吐きそうになりながら“もっと食いたい!”と絶叫するのはごめんだった。
「三日前、と先ほど伺いましたが……何か心当たりは?」
「心当たり?」
「こんな大変な事態を引き起こすような、そんな出来事がありましたか?」
「…………」
「引き起こし“そうな”出来事、とも言えますが」
俺の沈黙に対する配慮か、男は言葉を続ける。
「今更言うまでもないでしょう――これは超常的な事態だ。マンガにあったような、小説にあったような、映画にあったような事態です。
だから何でもよろしい。わずかな不安を感じさせた出来事、わずかでも普段通りの日常から外れた何か、そういう経験はありませんでしたか?」
「そんな事を言われても……いや」
間。
「……三日前、俺は誰かとすれ違っていた」
間。
「どうということはない……暑そうな服を着ていた。
それに、すれ違った時に妙に距離が近かった覚えがある。
手の甲が一瞬擦れ合うくらいだ。それは、印象に残っていた……」
間。
「すれ違ったのは……」
「すれ違ったのは、どなたでしたか?」
「あ、ああ……」
間。
声がかすれるのは、空腹のせいじゃない。
恐怖のせいだ。
俺はこの会話を、この先に続けたくなかった。
「……おまえだ」
思い出したくなど、なかったんだ。
得体の知れない男、芝居がかった言動の男。
二重巻きのネクタイの男。この猛暑の中、完璧にスーツを着こなした男。
「はい」
彼はうなずいた。
「この世には、たましいに穴があいている人間がいるのです」
ここは、喫茶店――のはずだった。
つい一秒前までは、そんな常識的な場所のはずだったんだ。
だが今では男の声以外の音は何も聞こえないし、男の姿以外のものは何も見えない。
そんな中でやつの声は、異様に厳かに響いた。
「穴があいた方は、通常の食事で腹を満たす事ができません。
いくら食べても、その方に最も必要な栄養素――霊妙な何かが抜け落ちてしまう。
それも当然と言えましょう。その方が空腹を感じているのは、身体ではないのですから」
男は表情を歪めた。
その顔の意味が、俺にはしばらくの間理解できなかった。
「飢えを鎮めるに必要なものは、個々によります。
全く吸血鬼のごとく、血を必要とする方もいました。
微量の鉛を必要とする方もいました。
不器用な方だというのに、たましいには拍手喝采を必要とする、そんなお方もいました」
そんなことはいい。
ただ、その顔の意味が知りたいんだ。
「これは呪いです。これが呪いでなければ、何が呪いでしょう?
だがそんな呪いにも、ついてくる特典があるのです。
“穴の開いた”人間もまた、他の何かに“穴を開ける”ことができるのですよ」
なんだ。その顔は。
その、顔は――
「そして私は、他の人間のたましいに“穴を開ける”ことができるのです」
――ああ。
この男は、笑っているのか。
「ようこそ“ピアスド”の世界へ。心より歓迎いたします」