百年たって、私はヒトになりました。
学校の屋上を目指し、あたしはスロープを登っていた。
とん、とん、とん、と一定のリズム。一体成形されたスロープは柔軟ながら硬質な素材で、足音を軽快に響かせる――
――けど、スロープの床に貼られた靴の広告を見た瞬間、あたしはちょっとうんざりした。
誰が見るんだこんなの。
ちょっと前までは法規制だか何だかで、学校の中に広告は貼れなかったらしい。我が母校は悪いところじゃないが、そこだけは昔の学校と取り替えてもいいと思うんだ。
「どうせ暇な奴しか、屋上になんか来ないのに」
床に貼られた
昼休みとはいえ、屋上――こと、水栽庭園に立ち寄るものは少ない。
庭園の名の通り、そこは封鎖された屋上ではない。どこにでも咲く花が、そこでは入念に手入れされている。
むしろその手入れのせいで、屋上は地味で辛気臭い場所とみなされているのが実情なんだが。
でも、もったいないと思うんだけどな。
花はきれいだし、景色もいい。冬には寒いっちゃ寒いけど、あたしだって服は着てる。
『こんにちは、生徒さん』
あとは……まあ、屋上絡みで嫌なものがあるとしたら、この扉くらいか。
『屋上にご用事ですか? あなたの心を形にしてください』
この爽やか声は、スロープの終点――つまり、屋上に繋がる扉の発したものだ。
この学校の建築デザイナーが、高いところの好きな奴に良い景色を見せてやりたいと思った都合上、屋上の手すりは高くない。
ぶっちゃけ飛び降りようと思えば飛び降りられるが、そんな事件が起こった日には庭園がブルドーザーで潰されること確実だ。
だからデザイナーは、屋上を強化ガラスの壁で囲むよりは安価な方法を取った。
『あなたの声を聞かせてください。おだやかな心を形にしてください』
この扉には限定知能を持つインターが宿っている。役割は屋上に来る者の声を聞き、そこからそいつの精神状態を探る事だ。
単に声色を聞くだけかと馬鹿にしちゃいけない。こいつは法的に、救急車やその車載機器に匹敵する権限を持つ――つまり、対象の生命保持のために、そいつの
声紋の揺れがそいつの人生の中で蓄積された通常パターンを逸脱しているとみなされればカウンセラー代わりの質問開始、そこで更に揺れが大きくなれば終わりだ。
そいつは“自己否定的な暴力衝動”を抱いているとみなされ、ロケット砲でも持ってこない限り扉は開かなくなる。
『あなたの声を聞かせてください。おだやかな心を形にしてください』
うーんフレンドリー、月給15万の伝道広告屋くらい。
とはいえイラついてる場合じゃない、面倒でも屋上には行きたいんだ。
「天にまします我らの父よ」
あたしは息を吸い、自分にできる中で一番綺麗な声を出す。
「願わくは
御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたまえ
御心の天に成る如く 地にもなさせたまえ」
人間にはなく、この扉にはある美徳も、ひとつだけある。
こいつはあたしが話している時には、黙っていてくれる。
「我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり」
ここはいわゆるミッション・スクール、あたしも親の代からのカソリックだ。
あたしは心がけるまでもなく、平静に祈る。
「
息を吐く。
祈りを終えても神の姿は見えないが、そんな事は当たり前だ。
『あなたの心は穏やかです』
その言葉と共に扉が開いた時には、あたしは既に歩き出していた。
『あなたの心は清いものです、あなたに幸せがありますように』
でもそんな事を背中から言われるくらいなら、皮肉のひとつも飛ばされた方が気分がいい。
むしろ皮肉なのか。扉のマイクにデスボイスを聞かせてやりたくなる衝動をこらえながら、あたしは屋上に出る。
「あら、奇遇ね」
そこではひとりの女の子が、庭園の花をいじっていた。
遠目からはよく分からないが、どうも虫を取っているらしい。チューリップの花びらのあたりで、細い指が動いている。
花につく虫すら愛しているのかと思わせる、そんな繊細な手つきで、彼女は楽しそうに花の世話をしていた。
「奇遇ってほどじゃないでしょ。なずな、あんたがいつ来てもそこにいるだけ」
日野なずな。水栽庭園の手入れを――水質管理などの機械的部分を除けば、実質的に一人で行っている人間の少女だ。
ミッション・スクールに通いながら信教の自由を主張し(じゃあなんでここに入ったんだ)屋上への扉の前では毎回違う詩を暗唱して済ましている(一体何個の詩を暗記してるんだ?)強者である。
友達なのかと聞かれれば、そんなんじゃないと答えたい。
「今日は百周年のハロウィンでしょう。まだ学校が終わってないとはいえ、私なんかよりも恋人さんと会ってきたら?」
「……いや、あたしにゃインターのカレなんていないし」
「あら、それじゃクリスマスが大変ね。プレゼントは決めた? 最近は手製の編み物が喜ばれるって聞くけど」
「人間のカレもいねえよ! 知ってて言ってるだろこの花女!」
自分につかみかかろうとするあたしを、なずなは笑顔で押し留める。
「ごめんなさいね、あなたのような素敵な子ならすぐに恋人ができると――ああ、水栽用の瓶を持ち上げないで?
でも校庭に行けば、ちょっとしたお祭りもやってるみたいよ」
それは知ってる。今も手すり越しに見下ろせば、楽しそうな騒ぎが見て取れた。
まるで小さな学園祭だ。そこかしこで音楽の演奏、あるいは即興アニメの上映会。
今日は特別な日だ。いつもはうるさい先生も、今日ばかりは生徒を止められないらしい。
「――ヴァーシャがさ、ここがいいって言うんだわ」
あたしの言葉が終わらないうちに、一陣の風があたしの
『……わたし、静かな場所、好きなの』
「あら……ヴァーシャさん?」
ヴァーシャのシェルである“脚の無い女性”が、あたしの
『チューリップの香りもして、好き』
ヴァーシャ=キリコ=羽川。
あたしの家族であり友人であるインターだ。
彼女は戸籍上ではあたしの叔母にあたるはずだが、どうも幼げな声のせいか、せいぜい姉くらいにしか思えない。
『ねえなずな、ちょっと視線を上げてみて』
その言葉に応じてなずなが手すりの上を見ると、ヴァーシャは眺めも良くなった、と嬉しそうに呟く。
その声が、本物でないとは思わない。
あたしの首筋には小さなピアスが、なずなの頭の中にはもっと目立たないものが、それぞれ埋め込まれている。
どちらにしろ、それは脳神経に干渉するインプラントだ。
それは人間の感覚を騙し、ヴァーシャの意志によってあたしの
またインプラントの中には五感の
そして人権を持つあらゆる生き物には、
『なずなは素直だから、好き』
ヴァーシャが微笑み、自分の胸に手を当てる。
――たったひとりで見ているだけなら、それは幻覚のようなものだ。
だが、なずなと同じものを見るならば、ヴァーシャの姿は二人分の現実になる。
『あなたも、なずなと一緒にいるのが好きでしょう?』
「いや、こんな花女と同じものを見るなら部屋でビデオドラッグでも見てた方がいいね」
あたしの口が急速に流暢になる。なぜか頬が赤くなるが無視したい。
『照れてる?』
だから無視したいんだってば。なずなも、くすくす笑うくらいなら怒ってくれ。
「あー、や、それより……もうすぐアレだよ、ゼロアワー」
腕時計を見たところ、あと一分で百周年の時間だ。あたしだって、その時くらいは静かに迎えたい。
「ジュースを持ってきたの。その時が来たら、乾杯しましょう」
用意がいい事に、なずなはふたつのグラスも揃えていた。
パックは林檎と葡萄がひとつずつ、封を開けると途端に果実の芳香が広がる。
あたしは林檎、なずなは葡萄。これはふたりでジュースを飲む時の取り決めだ。
「ヴァーシャはどうする?」
『わたしは、
そっか。
何を飲むかはヴァーシャが勝手に決める事だけど、それは聞いておきたかったんだ。
時間まであと五秒を切った時点で、あたしは腕時計から目を離した。
なずなの方を見ると、彼女は心得た調子で微笑む。時計を見ながら祝日を迎えるのは無粋、ということだ。
なずなは頭がいい。あたしのやりたい事を汲んでくれる性質は、こういう時には本当にありがたい。
照れるから口には出さないけど。
――心の中で数える五秒間は、とても長く感じられた。
そしてゼロアワーと同時に、あたしとなずなの二人で。
「かんぱい」
ジュースの入ったグラスを打ち合わせると、澄んだいい音が響く。
あたしは目を閉じ、久しぶりの林檎を味わう事にした。
ヴァーシャが満足そうに息をつく音が聞こえる。ということは、なずなもジュースを飲んでいるのだろう。
『あなたの飲むりんごと、なずなの飲むぶどうが、一番おいしい』
嬉しそうな声。インプラントからの感覚の受容は、二人分同時に出来ないようなものじゃない。
「……ふう。あ、花火――」
テーブルにグラスを置くと、真っ暗な視界の中で弾けるものがある。
予告通りだ。このために目を閉じておいて、良かった。
祝祭の開始と共にお祭り好きのインターが、今度は片っ端から人の
「…………百年、か」
感慨深げな、なずなの呟きが、ふと耳に入った。
「とても……とても、長い時間だったのでしょうね……」
無音の花火が弾ける中、あたしは目を閉じたまま、知っている事を思い出していった。
確か百年前、一部研究者とネットギークがインターネットを発見――ああ、違う、インターネットは昔からあったんだ。
当初は〈バベル網〉と呼ばれ、後にインターネットとの融合を果たすものの存在が発表されたのがちょうど百年前のハロウィン、10月31日の12時27分。
あらゆる機械に宿り、干渉する電子生命――日本で呼ばれるところのインターも、当初は自らをバベルと呼んでいたらしい。
そして〈バベル網〉の存在と共に提示されたのは現在のインプラントの原型であり、人とインターが共存する社会のモデルだった。
インターがインプラント同士の無線通信網に乗って動くようになり、既存のコンピュータ上のデータを人の手で〈バベル網〉内の構造に変換する術が見つかると、人間のネットワークと〈バベル網〉は徐々に垣根をなくしていく。
「……ヴァーシャ」
『うん?』
「手、握っていい?」
「うん」
ふとしたあたしの声に応じ、あたしとヴァーシャは手と手を繋ぐ。
ヴァーシャの体温も、彼女に伝わるあたしの体温も、確かなものだ。
『あなたがちっちゃい頃は、よくこうしてたね』
懐かしむような声。あたしも、少し懐かしい。
――インプラントから来るあたしの感覚を受容しているインターとは、あたしが自分のインプラントに干渉する事で接触できる。
要するに、自分に触れている者とは手を繋げるんだ。これが可能でなければ、インターと人間の恋愛などなかったと思う。
インターの養子/親子縁組、また結婚の許可が法律によってなされたのは、奇跡のようなものだったのかもしれない。
法整備は非常にゆっくりとしたものだった――百年前に討議され始めた法案が、今でもテレビで取り上げられているんだから、そのくらいは分かる。
今ではインターとの結婚から始まるあらゆるインターとの法関係を司る〈パートナーシップ法〉も、当初は人間同士の同性愛者の結婚のために作られたものらしい。
ただ今の法律がなければ、あたしはこの世に生まれなかったと思う。
「ヴァーシャ……それと、なずな」
目を開く。視界には足の無い女と、花の傍らにいる少女。
「あたしがインターだったらって想像した事、ある?」
『ない』
ヴァーシャは即答した。
『わたしたちの家族には、人間のあなたが必要だったから』
なるほど、とあたしは思う。
――ふと思い出した事だけれど、インター同士は、そのデータを混ぜ合わせる事で子供を作れる。
そして人間の遺伝子情報をインターが摂取可能なデータに変換するのは昔から研究されていた技術だったし、そのデータを使ってインターが人間の子供を産む事もたまにある話だ。
あたしの先祖のあるインターも、そうして自分の子を産んだそうだ。
「あら、私はあるわ」
なずなが楽しげに、歌うように言う。
「インターのあなたは活発で、気まぐれで……まるで蝶のように、私たち人間のあいだを舞い踊るの」
どこからそんな恥ずかしいたとえが出てくる。
でも、そうなっていたかもしれない。
ちょっとだけ運命が違っていたら、あたしはインターとして生まれてきてもおかしくなかったと思う。
「私はあなたとおしゃべりをしたり、遊んだりしたいな。
ああ、たまにはあなたのお家に招かれるのもいいわね」
粗相したら叩き出すと言いたいところだけど、こいつは他人の領域では絶対に無礼をしないから困る。
「あなたのお母様はインターだけど、人間のお母様と同じくらい良い方で。
お父様は人間だけど、勿論お母様はお父様のことを愛しているの」
なずなの空想とは逆にあたしの母は人間で、父はインターだった。
そして、あたしは両親の養子じゃない。
さっきのはあくまでインターの出産の話だったが、人間に応用できない事じゃないんだ。
遺伝子がデータに変換可能ならば――
「だから、あなたもまた、自分のお母様とお父様を愛している」
五重のチェックで安全性を確認された人工精子は、この世で最も軽く希少なものだったと思う。
そして愛する者の精を受け、あたしの母はあたしを産んだ。
「そしてそんなあなたは、私の大切な友達なのよ」
ヴァーシャと繋いだ手と同じくらい、自分の頬が熱くなる。
「そうでしょう、ヴィイ?」
あたしが真っ赤な顔でうなずいたのは、魔が差したからに違いない。
あたしの名はヴィイ=キリコ=羽川。
どこにでもいる、あたりまえの娘だ。