去年の夏から、空で人が死ぬようになった。
空を飛ぶ天使と戦う、少女と少年の物語。
あの年の夏、彼女は死人の手を握った。
夏に死んでゆけ。
リゼット・ド・カスパニエにとって、それはさして特別な行為ではなかった。
要約すれば、自分の部屋で女の子といいことをしているだけだ。
柔らかいツノの生えた少女をベッドの上に押し倒し、巧みにかけられた体重と自分自身が身にまとう香気でもって動きを封じる。
部屋中に気化した弱い媚薬も、彼女の身体には十分に染みているかもしれない。
「へ、変なことしないで……」
珍しい事はといえば、彼女がリゼットよりも年下に見える事くらいだろうか。
おそらくは十歳か、九歳。若輩揃いの瑞穂基地の中でも、彼女くらいの年齢の人員は五指に余るかどうか。
「変な事って、なんですか?」
くすくすと笑い声を漏らして、黒い肌のエルフェンは白い肌の少女に身をすりよせる。
「……例えばこのおみみを、やらしい声が聞こえてくるまでおしゃぶりする事ですか?」
可愛らしく丸まった耳たぶを指で弾くと、くすぐったさそうな反応。
「それともこのツノを、きゅうって吸い上げちゃうことですか?」
「え、え――つ、ツノは駄目……!」
少女がはじめて慌てた表情を見せると、隙を与えず彼女の目を覗き込む。
「それが嫌なら、素直に喋ってください。
――どうしてあなたは、
「だ、だからぁっ。どうしてもなにもなくて、わたしは、くろす、さな……」
どう考えても本気の目で訴える彼女を見ると、少し嫌になってくる。
――どうしてこんな時に、かざみおねえちゃんがいてくれないんだろう。
部屋の外では十三歳の(十歳か九歳にも見えるけど)黒須沙那が待っているのに。
彼女は嘘をついていない。
彼女はいつしかリゼットの手を、弱々しくもすがるように握っている。
「……さな、ちゃん?」
リゼットは語調を変えて、幼いさなにささやきかけた。
「あなたは――何者なんですか?」
「はい、沙那は沙那でございます」
十三歳の方の沙那は、リゼットと顔を合わせても笑顔で応えてきた。
その笑顔はまさに天真爛漫、見ていると目下戦争中であるところのこの世界が平和そのものに思えてくる。
――幼いさなに問いかけても、ろくな答えは引き出せなかった。
もともと基地入口になぜかうずくまっていた彼女を、リゼットが発見したのだ。
まず基地と
だが彼女は何を聞いても思い出せない、覚えているのは名前だけの一点張り。
嘘をついているにしては、幼いさなの声はあまりにも頼りなかった。仕方なく彼女はベッドに休ませておくことにして、リゼットは沙那のところに踵を返した。
開口一番の質問――“あなたは、本物の沙那さんですよね?”――に対して、あまりにも当然の答え。
「……はあ」
「リゼちん、ため息をつくと幸せが夜逃げするですよ」
「……ため息くらい、好きにつかせてください」
リゼット・ド・カスパニエは、黒須沙那に複雑な感情を抱いていた。
リゼットは女性に性愛を抱ける少女だ。現在の恋人である三原かざみは、過去沙那とも関係を持っていた。
かざみを巡って衝突――などをした訳ではない。そもそも沙那の現在の恋人は塚守狩魔という少年であり、過去はどうあれ今のかざみと沙那には性的なつきあいもない。
「沙那さん」
「んー?」
「……いえ、なんでもありません」
知らない仲ではない。この基地での仕事は、同じ
決して、知らない仲ではない――嫉妬はあったかもしれない。今でも、少しはあるのかもしれない。
けれど、沙那は悪意に鈍感な少女だというのがリゼットの所見だ。
苛立ちや怒りを向けても、はぐらかされるばかりだった。あまり角を尖らせては、無意味に張り合っているようでみっともない。
「――あの子の事ですが、どうしますか?」
――かざみおねえちゃんは、あの子にも優しくしてあげるんだろうなと思う。
そのツノゆえにオニと呼ばれる沙那とさなに対し、リゼットは黒エルフェンと称される。
膚は黒く、耳は長く、その性は酷薄と呼ばれる。
「状況が不可解とはいえ、迷子まではわたし達も責任を持てません。
何らかの天使力反応によるものだという可能性はありますし、しばらくはここで保護をすべきなんでしょうが……」
「こういう時にでしゃばるかざみ姉さんは出向中、と。
――あ、リゼちんリゼちん」
「はい?」
「ほら、なつかれてます」
「え?」
幼いさなが、いつのまにかリゼットのスカートの裾を握っていた。
自分で部屋を抜け出してきたのだろう。今にも消えてしまいそうな、頼りない温度だけが伝わってくる。
「……おねえちゃん」
ただ、呼ばれただけだ。他に何もない。
本当に同一人物なのかと、もう一度疑いを覚えた。
それほどに彼女の声は、弱々しく頼りない。
「――あー。
なんか、まんまですね」
だというのに、沙那はそんなことを言った。
「私、あの時は、こんなでしたから」
その顔は苦笑いのような、懐かしむような。
「あの……時?」
問い返すリゼットには、けれど既に分かっている事がある。
沙那も、そしてリゼットも――誰かと、望むでもなく肌を交えた経験があるからこそ、今の自分があるのだと。
二人ともが、過去何かによって何かを壊された。
「……あれ、それは?」
沙那は、幼いさなが手で握っているものに気付いたようだ。
木の棒で編んだ板のような、変わった質感を持つ代物だ。
サイズは大人の掌程度で、何かの壊れた一部分という印象を受ける。
「わかんない……」
頼りなげな声は、それだけを返した。
「――でも、大切なものなんだね」
「うん」
幼いさなの発した中で、その声だけが確かなものだ。
その日の夜。自室の風呂に漬かり、リゼットは身体を休めていた。
「はあ……」
結局引き取り手が決まらず、幼いさなは今もリゼットの部屋のベッドで休んでいる。
だが勿論リゼットの任務は子守だけではない。今日は書類の整理だけでも時間をとられた。
口元までを湯船に沈めると、全身から疲労が溶けていくような気がする。
「――で、なんで沙那さんまでいるんですか」
「まあまあ」
沙那もリゼットも、小柄な少女である。
二人して湯船に漬かったところで、物理的な問題はさしてない。
ないのだが、どうして彼女がここまでついてきているのだろう。
「はい、それは沙那がリゼちんの背中を流したかったからです」
正確に言えば流された後だったりもする。こういう時の彼女に抗弁をするのは、意味があるようであまりない。
「――沙那さんは、綺麗ですね」
ただ、それだけを呟いた。
視線はどこを見るでもなく、茫洋とさ迷っている。
リゼットの黒い膚には、各所に刻まれたものがある。
腹に傷痕がある。
背に傷痕がある。
沙那の素肌は――その心までは分からないけれど、傷もなく白い。
「オス」
褒められるのがくすぐったさそうな、あるいは単に嬉しそうな顔。
「リゼちんも、綺麗ですよ」
その笑みには何のてらいもなく。
リゼットは、沙那に自身の素肌を見せる事を、嫌ではないと思っている自分を発見する。
「主にツンデレなところとかが」
「…………それ、何語ですか?」
その言葉も聞かずに、沙那はリゼットの頬の辺りに手を伸ばす。
「えーと、リゼちんはこのあたりをつまむとでれっと……」
「え――ふにゃあっ」
長い耳をの耳たぶあたりをつままれて、リゼットが猫のような声をあげる。
「ふふふ、こうするとリゼちんは“お耳はダメです……”とせつない声をひゃわぅっ!?」
自分のツノを舌で舐めあげられて、今度は沙那が嬌声をあげた。
「……沙那おねえちゃん? そんなに二人でかざみおねえちゃんを虐めてからの決着をつけたいんなら、わたしも手加減しませんよ?」
「え、あー……そりも大変魅力的な提案なのですが、それはアレといたしまして」
慌ててリゼットから離れ(と言っても狭い湯船の中だが)、沙那がリゼットを見返す。
「でも、あの子――どうなるんでしょう?」
「明日検査です。沙那さんと同じように、あの子も天使核を持っている可能性は高い訳ですし……」
「ヴィヴリオ司令、よーしゃないですからねー。たとえ九歳でも、エーテル的に問題さえなければ……」
沈黙。
「……早く、終わるといいですね」
検査も、戦争も、何もかも。
「――無害な天使、という可能性について、どう思いますか?」
そうしてリゼットは、明日改めて沙那たちと再会した。
「ふえ?」
場所は兵士達の待機室だ。出会い頭に唐突な事を言われて、沙那が不思議そうに聞き返す。
「…………」
そして幼いさなは、少し前にリゼットのところに来てから、リゼットにつかず離れず歩いていた。
「無害な天使……というと、昔のご本に書かれてる割礼マニヤの天使さんとか?」
「沙那さん、うちの基地にもクリスチャンの方はいるんですから……
――話したいのは、わたしたちがお空で戦っている、天使兵についてです」
さなは天使力に関わるほとんどの検査をはねのけていた。
通じたのは最も単純な、
「結果から言います。
――彼女の計測値は、666を越えていました」
一瞬、沙那が絶句する。
それは人間としてはありえない値だ。人の身として天使の力を宿した者でも、アガペーの許容量はせいぜい650程度。沙那やリゼットのそれは更に低い。
666を越えた
――666を越えるアガペーを持つのは、空を舞う天使兵と呼ばれる存在だけだ。
「えっと、計器の誤作動……」
「誤作動は起きません。このさなちゃんが言うには、何度検査が繰り返されたのか分からないくらいだって――」
沈黙。
幼いさなが、ふとリゼットの手をつまんだ。
「天使」
「――?」
「天使……きらい?」
リゼットは答えられず、沈黙だけをそれに返す。
家族を天使兵に殺された者など、この基地には余るほど存在する。
憎悪と嫌悪もまた余り、だからこそ基地の兵は天使兵を殺すのだ。
「――きらいじゃ、ないけど」
無害な天使は、憎悪の対象にはならない。
ただ悲しいだけだ。
彼女は永遠に、自分の無害さを証明などできないのだから。
「……沙那、ちゃん?」
「え?」
「――だれ?」
「……ボクは……」
「ボクの名は――塚守、狩魔」
彼はそう名乗り。
彼は彼女の名をそう呼んだ。
へ