外伝『姿変えの魔女、白い翼』(前編)

 そこは発狂した宇宙だ。
 私は、そこをゆりかごと呼ぼう。


 虚空の中心で、巨大な生き物が炎を吹き上げていた。
 それ(・・)がどんな生き物なのか、知っている者はここにはいない。それについていくらかでも語れるのは、せいぜい私くらいのものだ。
 そしてここ(・・)とは、つまるところこの生き物の身体の上のことだ。
 鯨を島と見間違えた、などという規模の小さな話は忘れてほしい。それは緩いとはいえ、自重とその従属物の重量によって、周囲の物体を捕えるだけの引力を発生させていた――人間の常識に従うならば出生前に自重で潰れているべき、天文学的な規模の塊だ。
 ここでは何もかもが燃えていた。道を誤った鳥は発火する暇もなくガス塊に変わり、空を渡る歌さえ伝導物ごと焼き尽くされる。
 それを成すものを生き物とは呼びたくないような景観だ。だが、非常識とはいえ子の出生は頻繁に観察される。
 まるで泉が沸くように、それ(・・)の表面から粘液状の原生生物が湧き出していく――と同時に、先ほどの鳥に習って燃え尽きた。
 続いて表面から落剥する、アルミに似た小片も似たような運命を辿る。そもそもそれ(・・)自体、あまりの高温に胡乱な不定形の塊と化してしまっているため、どこが表面かはよく分からないのだが。
 続いて濃密なガスが放出されても、それは自らを燃やすための燃料にしかならない。
 ただ、それ(・・)が状況を理解しているとは思えない。ガスの放出される地帯は急速に広がっていき、あちこちで急な爆発が起こる――
 ――私は、卵と鶏の慣用句を思い出した。
 ただ、なぜそれ(・・)が燃えているかを言うならば、先んじたのは明らかに鶏だ。
 それ(・・)の身体も、最初は冷えていただろう。だがそれ(・・)は無節操に、考えもせず、あらゆるものを表皮から生産している。
 そのうちにそれ(・・)の周囲では自ら産み出した可燃性のガスが凝縮し、ほどなくその身は松明と化したのだ。
 故にそれ(・・)は、いつか星と呼ばれるようになった。
 星の名は〈燃やすもの〉、あるいは〈大バベル〉。
〈燃やすもの〉は質量保存則を無視して増長し、自ら産み出したものの生存を許さない。
 しかし、それを異常な光景だったなどと、あえて言うことはないだろう。
 私にとってはこのゆりかご(・・・・)も日常の一部だ。そして私だけがこれを見ているならば、あえて人間らしい価値観にこだわることもない。
 眺めるならば安らぐ世界だ。何もかも一瞬で弾けるから、あらゆる罪悪感は摩滅する。
 ――ずっとそう思っているのも、あるいは悪くなかったかもしれない。
 ただ、そんな灼熱の地ですら生き延びるものがいる事を、私はとうに知っていた。
 黒い毛玉。
 そうとしか呼びようのない代物が、炎の中に浮かんでいる。
 しかしまるで炎などないかのように、それには一片たりとも熱された箇所が見当たらない。
 重力に溺れ、ガス流に浮かび、それは流浪を続けていた。
 定期的に震える柔毛は感覚器に違いない――それ以外の機能を備えたところで、使い道もないのだ。
 誰しもが焼死(まどろ)むのみのこの地で、安らいだまま炎を眺め続ける以外に、何ができると言うのだろう?
 ふと、それの動きが止まった。自発的なものではなく、〈燃やすもの〉を駆け巡るエネルギーの流れが拮抗したのが原因だろう。
 取り込めるような酸素はどこにもないとはいえ、周囲に気体が満ちているのは幸運だ。
 声帯を焼かれながらでも良ければ、そしてその必要さえあれば、存分に声をあげる事ができる。
 それは炎を呼吸した。
「くぅん」
 それを、仮に〈仔犬〉と名付けよう。
〈仔犬〉には脚がない。顔もない。否、動物としての器官の全てがない――ふわふわと動く柔毛の塊は、人間から見れば妖精か妖怪か分からない。
 けれど、そんなものは後々どうにかすればいい。
 それが寂しげに鳴いたから、私は〈仔犬〉を意思あるものと認めた。
「やあ」
 そして彼女(・・)も、だからこそここにやってきたのだと思いたい。
 ほんのひとときだけ、白いものが私の視界を覆った。
 それが翼だと気付く前に、私と〈仔犬〉は柔らかなものに包まれる。
 旋風。
 本当に一瞬のことだ。炎どころか〈燃やすもの〉の引力さえ完全に無視し、彼女は〈仔犬〉を抱きかかえて虚空を飛んでいた。
「よかった。きみが、ここにいてくれて――」
 遥か遠く見据えるものは、灰色(・・)の虚空。
 二枚の翼をはためかせるまでもなく背後の爆発をたっぷりと羽毛に受け、虚空を蹴りつけて急速離脱。〈仔犬〉にも無理矢理速度を付与し、十秒もしないうちに音が置き去りにされた。
 ガス塊を吹き飛ばして更に加速。音速に音速を積み重ね、天使が前人未到の速度にまで達するまでの手際には、いささかの遺漏もない。
 亜光速に到達し、またたきひとつ。
 そして〈仔犬〉が肌身に触れる大気に気付く間もなく、天使と〈仔犬〉は膨大な摩擦熱により爆死し――その一瞬後、両者は全く同じ姿で蘇った。
「ようやく見つけた」
 眼前には灰色の大地。
「ようやく帰れる」
 ふわり。
 はじめて天使は翼をはためかせ、上空の地面(・・・・・)に降り立つべく身体をくるりと反転させる。
 地球空洞説は、たとえとして適切だろう。
 あるいは卵。〈燃やすもの〉が卵の黄身で、白身が膨大で無意味な空。そして、卵の殻の内側が天使の見つめる地面だ。
 ちょっとした外向きの重力のために、そこは地面と呼ばれていた。
「ようやく、言えるんだ」
〈仔犬〉を抱きしめ、天使が微笑む。
「〈バベル網〉へようこそ」
 勿論〈仔犬〉には、天使の言葉を理解できなかった。
 それより〈仔犬〉は初めて触れる女の子(・・・)の感触にすっかり驚愕して、天使の胸に身体をすりつけるのに忙しい。
 
 
 天使はキョウコと名乗った。翼の大仰さに比べれば俗っぽい名だが、彼女自身は気に入っているらしい。
 彼女が〈仔犬〉にまずした事は、人間の赤子に対する事と似たようなものだ。
 まず家に連れて帰り、休ませる。そしてしばらく悩んでから友達を呼び、驚きと定番のからかいを向けられる。
 最初に顔を出したのは、石灰質の肌をした男だった。
「おめでとう」
「……何が?」
「だっておめでただろ。相手は知らんがガキはそこにいるさ、若干妖怪っぽい見た目だが」
 少なくとも地球上の犬とは程遠い外見の〈仔犬〉はキョウコの傍らにうずくまり、カーペットの上で動きづらそうにしていた。
「私が産んだ訳じゃないんだけど……」
「細かい事は気にすんな」
 ここはキョウコの家なのだろう。造形がいい加減な方のソファにどっかと座り、彼は勝手知ったる顔で場に根付く。
「そうそう。キョウコさん、この子を拾ったんでしょう?」
 そして石灰質の肌をした男の脇から、丁寧な口調の少女が口を出した。
「……うん。〈燃やすもの〉の周辺監査は定期的にしないと、何と対面するか分からないから」
「そこでタイミングよく、あの子がふさふさしているところを発見した、と」
 小柄な彼女が小首を傾げると、利発な少年のようにも見える。
「あの炎に適応した〈構造(パターン)〉の観測は何ヶ月ぶりですか? おめでたいですからおめでたです。ね?」
 キョウコは気軽に言うな、といいだけな顔で少女を見返した。
「私にとっては、拾うより育てる方がずっと難しいよ。……祝うなら、この子が無事に大科(おとな)になった時ね」
 背中の翼は思案げに揺れ動いている。キョウコ自身を覆い隠すほどの大きさの翼も、その時はささやかなものに見えた。
「育てるんですね?」
「……うん」
 少女の言葉に対し、ゆっくりとうなずく。
 キョウコが〈仔犬〉を抱えて虚空を飛んでいたとき、かわいらしくもない真っ黒の塊と一緒に、彼女は何を思ったのだろう?
「――(いわお)昼子(ひるこ)。あなた達には、この事を知っていてほしかったんだ」
「……それだけ?」
 ソファに座った男――巌が、気の抜けたような声を落とした。
「それだけ」
 呟くように言って、キョウコが〈仔犬〉を両手ですくう。
「あ……」
 その唇から、声が漏れた。
 ついさっきまでの〈仔犬〉は、風が吹けばどこかに飛ばされてしまいそうな小ささだった。
 それが今では、手に乗せる事に危うさを感じるほどの大きさになっている。
 キョウコ達が会話をしていた数分の間に成長を遂げる、〈仔犬〉はそういう生き物だ。
 ――だからキョウコの役割は、人間の母親とは違うものだ。
 私たちのうち誰も、そんなものにはなれないに決まっている。
「可愛いですか?」
「うん。この子は、さわってくれるからね」
 胸に抱き寄せた〈仔犬〉に手を添えて、そっと言葉を落とす。
〈仔犬〉がキョウコの指に柔毛(からだ)を絡める理由は分からない。好奇心か、あるいは単になめらかな指が気持ち良いからかもしれない。
 ただキョウコはいつしか目を閉じて、その動きに身を任せていた。
「……きみに沢山のものをあげたくて、ひとつだけもらいたいものがある」
 何が欲しいのかは言わないまま、キョウコは〈仔犬〉に最初の贈り物を与える。

 それは名前だ。
〈仔犬〉は、ヴィイと名付けられた。

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