西暦2057年の冬、俺は妹と結婚した。
「ふわ」
シロが俺の背後で欠伸をした。
今頃自動マクロが彼女のマシンを支配している最中だろうか。シロはベッドに座り、今にも眠りそうなくらいに退屈そうだ。
「眠いなら寝とけよ。通知があった時きついぞ」
「……おにいのぶんが終わるまでは、寝ない」
待っていてくれるらしい。
可愛い妹だ。
俺は団地の二階で妹のシロと二人きり。親は当分帰ってこない。
背後にシロをはべらせた気分で、俺はパソコンデスク上の愛機に指を滑らせる。
50人と打つ。
30人と打つ。
30人と書かれていたので、30人と打つ。
西暦2057年の夏、感じられるのは窓の外で唸っているはずの熱気より、空気清浄機のあげるきしり声だ。
室内機はエアコン込みで壁の中に作りつけだ。位置はシロがベッドを足場に立ち上がって、ファンの中を覗きこめるくらいだろうか。
ちなみにシロの身長は155センチ。俺は少なくともシロよりはでかいが、どっちも小柄な気もする。
「おにい。なんかくさいよ、もう」
フィルター部分に顔を近づけてくんくんやっている。それは危ないから止めろっていつも言ってるのに。
「買ってくるよ、フィルター」
「でもバカ高いし、それ」
フィルターの値段の事など、どっちも分かっちゃいるが。
「この
「あー……いっそ、取ってこようか?」
「どうやって? いつ?」
「…………」
「……暇なとき、とか?」
「……うん、暇なとき」
聞き辛いことを聞いても、最後にはそれを曖昧に済ませてくれる程度には、俺の妹は優しい。
「微妙だな、それ」
「うん?」
シロが聞き返してくる。
「俺の妹は微妙だ」
「……それ、喧嘩売られてるっぽい」
「掴み合いの大喧嘩だ」
どうでもいい受け答えをしながら、俺はキーボードを打ち続ける。
キーを見なくとも、必要な文字を思い通りに打ち出せるようになったのは、いつの頃だったろうか。
「俺はシロに押し倒される。体重をかけられる。暴れても抜け出せない。そして絞殺される」
「……趣味悪いよ、おにい」
シロがげんなりした顔をしている(と思う)。
「そうだな。人の死を冗談にするのは良くない」
よくない、と頷いて、俺は改行する。
75324人と打つ。
87トンと打つ。
87トンと書かれていた訳ではないが、電話での話だ。
「あ――!!」
発作にも見えるだろうか。
その電話のベルが微かに振動した途端に、シロはとんでもない反応を起こした。
「鳴った! 鳴った! おにい、電話鳴ってるっ!」
見開かれた眼。振り向いたからそうと分かる。
今にも涙がこぼれそうなその瞳が、俺はあまり好きでない。
「……出てくれ、シロ」
「無理だよ! おにいだって分かってるでしょ!?」
分かってる。
毎度電話が鳴ったときにはそう言っても、最後には俺自身が応対する程度には、俺は妹には優しいんだ。
「やあ、おふくろ」
受話器を取り上げた直後、微笑んで俺は言う。
やあおふくろ。
あるいは親父か。どちらか二人だ。
他の誰かが俺達の電話にかけてくる事は、絶対にあり得ない。
『――
「死ね」
相手を間違えた謝罪の気持ちを込めて、俺は元気よく発声する。
『な、なん――わ、わた、あなたの母親に向かって、何てことを……』
受話器を飲み込むといい。
『どうしてそんな事を言うの?
俺の沈黙をどう取ったかは知らない。
『そんな汚い言葉を――いや、あたしのする事に不満があるなら言ってくれればいいのに、でもそんな哀しいこと、』
「――死ね。迅速に自殺してくれ。奇跡のように他殺されてくれ」
『イ、イワ――』
「受話器を飲み込んでくれ。壁に頭を打ち付けてくれ。発狂して悲嘆してくれ。喉を食い破ってくれ。眼球を削いでくれ。切腹してくれ。大腸を切り取ってくれ」
『……ギ』
電話越しの声にノイズのようなモノが混じる。
受話器を取り上げてから、259秒経過。悪くない速度だ。
「死ね。死ぬといい。死んでください。どうか、どうかだ。頼むから、死ね。
おふくろを殺すのは、もうこれで二十回目だからさ」
『ァ、アアアァアアアア、ァァ――』
「――もし、どうしても死ぬのが嫌なら、
それがとどめだ。
あいつにそんな事が出来る訳はない。
『……クレスト公社。Bブロックより、花害についての2057年第二期被害報告』
声質が無機に切り替わる。なんて弱い、無意味な機能を持った、中途半端な
「――――――」
全ての報告を受け取るまで、さして時間はかからない。
俺はその間、俺が知る限りの役所の利害関係を考え、最終報告をどんな形で提出すればいいかを考える。
どんな小細工をすれば、彼らのくれる小遣いで空気清浄機のフィルターが買い換えられるかを考える。
『……以上、報告を終わります。何か問題は?』
「何も問題はない」
それは本当の事だ。
「愛してるよ、おふくろ」
そう言い置いて、俺は電話を置く。
「……お、終わった?」
「当分来ないさ」
そう言って頷くと、シロはベッドに置いてあるノートパソコンを開いた。
「やっちゃうね、これ」
作業を始めた画面を覗き込んでやると、やあと手で払われる。困ったような嬉しそうな声。
――彼女は自分の機械が作業中だったからではなく、電話を待っていたのかもしれない。
でも、それは考えても分からない事だ。俺も仕方なく、中断していた作業を再開する。
俺は花害と打つ。
俺は死者と打つ。
俺は数字を打つ。
俺は単語を打つ。
俺は妄想する。
シロはあなたの母親に向かってと打つ。
シロはまだ六歳なのにと打つ。
シロはねえ元気だったと打つ。
シロは忘れないでと打つ。
俺は分かっている。
俺は、俺自身のボットを、あのボットを作った誰かにならって作っている。
――ああ。窓の外が、なんて遠い。
空は空を埋めて紅い華。
吹雪のような花粉にどんな毒性があったか、あるいはなかったのか、俺達に確認する勇気は永久に起きないだろう。
団地の屋上では俺の両親を埋めて花が多く咲き誇り、根は骨までを腐らせているので、俺達はきっと帰れない。
絶対に帰れない。
婚姻届けを取り寄せてみても、世界はそれほど強く変わらないし、世界はそれほど早く終わらない。
世界が終わるその日まで、俺達はキスをしない気がした。