男は少女を殺して食った。
本当に奇妙な雨宿りだ、と虹は思う。
虹は家で待っている家族のために、街で食料を収穫してきたところだった。
虹にとっては食料は、街(・)で収穫(・・)するものだ。そこに疑問は何もない。
傘は垂らした左腕に挟むように持つ。どうせろくに動かない腕ならば、傘の固定の役割でも果たせればいい。
バッグ代わりに使っているビニール袋には、特に美味しそうでも不味そうでもない肉塊が入っている。
それなりに調理すれば、それなりの代物になるだろう。ビニール袋の中身は、彼女の日常の一部だ。
「…………」
虹は明朗な性質ではない。どちらかというと人見知りするたちだと自分で思う。
だから雨の中に現れた(・・・)男に、何を言っていいのかはわからなかった。
虹の住む街は、雨のやまない街だ。傘は必需品以外の何者でもないし、傘を持たずにこの街を歩く人間なんてありえない。
だから雨の中、ずぶ濡れで立ちすくんでいるこの男は――この街に住んでいるのではなく、この街に現れたのだとしか言いようがないのだろう。
「ねえ――」
声をかけると、男の顔がこちらを向いた。
男は無邪気そうな顔だけ見れば少年のようにも見えるが、全体の気配はやはり成人のそれだ。
男は――小指がなかった。
指には手当てされた様子もなく、傷口はグチャグチャにふやけている。
「――寒くない?」
もともとろくに動かない左腕に比べれば、まだしも口はなめらかに動いた。
男が着ているのは清潔そうな白いシャツだが、こうも濡れていては清潔も何もない。
傘に入れてやろうと、思う事はなかった。虹が男にしてやれる事は特にない。
ただ――眼前の男は本当に寒さを感じているだろうかと、そんな思いがあった。
「……うぁ、ぁ」
虹は眉をひそめる。
存在しないのは、小指だけではなかった。
男の喉に一文字の傷が抉っている。声帯を破壊するには十分すぎる程の損傷だ。
「あ、ぅ……」
そうして虹は理解する。彼と会話をするのは不可能だと。
「――そう」
彼はそうして傷つけられ(・・・・・・)、殺されなかった(・・・・・・・)。
眼前にいるのは謎ばかりの男だった。誰がなぜこんな傷をつけたのかは、虹の理解を絶している。
だが、彼を傷つけた者にとっては、それは深い意味がある行為だったのだろう。
「あなたも家から、用事があって出てきたのね」
私と同じように。
彼を傷つけた者は、そんな男と共にいる必要があったのだ。
ならぱ彼には、帰る場所があるのだろうと虹は思う。
たとえ彼が帰る場所以外の全てを失っていたとしても。
「――え?」
唐突な動きに、虹の反応が遅れた。
男が虹のさしている傘の中に入ってきたのだ。
「なに……」
やや珍しい持ち方ではある。
傘を挟んだ左腕に興味を示したのか、男がそこに手を伸ばした。
男の小指の断面が、雨露に濡れている――
自分の動きもしない腕を掴まれるのか、と虹が身を固くした。
だがその予想は裏切られた。
男は、何に触れる事もなかった。
「――――」
男は、ない(・・)小指で虹の左腕に触れていた。
相手に触れずに自分の思いを伝える、たぶんそれが彼の言葉なのだろう。
虹は、わずかなくすぐったさを覚えた――もうろくに動かない左腕を、もう存在しない指が滑っていく。
それは静かに過ぎるかもしれない。
雨音の中で、ささやかな呼吸だけが生命の存在を証明しているかのようだ。
男は虹と同じ傘にいる。
それは数秒間の雨宿りだ。
何を乾かす事もなく、何の意味があるでもない。
通りすがりの相手に親交を。
家に帰ったら、こんな男と出会ったのだと、家族に教えてあげようか。