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第4景
ずっと考えていた事がある。ありふれた考えだ。
自分はどうすれば妻を幸せにできるのだろうと、バベルは延々と考えていた。
目覚めと夢の区別が無いまま、我竜は魔竜の隣で、ゆるい愛撫を受けていた。
隣という言葉を単に熱量のやり取りの関係として使っていたとしても、バベルに触れるそれが手でなくとも、唇でなくとも、愛撫と受け取らずにいるには熱すぎる。
隣にはアイーシャがいる。それだけで、気分は悪くない。
いつか不死種に襲われたが、それも一時的な痛みだ。虫刺されを掻く程度の反応を返してみたらそれはあっさり潰れてしまったが、どうでもいい事でもある。
アイーシャがいる。良い気分だ。
だというのにバベルの脳は繁茂して、あれふれた思考を続けている。
――あるいは、もう一度人の姿を取り戻すべきなのかもしれない。
竜の肉を据え置きにし、分身あるいは双子としてのひとがたを作る。自分の事もアイーシャの事も、人でなくなるまでの記憶は知り尽くしている。
小さな身体の身に受ける変化の渦は、少なくとも退屈凌ぎにはなるだろう。
しかし環境というものがあった。性格だけが往時のままで時間を越えた結果は、地獄に近しいものになるだろう。
となると世界は戻されるべきだ。アイーシャが人として、笑っていた頃まで。
バベルは何も疑わない。
試みが間違いだったしても構わない。
未来がいくらでもあるのなら、する価値のある事をいくらでも試すべきだ。いつか幸せになるために。
バベルは偽物を性急に求めず、本物を時間をかけて作り上げる。
他の全てを犠牲にして。
アリスは夢を見ていた訳ではない。
ただ夢になっていただけだ。
何かがあるという事を理解しないので何も無い。
ただ外部からの刺激のみを知覚する。
「……まずは、君を規定する」
刺激。音声的な。
「具体的な大きさはそれほど問題じゃないんだ、ただ外部との境界がはっきりしていればいい。君も、自我というのはそういうものというつもりであれを書いたんだろう?」
痛み。肉体的な。
「つまり、まず君を我竜から切り離す」
痛み、拒絶、拒絶。
「切り離した後、君の身体を増殖させる事はさせない」
打撃。
「……痛いよ、アリス」
打撃。打撃。
空虚。痛み。
「ごめんな」
痛み。
断裂。
「考えれば、君と喧嘩をするのは、これがはじめてだな――」
拒絶、拒絶、拒絶、拒絶。
「やめない」
やめて。
「外形から彫っていくんだ。僕が覚えている限りの形に、君を整えていく」
やめてやめてやめていたいいたいやめてやめていたいいたいいたいいたいたいいたい、
「君は彫られながら崩れていく。それでも君が崩れる、僕が彫る速度が速い。君の常識としての君の身体が変化していく速度は、それほど遅くはない」
おかしいよどうしてこんなにいたいの、なにかおかしいよ。
「そして、僕は語る」
――え?
「ひとの形を保ったまま、繋げる限りの神経を繋いだ」
え? え?
「僕は言葉と、言葉以外のもので、君を語り続ける」
ねえ、こわいよ……
「君はきっと怖いと思うんだろうけど、もう始まってる」
――火花。
世界が弾けて麻痺する熱の中で冷えた結晶が降り注ぎ、そのひとつひとつが言葉とそれが内包する意味。持ってもいない辞書をいつの間にか心の中に抱えていた。
辞書、心、中。全ての言葉を浮かんだ後で理解する。
怖い――
「……我慢してくれ、なんてことは言えないんだ。ただ、」
うるさいうるさい喋るなこいつはなにこいつが喋ってるって分かってるあたしはなに。
「もう喋れるのか、アリス――」
うるさい。
「なあ、この手が分かるか?
君を語るのが僕でも、君は僕にならないよな?」
手のあったかいのをやめて。手を握るのをやめて。
心の中はがたがた震えてじくじく煮えて、いらない知識がくるくる踊って冷めてくれない。
「僕はディイ」
私はアリス。
「僕は、ずっと君と一緒にいた」
嘘つき、どこもずっとなんかじゃなかった。
「なら、これからずっと一緒にいたい」
私は戻りたい。
またここに暖かく埋められて眠りたい。
「アリス……」
今までは何も考えなくて良かったのに。
こいつの伝えた事の中に、私が嬉しい事なんて何もなかったのに。
「……それは、僕が嬉しかった事しか伝えられないからだ」
知らない。
「聞いて欲しい事がある」
嫌。
「――お願いです、聞いてください」
聞かない。
「いつか、君と笑いあいたいんです」
気持ち悪い。
「理想の旗は欠けた。思いも汚れた。だが、消えたものは何もない」
おまえの内面なんて聞きたくない。
「何もかも奪われたなんて事はない。必要なものが数個、手の届く距離まで遠ざかっただけだ」
そんな楽をしてるのはおまえだけだ。
「違う。命と魔術さえあれば、僕達はどこにでも辿り着ける」
私はおまえじゃない。
「――欠けた旗の下もう一度、貴女と時を過ごしましょうか」
やめて。
「語りましょうか」
話す事なんて何もない。
「黙りましょうか」
黙ってたら、何もできない。
「……背中を背中に合わせたら、月が出るまで黙りましょうか」
月のまだあったときまで、時間を戻したいの?
「え?」
驚かないで。
「――――」
答えて。
「……違う」
本当に?
「今は、違う」
本当に?
「僕は、君が好きだ」
うそつき。
「……嘘じゃない」
男の子が、好きな人を殺しちゃいけないんだよ。
「殺してない」
殺したよ。
「――それは」
アリスはディイに解体されて死んだ。その死体を使って、アリスの顔と名前を借りた別人が作られた。
「それは――」
私は、アリスの事を、何も覚えてない。
「…………」
ねえ――
「……実を言うと、それでも良くなってきたんだ」
え。
「君が可愛いから」
――――は?
「…………は?」
それが紛れも無い肉声なのだと、この時点になってようやく頭で理解する。
ディイの言葉による単純な心の弛緩と共に、アリスは周囲にあるものを物凄い勢いで知覚していった。
自身は簡易な服を着て(誰がいつ着せたのかは考えない事にする)、ぼろきれのような代物をまとったディイと対面している。
周囲は荒野。遠くには身も知らない癖に少しだけ懐かしい、〈新天地〉の町。
彼方には胸騒ぎを起こさせるほどに大勢の人間が、ゆっくりと町まで迫ってきていた。
「終わったか?」
「……なんにも、終わってないよ」
そしてカミロが、カーレンが、エイダがいる。
カミロが肩をすくめた。
カーレンがほっと息をついた。
エイダは皮肉に微笑した。
そんな彼らへの挨拶が何も浮かばずに、アリスはただそっと頭を下げる。
「アリス」
そしてディイに呼ばれたから、仕方無しに振り向いた。
一瞬の沈黙。
「よかった」
――なんだろう。
ディイが、泣いてる。
「よかった、よかった……いい訳があるかこんなの、結局僕は恋人殺しか、殺し合ったのはお互い様のくせに、ああまで嫌う事はないだろうに……」
ひざまずくように崩れ落ち、自身の言葉を理解できず、ただ心の中身だけが流れて。
いつの間にかカミロ達は、アリスとディイから遠ざかっていた。
そして何も言えずにアリスは、ディイの目の前で立ち尽くしている。
「記憶喪失なんて無いよな、笑顔を見たいって言ったのは無し、はじめての出会いも無し、何かも最初からやり直しか? ちくしょう、僕の落っことした目玉は結局どうなったんだ? 別人も何も、アリスは全部アリスでアリスにしか見えないに決まってるじゃないか、ちくしょう――」
ディイの泣く理由が、今のアリスには理解できない。
今のアリスはディイの何もかもを知っているのだけれど、それでもわざと理解してやらない。
「ちくしょう、ちくしょう……ああ、良かった、生きててくれて良かった……」
――何も言わずに、熱くなった頬だけを揉みほぐした。
そして義理を返すためだけに、彼が泣きやむまで待つ。
きっとディイが泣きやむまでの時間は、4年と半年よりは短いだろうから。
結局ディイが泣き止むまでには、37秒を要した。
彼は37秒後に巨大な肉塊に殴打され、倒れ、吸収され、吸収から脱し、戦いを始める。
敵はバベルだ。
負ける気がしない。