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第1景
3.“昇る雨”――戦争の日
――ロビンと〈水〉の兵士達を満載し、〈称揚〉号が精骸の森の奥地で停止した。
上空ではバベルの航自機が、ゆっくりと反転していく様が見える。
追う余地はない、ディイですらバベルには追いつけなかったのだ。あの航自機は、とっくに中身を降ろし終わった後だ。
そして〈称揚〉号はその挙動を先人に習った。少なくとも操縦手が狙い撃ちされない程度には安全な場所に滞空し、そこから縄梯子を垂らしてひとりずつ乗員を降ろしていく。
ロビンの護衛達も含めた鍛え込まれた男達の速度は、俯瞰すれば翼を生やし飛び降りるように見えるだろう。
ここにはいないディイは全ての兵に先行し、人外の速度で走り抜いている。
「……っ」
ロビンは最後に梯子の末端から地面へと飛び降り、そして着地の衝撃に足を痺れさせた。
すぐに姿勢を正すと、片方の手の中が痛い。いつの間にか右手があの水晶の欠片を握っていた。
そのままにする。気遣いの言葉はない。誰にもそんな余裕は無いし、ロビン自身もその気遣いに甘んじるだけの余裕がない。
上空で律儀で精細な滞空を続ける操縦手でも、兵の指揮官でもなく――自分にはまた別の役割があると、彼女はそう信じて走り出す。
時間が足りなかった、大型とはいえたかだか航自機ひとつを満たす程度の兵しか集められないほどに。
バベルが地竜の心臓を破壊した時に何が起こるか――この世界がどう壊れるのか、冷静な予想などできはしない。
「怖いか?」
「――――」
「俺は怖いさ。頼むぞ、相棒」
背後では吸血種の兄妹――カミロとカーレンが、そんな会話を交わしていた。
カミロはいつも通りの短剣、カーレンは細身の剣とマスケットで武装し、どちらも視界と動きを制限しない軽装に身を包んでいる。
「え……そんな、相棒、って」
「その通りの意味だってばよ――とにかく、気張れ!」
それで会話を打ち切り、カミロが絶大な速度でロビンを追い抜いていく。
「――進め! 進め! 待ち伏せも銃弾も意に介すな!」
声をあげる指揮官は大兜で自らを誇示し、誰もが職務に忠実で、ロビンとカーレンのふたりの少女は誰にも置いていかれないと心に決めた速度で走り抜く。
肉体術をまとったカミロが樹に紛れたかと思った途端に見えなくなっても、カーレンは速度を緩めない。
見えるものが樹木だけであるはずがなく、だけど今全ては視界と射界を制限する障害に過ぎない――そんな森を疾走する中で、敵の姿が見えた。
それは〈風の広塔〉の精鋭達だ。バベルが彼らにどんな執着を持たせ、どんな矜持を利用しているのか、それはロビンには知る由もない。
ただ密集する〈風〉の兵団と、突撃する〈水〉の兵団とがぶつかり合って、人も死なずに済むはずが無い。
銃声が響き、ロビンは人を殺した。
「――ファビオ」
彼女が許されぬ言葉を呟いたのは一度のみ。
油を舐めたような味。血の混じった脳漿がひとすじ、ロビンの唇を汚した。
常に共にいながらもどこか生々しい生活感を感じさせなかったファビオの顔は、今や人間かどうかすら分からなくなるほどに弾けている。
護衛に庇われた。
庇い殺した。はじめての事ではない。
ロビンは言葉を切って大地を蹴る。許される事ではなく仕方ない事でもない、もう何をしたって彼は報われない。それでも残る護衛達と共に、止まりたくないがために走る――
――そして止まらないのは、もうこの森の中で、〈風〉の兵団は負けていたからだ。
〈風〉の指揮官と思しき男の目から、短剣の柄が生えていた。
彼の不幸はふたつだ。この短時間で樹木に飛びついて頭上から飛び道具を放ってくる者がいるとは思わなかった事と、兜の装飾をほんの少し防護より重視しすぎた事。
もう〈風〉の兵団には極限の殺し合いの最中で支柱となる存在も、一点防護のための密集陣形を保持する存在もいない。
「……っ!」
走りながらロビンが自らの短剣を引き抜いた。
〈風〉の兵団は分単位の装填時間のかかる再射撃を早々と諦めていた。銃口に柄をはめ込むように銃剣を装着し、走りこんでくる――たかだか数十人の、しかも頭を失った兵団が自棄になって突撃してくる様に、心臓が裂けそうな恐怖を覚える。
「撃て! その後抜剣、応戦せよ!
卿はお下がりください! お下がり――とっとと下がれ、魔術の小娘!」
銃声と硝煙が蔓延し、一瞬辺りが何も分からなくなる。
そんな中で〈水〉の指揮官が叫び、ロビンを後方へ突き飛ばした。
ロビンが地面に倒れこむ様も見ないうちに、彼は退避などせず大槍をかざして硝煙の中へ向かっていく。
「っ……この」
わずかな悪態をつき立ち上がる。
その意味も考えないまま地面に落ちた水晶の欠片を拾い、今度は握らず懐に収めた。
彼はロビンを助け、彼の大槍は敵兵を刺すと言うよりは殴り飛ばしていた。そんな雄雄しい姿も敵も味方も全てを無視して走り抜きたい、それだけの理由はある。
――自分がここに来た理由は、既に誰もが理解させられた筈だ。
戦いの向こうに、否応もなく炎が見える。
ただ〈穴〉とのみ呼ばれた吸血種の町は、精骸を詠えた炎に満ち、焼け焦げていた。
光景が地獄に近似していく中で、カミロが樹から飛び降りる。
そして悲鳴。本来なら彼の脚を折るべき衝撃は、敵兵の頭蓋へと移し変えられた。
続いてカーレンらしい姿が一瞬視界の端に見えたが、もう彼女が何をしているのかも分からない。
「――歩め! 全軍炎の向こうへ! まとわりつく奴は打ち殺せ!」
〈風〉の兵団はたったこれだけの間にその数を大幅に減らし、それでも〈水〉の指揮官の号令はロビンをぞっとさせるほどに早い。
このままでは進めない。それは誰もが分かっている。
「――臣下 我応聞声」
ロビンが見るべきものは、今までで最高の大火だ。
視界全てを埋め尽くそうとする炎全てを直視し全てに同時に干渉するのは、魔術師としての最高の技と言って良いだろう。
それは、実に〈水の広塔〉管理者に相応しい竜術だ――
「――下命非無在所」
風が吹く。
見える範囲にある炎は、その詠唱で全て吹き飛ばした。
走る。未だ水晶の欠片を握ったままで走り、皆と共に〈穴〉へと降りる。
「我鳴鐘三度――」
再度現れた炎は、一息で吹き飛ばした。
「我不疑。揺籃非無在所」
蒼白の魔法陣がそこら中に網を張り、疾走と目視と詠唱が面白いように重なる。絶叫も飛び散る肉片も遠い、いや近い。怖い。頭が痛い。止まらない。
「――っ、唯為織紗幕――」
死ぬほどの熱気の中で、焦げた精骸の階段を駆け下りる。
疲労への対処は心得ている。要はそれを考えなければ良い。
「応永眠」
最後の詠唱に、殺意を込めた。
町中が燃えていた。
ある男が精魂を賭けて作り上げたその大火を、跡形もなく吹き飛ばす。
そうして〈水の広塔〉管理者ロビン・パウルは、〈風の広塔〉管理者バベル・パウルと再会した。
ロビンが目にした状況は、完全な膠着状態だった。
ディイは間に合っていたのだ。バベルが全ての露を魔術で払い、目的を達成する寸前のところで。
「……ダーリオ、サルト」
死んだな。
カミロはわずかに、そう呟いた。
ロビンが空とは言えない上空を見上げると、足元にわずかな揺れを感じる――ディイとバベルは、その根源にいる。
アリスも見た事があったろう。この〈穴〉の中の上の地面の丸い山が、地竜の心臓だ。
バベルの準備は完璧だった。うまく心臓のくぼみに入り込み、携えた得物は刃物などではなく史上2挺しか存在しない筈の〈攻城者〉の片割れ。これなら竜の心臓も城壁同様に破砕できる。
ディイの停止は完璧だった。彼自身の抱える〈攻城者〉にかかれば、バベルは指先に力を込めた瞬間赤い糊に変わるだろう。
「――目的を、聞いておきましょうか」
〈水〉の兵団が次々に銃を構える中で、ロビンはバベルに問いつつ間を計る。
ロビンにとって2人のいる距離は弓が届く程度。バベルが少々町を焦がした程度では体内の精骸は尽きなどしない、ならば竜術で起こした風に乗って跳べない距離ではない。
航自機なしで風に乗る曲芸も、必要なら必ず成功させてみせる。恐らくはバベルが成功させたように。
「ロビン、月は見たか?」
ディイに銃をつきつけられている事実などないかのように――ただしその身体は微塵も動かさないまま、バベルが言葉を返してくる。
こんな距離を保っても、彼の瞳孔は異様なほどに目立っている。
「何を言ってるの、バベル」
「あの月は私の妻なんだ」
「――――」
どこかでカーレンが息を呑む。
否定する根拠がない。
あの月が竜でないと考えるだけの余地がない。
「彼女は元々竜人と同じ身体だったけれど、結局彼女は人間の形を捨てた」
今の状況とは関係もなく、どうして止められなかったと叫びたくなった。
「妻と同じものになりたい」
そうしてロビンは、どうにもならないものを見る。
バベルは含羞んでいた。
自らの目的に諧謔と、それを踏み潰す意思を込めて。
――ああ、これだから。
「……男なんて、大嫌いだ」
ロビンは心底から、そんな言葉を吐き出した。
そして息をつく。
「撃て」
その言葉は、勿論ロビンの放ったものではない。
続く銃声はむしろ爆音に近かった。
硝煙の中でバベルは、肉体を弾けさせながら踊っている。
自らの得物を使った当然の結果として痙攣と共に両腕の骨を折り、加えて〈水〉の兵団の一斉射撃――
数秒で脂肪交じりの不可解な塊と化したバベルは、自ら地竜の心臓に作り出した穴へと沈んでいく。
「――――」
沈黙。
カミロですら最大の力で投剣をバベルの身体に突き立てたと言うのに、ディイだけが〈攻城者〉の引き金に指をかけたままで撃っていなかった。
その異様な冷静さにも、今は言及する者もいない。
ロビンはふと家へ帰りたくなった。
目を閉じて眠りたくなった。
帰れもしないのに。
心臓の欠落から噴き出す精骸の怒涛よりも、その中で再生していく怪物の方が赤い。