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最終景
竜に全身を呑まれてから、抜け出るまでの記憶が無い。
精神の全てが断絶していく中で、アリスは我竜の地を踏んでいた。
“尻尾”は流体として圧縮され、彼女の外形は人の五体に戻った。
身は白いものに囲まれている。身体ごと破砕された衣服の替えと、見えなくもない。
そしてディイのいる場所を目指す。
不死種ならば秒間で吸収される筈だと言うのに、アリスは再生したばかりの足で我竜の上を歩いていた。
本物の人間と見間違えそうなほど静かな足取り。だが、それは必ずしも肉体の接触を意味してはいない。
“――〈触彩〉という肉体術があってな”
もう大分攪拌された脳の裏に、いつか聞いた言葉が浮かぶ。
“――まとめてしまえば眼球を増やすだけの術だ。だが、増えた球タマがこけおどしでなく実際の視界を持っていたとしたらさ”
アリスはその身体を、白色の何かに戒められている。
それはきつく腰を締める夜会服か、硝子と糸で作られた拘束衣に似ていた。
“――それがどれほど竜術を強化するか、お前なら分かるだろう?”
アリスが通り過ぎた道は、残さず魔術によって石化されていた。
どんな強力な不死種もその身体が精骸に過ぎないのなら、触れるものを全て無害に変えてやればいい。
纏うものは今も垂らしている背中の脳に似た、眼球からモノを見る回路だけを抜き出した精製体だ。
視線を全方に置き、たったふたつの眼球の向きだけを一点に据え、詠唱もなく我竜を傷付けていく。
アリスの背後から襲いかかる触手を、背中の〈触彩〉が鏡のように映し出す。
“――ああ、大して難しい技術じゃない。ただ、当然の副作用が待っているだけさ”
人間の手に余る膂力の触手が一時に空気の流れへと潰える光景を、正面の荒野を、遥か遠い森とを同時に視る。
身体の周囲から地平線までの距離を、万色の虹彩が渦巻くかのようだった。
竜術による魔法陣などない。ただ雲のような流れだけを知覚する。
五指に余るだけの方向を同時に理解していく中で、方向の概念が意味を失いつつある。
全ての感覚を統合して処理する中で、人間としての視覚は意味をなくした。
「……っふ」
自らの眼窩に安置されたディイの片目だけが、異様な存在感を主張し始める。触覚が視覚と交合するような錯覚。
“――きっと、戻れなかろうよ”
脳裏に響く声が、少し大きくなった。
“分かってるのか? また俺に捕まるか? 自分が自信過剰だって自覚はしてるのか?”
「いいや」
言葉を落とした。
「どうにかなるよ、ヒルト」
彼の名前が懐かしかった。彼がどんな人物だったのかは、既に思い出せないにしろ。
そしてディイを探して歩く中で、野犬がアリスに近づいてきた。
この中で動物が生き延びるほど成長しているならば、渦竜や懐かしき地竜のように、わざわざ自分を取り込もうとせずともいいと思う。
だが人間らしい苛立ちも一瞬だ。単に進路がぶつかるという理由と、理由もなく再度やって来た懐かしさのために、アリスも野犬の元に歩いていく。
「――ひぅ」
何も考えずに近づいたら、距離がなくなるまでには何秒もかからない。
犬を視界に収めきれなくなったと認めた瞬間、それは勢い良くアリスを押し倒し、喉元に食らいついている。
退化した肺が圧迫され、喉から高圧の空気が吐き出された。
しかし、そのまま喉に穴を開けられても、痛みがある筈はない。
〈触彩〉を小指の幅ほど裂かれても、何ほどの事ではない。
唯一〈触彩〉に覆われていなかった部位である頭部は、機に乗じて襲ってきた触手に小突かれた。
――頭蓋が軽く歪むほどの衝撃も、今は本当に小突かれた程度にしか感じない。
「……よいしょ、っと」
だから触手を消し飛ばした後、犬の方はそのままで立ち上がった。
こうしてみると案外犬は小柄だ。それなのに牙の力は貪欲で、ばたばたと足を揺らしつつも離れない。
こぶこぶと喉元から音を鳴らし、アリスは人間を越えた量の血を垂らして歩く。
そのうちに彼の動きが変わった。いつまで経っても死なない獲物を、変種の肉を積んだ二輪車だとでも思ったのか、〈触彩〉と皮膚の隙間に潜り込んでくる。
アリスは歩き続ける。彼の牙が腹部に食い込むのも、やがて変形した内臓を探り当てるのも、予想内の結果だった。
驚いたのはたかが頭蓋が軽く歪んでしまうだけの衝撃で、 という概念を忘れてしまった自分の方だ。
人間ならば は避けなければいけないはずなのに、今現在腹腔を巡る生暖かい息の、何が良くないのか分からない。
未だ蠢き続ける我竜に取り込まれるのは、存在の消滅を意味する。
それだけを避けつつ、ディイを目指して歩く。
まといつく犬が満腹するのはいつだろうと思いつつも、各種の内臓は食われる端から再生するに任せた。
そして格別大きな歯のついた触手を、目視した瞬間に切り飛ばしてやる。今や単調にすら思える行程、気付いた時には父親を37回殺していた。
ただ荒野から森の中に足を踏み入れた時、アリスは自分がそれほど苦しんでいない事に気付いた。
心臓に仕込んだ水晶の感触が、何事かを主張して揺れている。
切り飛ばされた触手が地響きを起こすと、小さな犬は泣くような声をあげ、アリスの懐で身をすくめた。
森の中に入った時に敵と樹木の区別はなくなっている。我竜との延々と続く競り合いのうち、懐かしい誰かと踊っているような気分になった。
愉しむ者が自分しかいないと言うのに、土と混じり熟れた葉はとてもいい香りがする。
――ああ、生きている。
今なら分かる。竜が幸福を感じるとしたら、それはこんな時だけだ。
それを理解できるほどに変貌した自分が、少しだけ哀しい。
竜と人間の中間で、今はまだ人間を心がけて、アリスは歩き続ける。
そうして彼女の旅は、90日の間続いた。
ディイは眠りたかった。
5年近くにも及んだ我竜との戦いが、ようやく終わりを迎えたからだ。
自らの身体が我竜の身体の中から出た事すら数ヶ月ぶりだった。
容赦も呵責もなくディイを養分扱いする意志に対して、竜術は使えず肉体術はさして役に立たず、アリスとの小さな約束だけで対抗する。
実際のところ狂っていなければ成し遂げられない所業だったし、ディイは確かに自分が狂っていると思う。
何しろ、今更になってアリスの幻影が眼に見える。
足と地面が触れ合う感触を確かめていたら、更に突拍子もない事に、周囲の地面は残らず石畳に変わっていた。
周囲には切り飛ばされ、焼かれ、水に変えられ、千切られ、石化し、つまるところ皆殺しにされた竜の器官の群れ。
殺されたのは触手だけではない。蜘蛛の巣に酷似した網、巨大な口、千万の指、樹木型の圧搾器――その他自重で崩壊しない限りの大きさと重さを持ったあらゆるモノが、人間のいないこの竜に地所を形作っている。
ごく単純に、生きた器官を圧迫する死んだ器官の重みから、我竜は行動を封じられていた。
そんな中一歩を踏み締める。
ふたりきりの城砦を歩み、ディイはアリスと対面する。
「ひどいな」
再会の言葉は、そんなものだった。
「少し、遅れすぎだ」
泣き笑いでディイは言う。
そして彼女の表情は、もしかしたら困ったような笑顔のつもりだったのかもしれない。
彼女の姿は、もしかしたらもう少し前までは人間の形を保っていたのかもしれない。
「……アリス」
彼女は何も喋らなかった。ただディイの言葉にほんの少しだけ表情を動かした後、前のめりに石畳に散らばった。
静かになる。ひどく傷付いたアリスの形は、死体に見えるほど整ってはいなかった。
全身が羽毛のような植物の根のような細い糸に覆われている。
1秒のためらいもなく、ディイはそんなアリスを両手で抱えあげた。
そうするとアリスの身体は元からそうであったかのように蕩けて、ディイの腕から落ちていく。
竜に還っていく。
「ああ」
ようやくディイは思い知った。
彼女はこれ以上ないくらいに、あるいは我竜よりもなお、その心が砕けている。
約束は果したと言うのに。
それなのにディイが哀しそうな息を漏らしたから、アリスの心はほんの少しだけ踏み止まる。
生きる事に必要なものを探しつつ、身体だけは生き延びると分かっている。何をしても滑り落ちていく。
心臓の中の大切なモノすら、いつの間にかどこかに排出されていた。
それが何か忘れていた。
幼児期の記憶と90日前の記憶と1週間前の記憶を、思い出した瞬間に忘れた。
溶ける。
浮かび上がる過去はふとした瞬間竜に身体を叩き潰されるものばかりで回数は時を追うごとに向上、最後に散らばって見えた数は100を数える。
無意味。目を閉じて休みたい。
脳内では騒音が鳴り響き、それすら音が分かるというありがたみを提供している。
「…………な………………か」
何か。
生き延びるためには何かが必要で。
確か、片目に、片目に――ディイと、何かして、何かじゃなくて、何よりもしたかった事がある筈なのに。
自分自身が持っていた欲求なのに――
――すぐに脳内で連続する、硝子の割れるような音も消えた。
探そうとする手がなくなる。
自我の重みによって自分が崩れ、這いつくばって記憶を探る行為に耐えられない。
ディイの声が消えた。
温かみが消えた。
最後に声もなく叫び、おそらくは身を震わせる。
小さくなってしまった自分の心。
その中に、何よりも大事なものを探した。
身体だけ生きていくよりも、大事な事を探していた。
何も無かった。
終わった。