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第1景
2.主義者ども――11日前
ロビンは6人の護衛を連れていた。
恐らくは最も信頼の置ける者達を、消耗も考えずに連れ回している。
「アリスを放しなさい。今すぐそうすれば、皆殺しにせずに済むわ」
つまり、彼女は本気だと言う事だ。
――6人の男達はそれぞれの武器を油断なく構え、暴発寸前のまま装填された銃弾と化していた。
対してロビンが吸血種と呼んだ者達は、ディイの首の骨を折ったあの少女以外は短剣か素手かで、ろくな得物を持っていない。
「で、こいつを放した場合は、俺達にはどんなご褒美があるんだい?」
けれど短剣の男の口元は、引きつるように笑っている。
「……この事は目をつぶる。バベル卿や警吏達にも――彼らは一旦下がらせたけど、帰ってからもそれなりの報告をするから」
「――信用できない、と言いたいところだが」
「アリスが本気であなた達を焼き殺すために森に火をかけたと思ってるのなら、察しが悪すぎるわ」
斬って捨てるような口調で、ロビンが言い放つ。
「戦おうとするのは勝手だけど。〈水の広塔〉を敵に回して、あなた達が生きていられると本気で思ってる?」
この町と呼んだ穴を見たきり、彼女はそれ以上語らない。
「……結局こいつは何がしたかったんだよ? ロビン、あんたの手駒じゃないのか?」
さあね、といい加減な返事を聞き、短剣の男は苛立たしげに鼻を鳴らした。
けれど少しの間の後、彼は自らの得物でアリスの拘束を断ち切る。
皮膚に刃が当たった瞬間アリスはびくりと震えたが、結局はほんの少し肌をかすめただけで、彼はアリスを無傷で解放した。
「それでだ、お嬢さん――ああいや、アリス」
「え?」
「お前は、まだやる気はあるのか?」
「――――」
沈黙する。
ここで止めると言えば、次は彼らは何をするかわからないのに。
「……やれない。今は、何もできない」
あらゆる可能性を考えても、そんな言葉しか浮かばなかった。
「良い子だ――ま、そういう訳だってさ。帰るぞ、カーレン」
短剣の男はアリスを嘲笑ってから、隣の少女に声をかける。
「……ううん。あたしは、こいつらにまだ用があるから」
「は?」
「は、じゃなくて。兄さんもみんなも、先に帰って」
カーレンと呼ばれた少女の意図を、今は誰も理解できない。
即座に退場したのは霧のように身体を変える魔術を使った男。悩んだ後に穴の奥に消えていったのは翼の男で、結局姿を消さなかったのが少女の兄らしき短剣の男だった。
「姉さん――」
戦時を感じさせるほど緊張した雰囲気がほんの少し緩んだその時に、アリスはロビンに向かっていた。
「――“どうして”とか言ったらハタくわよ。“ありがとう”も“ごめんね”も無し」
行動と共に言いたかった言葉を一太刀で切り捨てられ、アリスが口を中途半端に開けているうちにロビンが続ける。
「あなたがどうしてこんな事をしたのかも、なんとなくだけど分かるつもり。それに対して言いたい事は山ほどあるし、結果的にもこんな事になって――それは詰めを警吏に任せてたら、単に魔術の無駄遣いになってただろうけど――」
そのままだと無限に続きそうだったロビンの口舌は、アリスよりも先に彼女が自ら気付いて止めた。
薄く張り巡らされた沈黙は、あるいは沈み込んだように感じられる。
「ねえ」
薄い沈黙は、少女の声によって破られた。
「あたしはカーレン。あなた、あたし達を殺そうとしたの?」
考えられる限り最悪の自己紹介。
「……ううん。これ以上、人を傷付けるのは止めてほしいって思ってた。
だからそれを聞いてくれるように、脅迫しようと思ってたの」
素直に答えると、カーレンの表情がこわばりを見せる。
「もしかして、あたしの殴った――あれが原因?」
「あれじゃない、ディイ君。あたしの、友達」
――首の骨を折られて、ディイは寂しげな顔をしていたように見えた。
誰にも言えない、言ったら笑われるようなことでも、その思いはまだ消えていない。
「……そんな事のために、どこまで手段を選ばないのよ……」
怯えたような声の中で、でも、とカーレンが呟く。
「でも――そっか。それならあたし達、協力できるかもしれない」
「は?」
アリスの間抜けな声は、短剣の男のものと似ていた。
「ついてきてよ。吸血種の事も、知りたいでしょう?」
カーレンは彼女の兄と目配せをし、既に歩き出していた。
そしてロビンもまた、吸血種達の穴へと躊躇無しに歩き出す。
疑い始めたのはその時だ。
――まだ、何も終わっていないのだろうか?
案内されたのは家だった。地上を遥か下った後に出くわしたのに、なぜか薄明に包まれた町の家だ。
少なくともアリスにはその白い塊を、家としか表現できない。
ところどころガラスの窓がはまり、扉の蝶番には金属が使われたりしながらも、それはほとんどが変形した骨で構成されていた。
もっとも厚さが手で掴める程度、長さがアリスの背丈の2倍程度、幅が壁程度の板状の骨など、この世界のどんな生物も持ってはいないだろうが。
それは間違いなく吸血種独自の魔術の成果だ。建築物としての強度を保ったまま、骨の終端を肉の壁――あるいは地面と呼ぶべきそれと接合させている技術は、芸術的だとすら言えた。
視線を窓を通して彼方に向けると、上の地面には反転した山が見える。
視線を落としてうつむいてしまうと、吐き気を紛らわせない――濃厚過ぎる血臭の中で目を眩ませているのは、アリスだけではないだろう。
部屋の中央の腰程度の高さを持つ磨かれた何か(アリスが椅子らしきものに座らされている事を考えると、これはテーブルなのだろうか?)の上に、なぜか見慣れた形の焜炉が乗っているのが、かえって不気味だった。
――今まで歩いた中、見かけた家と道の数から概算しただけでも、ざっとこの穴には1000人の吸血種が住んでいる。
「……ここ」
ぼそりと呟くと、ロビンが不思議そうな目を向けてくる。
「誰の、家なの?」
そう続けたら、コップ(だろう)から真っ赤な液体をちびちびと飲んでいたカーレンが、自分の顔を指差した。遅れて短剣の男――道すがらカミロと、呟くように名乗った彼もまた、自分の顔を指差す。
つまりこの兄妹の家だと理解して、うなずきを返した。
――多分自分は、一丁前に沈んだ顔をしているのだろうなと、アリスは思う。
「何か聞きたい事とか、ないの?」
少しの間。
アリスは足元に、わずかな揺れを感じた。
微小な音を伴う揺れは地震と言うよりも、遠い花火の残響のようだ。
“彼女”が早く何か言えとばかりに眉根を寄せる。ロビンにしては急ぎがちなその行為をいぶかしく思ったら、アリスに促したのはロビンではなかった。
「あ、その……カーレン、は、それって美味しいの? あたしも精骸をちょっと口に含んだ事はあるけど、物凄く金臭くてすぐに吐いちゃったけど……」
本来聞きたい事――協力? 協力だって!?――からは大幅にずれた質問をしつつ、調子が狂っていると実感する。
「あなた達にとっては精骸と言えば血なの? あたし達には、骨も肉も重要だけれど――ああ、味ね。人間だった時はそれこそすぐに吐いてもおかしくなかったけど、今は大分飲めるようになってきたわ」
「え? ……カーレン、人間だった、の?」
「……あんた、吸血種は全ての竜の真下の地獄から登ってきたとでも思ってたの?」
呆れ顔のカーレンが、咳払いをしてから解説に入る。
「ええと、単純に親の血を継いだヒトは凄く多いけど、兄さんみたいに人間の時から竜の血を好む嗜好があったり、あたしみたいに肉体術――あなたが見たような魔術の適正を得るためだったり、地上で犯罪を犯してここに逃げて来たり、でも他にも様々な事情は……
――ああ、とにかくね。竜の血は肉体を変え、だんだんと人を竜に近くしていく。
それが生活に含まれているかどうかが、人間と吸血種を分ける差だとあたしは思ってる」
彼女は自分の中で考えを整理しながら言葉を綴り、けれど最後は断言した。
――無言のままうなずきを返し、改めて彼女を見る。
服装はまさか骨製ではないが、高級と言う程のものではない。
良く見たら頬はわずかに熱っぽく、口元は強い酒を飲んでいるかのようにゆるんでいた。
肉体術。人間の間では左道術と呼ばれていた。人間の肉体でやっても効果はないも同然で、すぐに廃れたからだ。
――そんな魔術を得るために彼女が何を思い、どんな味を舌に感じて精骸を飲んでいるかは分からない。
ただここまでの道程で、みっつほど分かった事がある。
ひとつ。確実にこの穴は地上と貿易している。〈風の広塔〉以外に所属する権力者の手引きの可能性。
ひとつ。カーレンにカミロ、翼の男、霧の男――そして無数の骨の家に住み、精骸の川で血飲み場を作り、路上で公然と噛み切った唇を交え、誰もが用事のある顔で歩いているこの穴の吸血種達は、あまりにも人間的だった。
魔術に対する自信を、胸に秘めていたはずの誇りを、彼らに踏みにじられたのは、ほんの少し前のことだ。
ロビンに軽蔑された挙句にディイを殺され、自分は人間としても貶められた。そんな妄想じみた思いすら浮かんでくる。
――それでも眼前の吸血種の、垣間見てしまった心を憎めない。
そして、もうひとつ。
「ねえ。ところで三日前の夜の、襲撃の事だけど――」
恐らくは時機を見計らっていたのだろう。そんなロビンの言葉に応じて、アリスが口を開く。
それは本当に稀なことだ。
彼女の言葉を、アリスが故意に遮ろうとするのは。
「私がやらせたの」
「姉さんがやらせたんだよね?」
――くん、と、音を伴って足元が揺れる。
そうして、アリスの心が立ち上がった。
半ば以上は強制的に。