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第2景
 
 ロビンの眼前で地竜パウルは死にかけの傷を開いていた。
〈心臓〉から流れ落ちる滝は精骸の中の精骸、無限に濃縮された狂物だ。
 その中で不死を得たと言わんばかりに増長するバベルの身体を見て、ロビンは闘争心よりも先に吐き気を呼び起こす嫌悪を覚える。
「――えれ――」
 彼女の本能に染み付いているのは、直視という竜術マギの基本だ。
「――帰れっ! 求めもするな焦がれもするな、早く畳んで巣に帰れ――!」
 詠唱の句法を忘れ、その目だけは敢然と開き、全ての源たる滝の逆流を試みる。
 竜術マギ肉体術コンジャリングの半ばに位置する精骸そのものを操る魔術は、間違ってもロビンの最も得意な技などではない。
 だけど絶対に必要な魔術を土壇場で成功させられない魔術師など、この世に存在する価値もない。
 ――重い。血の滝の圧力を物理的に感じ、ロビンの脳髄が嫌な音をたてた。
 続ければ酷い事になる・・・・・・・・・・。頭の中の冷えた部分は、そう冷酷に告げてくる。
「は――か……っ!」
 数年ぶりに血を吐き、4秒で滝を〈心臓〉の中に押し戻した。
 そのまま穴の周りの肉を蠢かせて〈心臓〉を塞ぐ。包帯以下の応急処置だが、これ以上の事をしようとすればロビン自身が確実に死んでしまう。
 塵ほどに生じた余裕をもってバベルを見やる。
 竜の血を摂取する事によって人間の身体が竜に近付くならば、血の濃度が極限を越えた人間は竜そのものになる。
 その理屈は分かる。無限の体力と生命力を誇る骸でない精気の塊という生物像も、想像はできる。
 そしてバベルはディイの左腕・・に串刺しにされていた。
 フォークのように異形した腕。ディイが本気で肉体術コンジャリングを使ったならば刃物などは不要だろうが、どうやら未だ抱える〈攻城者〉は、とことんまで温存するつもりらしい。
 竜だろうが何だろうが人間大の生物ならば即座に汚濁と潰してしまえる兵器を持っているならば、温存したくもなるだろうが。
 そう――今のたうっているバベルが、ただの不死身・・・・・・ならば恐れるまでもない。再生する端から轢き潰し解体し殺し続け、終いにはどこかに閉じ込めれば良い。
 無限の体力による無限の竜術マギと未知数の肉体術コンジャリングを行使してくるからこそ、今のバベルは怪物として恐れられるだけの資質を持つ。
「目を、あいつの目を潰して――!」
 魔術師ゆえのロビンの言葉は、しかし皆を動かすには遅かった。
 赤い魔法陣の紡がれる速度は花火にも似て目で追いきれない。こぼれ落ちた血流が、まだ焦げていない地面にくが、バベルによって燃え上がる。
「――ぁ」
 カーレンが炎の只中に巻かれた。もし彼女が悲鳴をあげるならば、肺は息と共にたっぷりと炎を吸うだろう。
 魔眼。高速な集中の究極として、バベルは対象を視界に入れただけで竜術マギを行使してくる。
「は――――」
 ロビンは当然のように吐息のみで炎を散らす。閉鎖空間の中で致命的な域に達した熱気は、遠いにくの中に追いやって潰す。
 彼に追いつかなければ皆が死ぬ。
 それだけを一心に自分を殺しかねない頭痛を越え、自分よりも上の魔術師に追いすがった。
 バベルが次の魔術を行使するより先に、カミロが恐るべき精度で彼の片目に投剣を突き立てた。
 そこから先は、確固とした信念に基づく惨劇だ。
 カーレンが声をあげて身体ごと飛び込み、剣先でもう片目を貫いた。
〈水〉の指揮官は凄まじい速度で突撃したかと思うと、槍を強引に振るって両目が生えていた腹・・・・・・・・・を切り放つ。
 人間の大きさを打ち破って増長する身体は兵団が片っ端から切り刻んだ。同士討ちだけは避けるよう全体に短めの武器を使っているとはいえ、ひとりに同時に得物を振るえるのはせいぜいが4人という常識など既に捨てられている。
 バベルの本体から離れた――脳も心臓もどう見ても破壊されているのに、何をもって本体としているのかは分からないが――肉片は、ただの腐った精骸となっていく。
 ディイだけが狂ったほど的確に本体を串刺し、バベルの肉体の行動を防いでいた。
 カーレンが未だ叫びをあげているのは、吸血種としての恐怖からかもしれない。
 それでもロビンの傍を動かない護衛達は、歯を食いしばって戦況を見守る。
 今のバベルは怪物だった。
 腹に手を生やし手に脚を生やすような異形から、人の面影すら保たない脂肪と筋肉の塊に変貌しようとしている。
 長すぎる腕は腕と言うよりも触手だ。もう理性を保っているのかどうかすら分からない――ロビンなら確実に発狂していると、そのくらいしか分からない。
「――なりたかったの!? そんなものに、そんな姿に本当になりたかったの!?」
 数十人がかりで切り刻まれながらも地竜パウルの森に似た増殖を繰り返すバベルに、後方のロビンすらも我知らず叫んでいた。
 ディイが〈攻城者〉を使う素振りを見せる。だがバベルが肉片になっても、それで死ぬと言う訳でもない。
 何度解体してもいずれバベルの視界はどこかに確保され、彼は竜術マギを使うだろう。あるいは肉体術コンジャリングを習得し、人間の予想を越えて行動するだろう。
 ――いや。際限なく増殖する肉体こそが、今のバベルの最強の肉体術コンジャリングだ。
 あるいはいかなる竜術マギよりも強力な。
 鉄で編んだ網くらいは用意しているが、そんなものであいつは到底閉じ込められない。そう確信して、ロビンの唇が言葉を紡ぐ。
「――溶けろ・・・
 立体形の魔法陣が、宿命のようにぴったりとバベルの肉体を包む。
 バベルの肉体は純粋な精骸の塊である。
 精骸の塊であるならば、それを〈水の広塔〉の管理者が無害な水流に変えてしまえない筈がない。
「溶け、ろ――!」
 慣れ親しんだ水の香りと共に、幼児程度の大きさの肉塊が弾けて散った。
 熱で溶けてしまいそうな頭の中でもこの行動は正しいと確信する。後は目に映った場所からそこが肉だろうが骨だろうが片端から純水に変えていこうとしたところでバベルの大腕に誰かが殴り殺されたから声をあげてその腕から溶かして弾いてしぶかせた。
 ――腰の銃が重い。使いもしない形見が、ただ重い。
 脳内は痛みを通り越して、何かが膨らみ張り詰める嫌悪感に満ちていた。
 それでも魔術を止める余地はない。眼を開き、目を逸らさず、決着がつくまで何度でも、

 ロビンの頭の中で、何かが弾けた。

「ア」
 何が起こっているのかが分からない。ただ、酷いことになっている・・・・・・・・・・と思った。
 口が半開きになって止まる。ディイの〈   〉に肉塊が絡みついても、反射的に竜術マギを使用する事ができない。
 光景の一部を記憶と照合できず、ディイの持った〈   〉が何か分からなくなった。
 ――吐血から後、魔術による疲労が奇妙に薄かったのは、単に死神が別のものを要求しているだけの事だったらしい。
 いつの間にかディイの腕が消えてなくなり、肉塊がその腕ごと〈   〉を抱えていた。
 なるほど単純な腕力の勝負ならば、身体が大きい方が有利なはずだ――
「…・・・っ!!」
 近くにいる誰かに頬を殴られた。
 恐らくはクラウス。だが意識を取り戻しても、その目覚めはあまりに遅い。
 礼を言う暇も無い。〈攻城者〉の片割れはとうにその向きを反転し、ディイに向けて突き付けられていた。
 兵団も吸血種の二人も疲れ、視界をわずかに狭め、自己の手の中の殺戮以外に気を向ける余裕がない。
 そしてロビンもまた、間に合わなかった。
「あ――」
 世界が発狂したかのような銃声。兵団の中には確実に耳が潰れた者がいるだろう。
 27の弾丸が肉体に入り込んだ傷よりも、弾丸の全てが体内から脱出しようとする動きが、ディイの身体を打ち砕いていた。
 彼は血煙と化して飛散し、再生する前に消し飛ばされた・・・・・・・――バベルの眼に見込まれ、ディイは風になって消えた。
 片方の眼球と血の飛沫だけが残る。再生の気配は無い。
 ロビンは喘鳴じみた呼吸のみで蒼白の魔法陣を重ね描き、同時に確実に鈍っていく自らの魔術に恐怖する。
 目視が甘くなっている、既に兵団によって本体から切り離された肉塊を水に変えてしまった。
 さりとて戦闘の中で冷静に狙いをつけているような余裕はない。抑え役であるディイを失ったバベルは、人外の怪力を好き勝手に――
「――ゃ」
〈水〉の指揮官が飛んだ。正確に言えば、彼の上半身だけが。
 内臓と脂肪を跳ねさせ、彼は遺言もなく絶命する。
「あ……あ、ああ、っああ……っ!!」
 悲鳴は意識と関連しない。
 その時にロビンは、肉片すらも残さないと決めていた。
 もう声はいらない。そんな余計な体力は使えない、詠唱となる挙動はせいぜいが瞬きだけで良い。
 無数の魔法陣の向こうを目視して、バベルの身体をつ。
 重く湿った音と共に弾け飛ぶバベルの肉体は、まるで大砲の標的だ。
 だがそれでも再生と破壊は均衡し、バベルは振るったで手近な者を吹き飛ばそうとする。
 高い少女の悲鳴。
 剣でその一撃を受けようとした標的は、武器と利き腕を一度に失う事となった。
 ――逃げろ、と近くにいる誰かが叫ぶ。
 だがそんな事はできない。前衛となる〈 〉の兵団が未だ戦ってくれているのに、彼らを見捨てる事なんて無理だ。
「下がれ――カーレンッ!」
    が雄叫びをあげて大槍をバベルに突き立てた。彼の肉体術コンジャリングは既に限界を超え、両腕が腰のように膨れ上がっている。
 カーレンと呼ばれた少女はそれで線が切れたように、右腕を押さえて座り込む。
 良く見たら彼女の腕はありえない形に歪んでいたけれど、死んだ訳でもない離脱者の事まで気にしている余裕は無い。
 だから忘れる。
 彼女の姿を忘れた後に、自己流の魔眼を3度瞬いた。
 バベルが弾ける。自らの作る水と人の血肉を竜の血肉を混ぜ合わせ、それは沼の中でのたうつ蛇の群れのように見えた。
 ――全力を尽くしてその蛇を殺そうとしているのに、今も誰かが頭から蛇に食い殺された。
 誰かも分からない彼は蛇の形たる腕に殴りつけられ、兜ごとその頭を弾けさせている。
 叫びを押し殺して魔眼を更に瞬くと、彼を殴り殺した蛇は赤い泥の仲間になった。
 既に苦痛はない。ただ、頭の中で何かの弾ける音が止まらなかった。
「……逃げて」
 遅すぎる撤退の合図を搾り出す。
「逃げて――みんな逃げてよ! もう良い、もう良いから――」
 ロビンが叫ぶ中で隣の誰か――いや、ヒルトがロビンの腕を掴んだ。
 一緒に逃げろと。頼むから逃げてくれと、そう言わんばかりに。
 振り払う。
 名前を忘れた少女が悲鳴をあげていた。折れた腕まで使って自らに向かうを押し留めている。
「やだ、兄さん……兄さん、ごめ、ごめんなさい――」
 そんな声。数秒で力の均衡は崩れ、彼女は腹を貫かれて死ぬだろう。
 息を吸い、そして吐いた。
「最後くらいは、私が守るから……!!」
 バベルの生成する器官は無数。人を殴る腕としての意味を持ちうるのは、その中で16本。
 その全てを、叫びによって消し飛ばした。
「――――は」
 そして死に向かう。
 人の顔が認識できなくなった。
 目も耳も鼻も器官のひとつとしてしか分からない。目と耳の鼻の並びを、人の記憶と照合できない。
 他人の顔と同じように、自分の顔を忘れた。
 隣にいる味方も人間型の器官のついた塊だ。彼または彼女が何をしたいのか読み取れず、守らなければならない・・・・・・・・・・としか感じられない。
 それでも球状に削られた敵がうごめき、あらゆる器官を再生させようとする瞬間に消していく。
 瞬速の魔術を続け様に6度。頭の中で弾けているものは、きっと脳髄だ。
「……死ぬ、から」
 そして今までの思い出したくなかった記憶が全て脳裏に浮かび上がるのは、きっと自分に相応しい死に際の夢想だろう。
「わたし、人殺しだけど、自分のために何度も何度も悪いことしたけど、負け戦のために人を集めまでしたけど、もう死んで詫びるから――」
〈水の広塔〉の貧民街では、子供が死体の頭を蹴って遊ぶのが常識だった。
 疫病も殺人も生活の一部のような顔をしてやって来て、同じ顔で人の命を奪っていく。
 自分にはそれを食い止める事ができるのだと気付いたのは、きっとアリスに会ってからだ。
「――最後は殺されるから! 人を助けて死ぬから!
 だから最後くらいは、そんな風に死なせてよ……!」
 竜術マギは肉塊を崩れさせて8度。
 アリスの事が好きだった。彼女が笑って過ごせる世界を作りたかった。
 そんな世界はもう二度と来ないのだと気付いても、理想の残骸が魔術の続行を終わらせない。
 ――すまない。
 遠ざかっていく声を聞き、はじめて本当に味方が逃げていったと気付く。
 残りは元から傍にいた4人。
 彼らから何を言われているか理解できない。言葉を理解するにも集中を要するようになってきたから。
 言葉の全てを無視して一歩進み出る。自らの身体を盾にしてでも、彼らもまた逃がさなくてはならない。
 敵が確実な死を意味する腕を振り上げても恐怖はない。
 崩壊する脳内の地獄に賭け、自分はもう終わりだと信じたから。
「だめ」
 だからその声を聞いた時、ありえないと思った。
「姉さんは死なないよ」
 精神の崩れ落ちるさなかその声を認識させたのは、きっと汚れた想いの為せる業だ。
 アリス・パウルがそこにいる。
「――ああ、君は死なない」
 誰かが言った。
「僕が死なないからね」
 剣が、何かを喋っていた。
 敵から剣が生えている。腕を潰されている、目を潰されている、針山にされている、動きを止められている。
 赤い剣の数は数えようがない。編まれ終えた蜘蛛の巣のように、熟れきった木の実が一斉に果実を弾くように、かれは一瞬で光景を変えていた。
 ただひとつだけ残された敵の目と目が合った。
 撃って、とアリスの唇が開きかけるが、それを言わせてはいけないように思う。
 けれど腰には確かに銃がある。なぜかは分からないけど、とても大切な手触りだ。
 ロビンはアリスの言葉よりも早く撃ち、そして意識を失った。
 
 
「彼女を連れて逃げてくれ」
 ディイはアリスに向けてそう言った。
 アリスは反論しようとした。少なくとも、そのはずだ。
「君の事が好きなんだ」
 それで、何も言えなくなった。
 彼に背を向けてからは一瞬だ。
 魔術師の庇護を失ったディイは、残らずバベルに分解されている。
 
 
 そうしてロビンとアリスは、お互いが命だけを保ったままで逃げ出した。
 今はバベルだけが〈穴〉にいる。
 人間の姿形。信じがたい事にあの戦いを経てなお、彼は未だ理性を保っていた。
「さて」
 呟いて歩き出す。
 今度こそ、地竜パウルの心臓に向かって。
 足元には水晶の欠片が落ちていた。だがそれが誰がどこで落としたものか、ましてやそれを踏み砕いたかどうかなど、バベルが気にするはずもない。
 歩く。
 ――人間は竜となり得る。
 跳ぶ。
 ――急激な肉体の変化は、人間の精神に異常を起こさせる。
 辿り着く。
 ――心臓に穴を開けられてさえ、地竜パウルは自ら抵抗をしなかった。
「良い子だ」
 バベルは紛れなく地竜パウルに向けてささやいた。
「良い子だから、もう君は死んで良い」
 
 そうして地竜パウルは自殺した。
 バベルはその幇助を行ったにすぎない。
 
 
 敗北は世界の滅びの中でやってくる。