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最終話


「――――うそ」
 アリスは、戦慄していた。
 ディイが負傷を負ったのは、バベルの攻撃から自分を庇ったせいだ。
 自分を殺しかけた触手自体を視線に対する盾にし、猛烈な速度でディイはその場から離脱していた――否、本能的な反撃は覚悟の上で、自分から地面の肉を引き込む事で、視線に対する盾を作っていたのだ。
 バベルの竜術マギにより、アリスとふたりまとめて消し飛ばされないように。
「6年経ったはずだよ? 6年を竜の姿のまま過ごした後に、今更そんな姿になれる・・・なんて……」
「私には、永遠に続く目的があった」
 それだけだと。
 人の姿を取って父が言う。
 ――瞳孔の男が、そこに。
 その瞳を覚えている。その言葉を覚えている、その魔術を覚えている――その全てが借り物の記憶でも、記憶に基づいた緊張は本物だ。
 それでもアリスの中の死体・・・の、決して聞き取れないほど小さな囁きが、心を乱してたまらない。
「……目的のための手段は、なに?」
「国を作る」
「どんな国を」
「過去の国を」
「どんな国に」
「幸福な国に」
 震え。
「……う様は……」
 その呼び名を、口に出せない。
「……おまえは、国を創作つくるの? ディイが私にしたのと同じように、世界全てを丸ごと――」
「初期状態を作るだけだ。
 なに、どうせ未来はある」
 冗談じみた台詞の中で、少しも語調を緩めず。
 ――あの人が、私のお父様だ。
 その想いを轢き潰してアリスは呻く。
「……おまえが、憎くなった」
「そうか」
 眉すらもあげない。
 6年の歳月を経て、バベルはただ純化されていた。
 そんな中カーレンが、いつしか布の結ばれた中で露出した口元を引き結んでいた。
「――ここは? 〈新天地〉は……いえ、この世界はどうなるの?」
「消える」
 誰も笑わなかった。
 全ての竜は竜により滅びうるものだと、皆がとうの昔に知っている。
 ――アリスの背後、〈新天地〉の町の更に後方から、ざわざわと音がしていた。
「〈王国〉と名付けた」
 その単語は、たとえば〈触彩〉と同じように肉体術コンジャリングの響きを響かせる。
 今更効果の説明など受けるまでもない。
 それは竜骸だろう、それは増殖するだろう。
 人間を取りこみ、動物を植物を竜を飲み込んで、全てを作り変えるだろう。
 そしてそれが、〈新天地〉――あるいは〈月の棺〉の町から渦竜ノアへと延びる、〈月の長牙〉の最中に位置しているなら。
 
 ――ああ、足音がするというのに。
 私はその足音が知りもしないのに懐かしく、想えもしないのに好いている。
 決して殺してはいけない人達が、ようやく来てくれるのに。
 
「……ちょうど、ディイが呼び寄せた数万人・・・と、ぶつかる」
 エイダがうめくように言葉を絞っても、アリスは視線を動かせない。
 6年を眠りながら世界の竜術マギの極みに達したとしても、全くおかしくない男が目の前にいた。
 バベルが動けば、その瞬間アリスは消し飛ばされる。
 アリスが動けば、その瞬間バベルは消し飛ぶ――アリスの竜術マギ次第で、彼の人の姿をした部分だけは。
「――あたしには夢があるんだ」
 だと言うのに、沈黙と静止の時間は長くない。
「ここに町じゃなくて国を作る。国民は大半が地竜パウル移民――そして、国王は渦竜ノアの傀儡」
 それはあまりにも堂々と。
 心底から愉しそうに言うものだから、誰も口を挟めない。
「お互い離れて頭を冷やせば、いつかいつか紛争も止むだろう。
 国が作られるべき場には資源も土地も豊富にある。貿易でたっぷり絞らせてもらおう。
 そして国王は能力や冷静さを云々するより、人を惹きつける華がある方がいい。
 そんな王に、まだまだ若い奴がなったとしたらさ。
 宮廷の裏の裏では、屈辱にむせび泣く傀儡ちゃんの頭でも撫でてやろうじゃないか」
 老婆は人懐っこく笑う。
 その笑みこそが、宣戦の布告だ。
「――地竜パウル移民としては、今のうちにこいつを殺しておくべきな気もするが」
 エイダを横目で見つつカミロが言う。
「だが今は却下だ。婆さん、あんたも人を使わずに戦えるな?」
「応よ」
「それじゃ婆をいじめるのは、爺を叩き殺してからの楽しみとしておこう――良いな、カーレン?」
「……うん」
 共闘の合図を受け、カーレンがかすかにうなずく。
「あたしは、兄さんの相棒だ」
 その声は高く、その声は削れて。
 ただ彼女の瞳だけが熱を持つ。
 アリスは自らが言うべき言葉を考える。
 そうすると言うべき言葉は何も無いと、すぐに結論が出た。
 ――代わりに、アリスは息を吸った。
「ディイーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
 そうして言いたい事だけを叫ぶ。
「おまえふざけてるの!? 仮にもあたしの事が好きなんでしょ!? 普通あたしが反応する前にひとりで逃げる!?」
 届け。
 たとえ届かなくても、あいつだけは聞かなきゃ許さない。
「たったひとりで、〈王国〉のとこまで……私に、何も言わせないうちに……!」
 冷静になれない。
 あいつの事だけじゃない想いが渦巻く中、息をついて、喋り続ける。
「――わたし、みんなが好きだ」
 その心根が、過去からずっと続いてきたものかどうかは分からない。
 それでも、みんなはみんなだ。
 自ら触れ合ったのはたったの数分でも、今傍にいてくれる3人が好きだ。
 彼らをバベルの竜術マギから自分が守っていると思うのは、決して悪い気分ではない。
「でも、おまえなんか嫌いだ」
 自分を殺しながら救い、放っておきながら待っていた男の事なんて、大嫌いだ。
「――だから、ちょっとディイを殴ってくるから、どいて」
 眼前のバベルに言う。
 そうして我竜バベルならぬバベルは微笑んだ。
 いつか見た含羞はにかみとは違う、感情の無い笑み。
 すぐそばに恋人がいるくせに孤独で、その孤独故に完璧な笑み。
 昔は胸に秘めた想いにより、今はただの日常の一環として、バベルは世界を滅ぼそうとしている。
 
 
 ――ただ一瞬、それだけで済む。
 まるで銃の早撃ちを競う決闘のように、アリスはバベルと睨み合う。
 アリスは、弱い。
 いつまでも強い心ではいられないただの少女だったというのに、今では強くなければ生きていけないただの女になってしまった。
 けれどそれでも、一瞬の強さをその身に誓う事は、不可能ではない。
 魔術にかけるべきは一瞬だ。
 その一瞬だけ父の完璧をまね、道理を越えてみせよう。
 動くべきはいつでもいい。
 気圧されるな。
 合わせるな。動く時は自分で決めろ。
 突き進んででも生き残れ。
 戦え。
 ――――今。
 
「さらばだ」
 
 彼女が魔法陣をあらわした次の瞬間、アリスの肉体は消えていた。
 全身が赤黒い液体になって落ちていく。
 バベルには傷ひとつない。
 
 
 ディイの目から見た〈王国〉は、寝転がった赤子の姿をしていた。
 頭がある。それに繋がった胴がある。溶けているとはいえ、四肢に似たものすら見て取れる。
 それでも眼球は無い。周りに妙な風も吹いていない以上、これは竜術ではなく肉体術コンジャリングに専心した物体なのだと信じる。
 頭部の中の脳で〈王国〉は、理想の過去に基づいた国について考えを巡らせているのだろうか。
 ただ、大きさだけが人間と比べるのも馬鹿らしい。
 どんな不死種の渾身の竜術マギでも奪いきれない、それは限りなく竜に近い竜骸だった。
 草を食い樹を食い人を食って膨れ続ける幼児形塊。それを殺す事を目的とし、ディイは〈新天地〉の町を駆け抜けていく。
 ――辿り着いたら、その後はどうする?
 
 答えは決まっている。
 一撃で倒す。
 
 
 アリスの身体が溶け落ちた一瞬後、エイダの竜術マギが炸裂する。
 バベルの眼球から頭部が弾けた。それに合わせ、カミロとカーレンがつがいの豹の速度で飛びかかる。
 そしてバベルの顔面が弾ける瞬間、彼はこう呟いていた。
 ――なぜ、と。
 アリスの形をしていた赤黒い液体が、地面に落ちても広がらない。
 アリスは純精骸の塊となっていた状態から、一瞬で人間の形を取り戻す。
「敵を消し飛ばすより! 自分を・・・溶かす方が、早いに決まってるでしょうッ!」
 叫んだ。
〈触彩〉を使っていようがなんだろうが、一瞬前まで人間の形を保っていた者が溶けた時、それに同じく視界を合わせ続ける事などできる訳がない。
 ならばバベルの攻撃は間違いなく失敗する。するべき事は、耐える事だけだ。
 身体と共に精神が溶け落ちる虚無に、一瞬の間だけ。
 ――カミロの笑顔が見えた。
 こうして戦えるのが、楽しくてたまらないとばかりに。
吸血種コンジャラー……!」
 バベルの肉体術コンジャリングもまた神速だった。
 迫り来る吸血種ふたりを秒間のうちに殺戮することのみを考え、足から先の構造を変え、いつか見た触手へと変じていく。
 すぐに人間大の腕をした巨人の打撲に等しい衝撃が、ふたりを平等に襲うだろう。
「……は」
 襲ったと言うのに。
 次の瞬間、バベルの一撃は、身体ごとふたりに受け止められて・・・・・・いた。
 打撃されながら飛び退く事で衝撃を軽減させながら、カミロは口の端から吐血を漏らしながらも、確かに一本の触手と化したバベルはふたりに捕獲されている。
「――吸血種コンジャラーじゃない」
 カミロが笑う。
 カーレンが笑わないまま、触手の更に増殖しようとしている部分を打ち払う。
吸血鬼ヴァンパイアだ」
 瀉血。そうとしか見えなかった。
 バベルを襲うカミロの手刀は、石斧の鈍さと重さで触手の表面を引き裂いた。
 そしてエイダが協力し、激流の速度でもって傷口から精骸を排出させていく。
 たかだが人間大にまで縮まってしまった不死種の、増殖の速度よりも早く。
「さあ、我が手に……ぐッ、従、え……!」
 彼女の灰白色の魔法陣と、苦しげな詠唱。なぜかひどく懐かしかった。
 新たな身体部位を作っての反撃はカーレンがさせない。だんだんと小さくなっていくバベル。未熟な不死種の竜術マギによって滅ぼせる大きさに近づいていくバベル。
 ――そうして、アリスの出番がやってくる。
 
 
 ディイは〈王国〉に程近い場所に立ち、肉体術コンジャリングを開始していた。
 目の前に迫ってくる〈王国〉。現実感をなくすほどの大きさ。
 ――ディイより少しだけ遠い場所から、舐めるなよと誰かが言った。
 背後から来たる数万人は、逃げ帰りもせずに歩いてくる。
〈王国〉の増殖がここに達するまで時間がない。
 接敵されれば対処法などはない。弱い化物は、より強い化物に蹂躙されて捕食される。
 ――しゃがみこみ、足元の石の道に手をあてた。
〈月の長牙〉。ディイを救う行程でアリスの作った石の道は、今では馬車が通るための
 それはそれでいいと思っていた。
「……ごめんな」
 誰に謝ったのかは分からない。
 軽い音を立てて、靴のすぐ下の石が砕けた。案外舗装は薄く、すぐに下の地面が露出される
 続けて手の下の石が、更にディイの靴が破れ、両足から下の大地にくと融合していく。
 彼は大樹の如く成長する。
 
 
 そして人間の形をしていたバベルが、未だ竜たる我竜バベルと融合しようとしたのは、当然の事だったろう。
 何しろ今までの劣勢は、全てが単純に身体の大きさに由来する。
 身体が人間の形から外れれば外れるほど竜術マギは使いにくくなる。それもアリスは経験則として知っているが、こうなれば巨大な身体を利して暴力を振るうしか道は無い。
 ――そして、そうなれば、またあの時の地獄がやってくる。
「……っ!」
 びちびちと跳ねて捕獲を抜ける。
 跳ねたまま重力に従って、すぐそこの我竜バベルが晒した生肉まで――
「…………ばか」
 停止。
 小さく明晰な者が支配するのではなく。
 バベルは、自分より大きくて貪欲な我竜バベルに反発され、排出されていた。
「まだ、自分と足元の竜が、同じ事を考えてるって思ってたなんて」
 応えはない。
「それとも、分かってたの? 分かっててもなお、どうしようもなかったの?」
 反撃も無い。
「――今なら分かる。人間の形をしたバベルが生まれた、本当の理由」
 アリスはただ語り続ける。
「より強く生きる本体は竜の形の方で、人間の形の方は、不要になった部分が自然に追い出されただけだ。
 余計な事を考える部分がに出れば、本体は幸せに生きていけるから」
 違う事を考えていたとしても、バベルと我竜バベルがやはり同じ生命体の違う部位なのだとしたら、アリス達とバベルは、双方が共に勝利している。
「弾かれたのも当たり前だよ。意志力の勝負になれば、わずかかもしれないけど、本体の方が強いに決まってる」
 人間の形をしたバベルだけを切り捨てる事で、皆が勝利する――本当に、過去から現在を通して、彼はずっと完璧だった。
 何も無い。
 この状況に、皮肉すらも感じない。
「あなたは、ただの排出された脳だ」
 語る事だけを止められない。
「あなたは、たった今埋葬されるべき思い出だ」
 埋葬するべきが誰かは、自然に理解できた。
「あなたは眠りたかっただけだ。
 あなたは、ただ――」
 少しだけ、沈黙する。
 目の前にいるのは、子犬程度の大きさの赤黒い塊だった。
 もはや竜術マギを謳う事も、肉体術コンジャリングを練る事もせず、ただ弱々しくうごめいている。
 そうしてアリスは最後の武器を見出した。
 打ち砕かれ滅んだ娘が、滅びの向こうに見出した武器。
 その後紛れなき死の危険の中で、実の父から受け取った贈り物。
「……ねえ、お父様」

 殺意だ。
 
 
 ディイは魔剣を振るうために、自らの身体を変えていた。
 筋肉を増加させる肉体術コンジャリングは一般的だが、一般と今の規模は全く異なる。
 我竜バベルの肉を無理矢理に借用し、身体の構造を変えるどころか地面から上のひとがたを付属品にしてまで、延々と筋力を拡張し続ける。
「――――」
 そして〈王国〉を睨む。
 ついに、あれと数万人の歩く民がぶつかった。
 彼らが蝗の群れにしか見えないほど、あれの欠伸のような呼吸によって鼓膜が破れる者がいるほど、〈王国〉は大きい。
 それでもディイは魔剣を鍛える。
 通常の剣ではない。
 骨子となるのは、延々と長い石塊たる〈月の長牙〉そのものだ。
 それを人間が運動する際の腰にあたる地下成長部の筋肉でもって引き裂き、自重で折れないよう精骸の加工品でくるんでいく。
 組成に肉が多すぎて硬度を失えば竜術マギによって精骸を石に変え、あるいは骨と肉のみでやりくりをし、それは獲物を叩き潰すための武器として完成する。
 ――もし本当に竜に牙があるとすれば、それはこんなにもながくなるのだろうか。
 そんな訳がない。
 
 その剣の長さは、渦竜ノアの長さの半分ほどだ。
 
 たった今、そうなった。
「……っ!!」
 足から下、地面の遥か下に力を込める。
 ぶちぶちと竜とディイの境界が裂ける音を、槍のように輪転する筋肉の音を聞き、更に更に全ての肉体を収束させなければ振るえない。
 なんとしてもそうせねばならない。〈王国〉が斬られた後、負傷した怪物の処刑は後ろの群勢がしてくれるだろう。
 ――舐めるなよ、と声が聞こえる。
 あるいは決して、と。
「……人間を、舐めるなあッ!」
〈王国〉から襲いくる触手を、ヒルトが迎撃していた。
 義肢で。
 腰をひねり、胴を震わせ、金属塊たる右腕の一撃で叩き落した。
 それだけで攻撃じみた踏み込みの衝撃は、竜の肉に吸収されずディイにまで伝わってくる。
「大丈夫だ、必ず守る! 泣くな、泣くなよ――今、アリスに会わせてやるから……!」
 そしてディイの背後から吹き付ける風は、一秒ごとに〈王国〉の身体を削り取っていた。
 数万人の意志がそうさせる。
 還りたいと。あるいは、求めたいと。
 砂として、あるいは水として風として、数万人の魔術が〈王国〉を吹き飛ばしていく。
 ――ああ、昇る雨じゃなくて、昇る雪だったか。
 だからディイさえ成功すれば、この戦いに勝利できる。
 弱った化物に、元気な化物をぶつけた時、何が起きるかは決定している。
 それは蹂躙だ。
 
 
「お父様はただ、お母様と幸せになりたかっただけだよ」
 それは宣告だった。
 ――ゆりかごはここにあるからと、知らない言葉が口から漏れる。
 
 
「僕は期待する」
 それは誓いだった。
「どこまでも恋人に、世界に、期待した上で、今こそあなたを越えていく」
 全ての力を収束させ、竜殺しの剣が引き抜かれる。


 離れていても、今だけは気持ちが通じ合う。
 
 故にその言葉は、完全性を得て同時に。
 

「終われ」
 
 
 


 
 そうなった。