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最終景
 
 回想は4年前から。
 渦竜ノアの地に辿り着いた時、アリスはまだロビンの手を取って歩いていた。
 折れた右肩と左手の彼女で両手が塞がろうが、黙して語らず動きもせず頭蓋の中からは液体の跳ねる音がしていようが、彼女以外にアリスが持てるものなど何もない。
 そして最も近い町までは歩いて半日。あの峻別の中で体力の尽きた者には辿り着けない距離。
 ――この場にいる全員が自分以外の人間を殺して食う事を考えた、とアリスは思う。
 しかし殺し合いは起きず、代わりにぼそぼそと散発的に、短く情報の交換だけがなされる。
 あの状況でもわずかに残った水と食料は、全てが驚くほど公平に配分された。
 地竜パウル移民の生き残りは、“昇る雨”による史上最悪の連帯感を共有している。この地に20万人は生きて辿り着いたという事が、アリスにはどうしても信じられない。
「持っていくのか?」
 誰かがロビンを示し、ぞんざいな口調でアリスに聞いた。
「持って行くんじゃない。安心して休める場所まで、連れて行くの」
 ぞんざいに返す。もうこの生き物達を指揮できるような人間はいないし、この瀕死の連帯感の中ではそんな者は必要ない――あるいは単にアリスの顔が血まみれすぎて、彼女が今まで大勢を指揮していたのだと分からなかっただけかもしれないが。
 ――行き先の決まりきった、蟻の群れに似ている。
〈石舟〉と名付けられた最も近い町を皆で目指した。
 その先に幸福な生活など待っていない事は、アリスも漠然と理解している。
 ただ左目の鈍い痛みだけが止まらない。
 
 
 そうして〈石舟〉は移民達に攻め滅ぼされた。
 ノエルは〈石舟〉の住人にはこの町に来る移民の数は数百人程度だと、移民達には〈石船〉は快く皆を受け入れてくれると吹き込み、勿論それは愉快なほどに実情と食い違っていた。
 けれど彼に騙されたのだと理解しても、アリスの心に怒りは湧いてこない。
 ノエルが正直に振る舞ったのならば――つまり渦竜ノアに移民を受け入れる余裕はどこにもないと諦めたのならば、アリスはとうに死んでいるのだから。
「――止めたのに」
 アリスはうつろな表情で、町に転がる瓦礫に背を預けている。
 それは確か
「カミロ……あたし、みんなを止めたよ」
 目の前にいるのは吸血種の男だ。
「――ああ、俺も手伝ったよ」
「説得したんだよ。何も略奪までしなくても生きていけるって、地面の肉・・・・はあたしも食べた事があるって、飲み水だって地面に染みてる精骸から――」
「そうだな。野獣同然に地面をかじってでも、本当にこの町から出ていくべきだったのかもしれない」
「……もう止められないって分かったら、〈石船〉の人達が逃げる手伝いまでした」
「一部には裏切り者呼ばわりされたな」
「この町だってみんなを養いきれるわけじゃないんだ。違う村に向けて同じ事を繰り返していったりしたら、それって内戦と同じだよ……」
「アリス」
 その声でアリスが止まる。
「お前が裏切り者なのは敵側に与したからじゃなくて、武器を取るべき時に逃げ出したからだよ」
 アリスの思考を止めるカミロの言葉は、とても優しく響いた。 
「昨日はどこの誰が住んでいた家に泊まった? 地竜パウルの移民達が急ごしらえの鈍器と血に錆びた剣で、渦竜ノアの住人が農具と棍棒で殺しあっている最中に、お前は一体何をしていたんだ?」
 沈黙。
「――は」
 アリスは地面に滑り落ち、笑うような音を喉の奥から響かせた。
「……逃げてたんだよ、怖いから」
 自らの額を手で押さえ、笑うように泣くようにアリスが言葉を搾り出す。
「でも、それって悪い事なの? あたしに何ができたって言うの、自分にできる事だけはしたつもりなのに、ねえ――」
 カミロは戦いに傷付いた肩をわずかに落として、
「怯えながら言ってんじゃねえよ。……それで? これからは、どうするんだ?」
「みんなバラバラになって、できるだけ多くの町に離散する。それしかないと思う」
「俺はお前の事を聞いたんだが――」
「――だからあたしは、嫌でもそうなるって言ってるの」
 そう聞くと、彼は口元を上側に歪めた。
「そうだな。これが内戦なら、殴られた相手は殴り返してくるよな――
 だが、あんたはその時も逃げるのかい?」
 アリスはわずかに息を吸う。まるでまともな人間のように緊張して。
「今度は逃げさせる。全員」
 それで終わった。
「――兄さん」
 横合いからカーレンがささやき、カミロの手を握り締める。
「……そうだな、カーレン。俺達もできるだけ早く、別の大きな町に潜り込むべきだ」
 それで会話が通じている。
 彼女には顔がい。それほどまでに酷く傷付いていたのにアリスは、ほんの少しだけカーレンの事が羨ましくなった。
 
 
「――で、身内に石投げられて追い出された訳だ」
〈石船〉での会話から約3日。
 アリスは荒野に生暖かく広がる肉塊になりかけていたところを、〈展望〉の町の女に救われた。
「……あたしが逃げた後に散発的で個人的な移住が起きてるみたいですね。投げられ損だったかもしれません」
 ふたりが話しているのは、女――エマの家の寝室だ。アリスの右肩には簡易ながらも添え木と包帯で処置がなされ、腐りかけていた傷口は酒で灼かれている。
 アリスの説得は失敗し、渦竜ノアからの反撃という予想すら外れた。それは軍備が整えられるまでの時間の問題で、〈石舟〉の面積では移民の全てを養いきれないのは事実にせよ、またもひとりで逃げ出した事には違いない。
 ――肩に銃創、腕に噛み傷、額に石を投げられた痣、背中に裂傷、そして左目の痛みは徐々に徐々に強まっている。
 だからこそ他人に傷を癒される事は、一生の思い出になりかねない。
「……エマさん、本当にありがとう。すぐにお金を作ってお礼を――い、いたたっ」
「ゆっくりしろってば。まだまだ右肩は絶賛骨折中なのに、一体何の仕事をするつもりだい?」
 呆れたようにベッドへ言葉を落としたかと思うと、エマは思案げな顔をする。
「もともと気紛れで助けたんだ。まぁ――私も私でいつまでも娘を養ってるような余裕はないけど、あと3ヶ月くらいは面倒見てやるからさ。
 ……ロビン、だっけ? あの子の事も、なんとかするから」
「ごめんなさい、お言葉に甘えます」
 言いつつもひとときのためらいを見せ、アリスが表情に影を落とす。
「でも、姉さんの事だけは……あたしが、自分で……」
「――それはそれでいいさ、あんたの好きにしなよ」
 冷たくもなく自然に、彼女は言葉でアリスを助けていた。
「……エマさんは、優しいですね」
「気紛れついでに恩を売ってるのさ。これでものし上がりそうな人間には目敏いつもりでね」
 それは勘違いだと返しかけたアリスに、エマは片目をつぶってみせる。
「――ねえ、なんとかしてのし上がってよ。あたしに楽をさせてくれ」
 アリスはエマの立場と素性を知らない。今は安酒場の女主人らしいが、昔は何をやっていたかなど聞きたくもない。
 ただその言葉には、少しだけ心を動かされた。
 
 
 エマは本当に3ヶ月ぴったりで失踪し、アリスの肩もその頃にはぎこちなく動かせる程度に回復していた。
 そしてその頃、〈石船〉の町は見事に渦竜ノアに奪い返されている。
「――投げられ損、か」
 アリスは墓守のいなくなった墓場を見ていた。疫病への対策のため焼かれてから骨を埋められていた筈のその場所は、今や単なる死体ゴミ捨て場と変わらなくなっている。
 彼女の住む〈展望〉の町には――門番の移民に対する厳しさは尋常ではないというのに、それでも大量の移民が落ち延びてきていた。
 戦いに敗北し、それでも命が有るならば逃げるしかない。あるいは荒野か森に、あるいは都市の中に。
 足音を聞き、アリスは身に付けていたフードを顔を隠すまで被り直した。裏通りに小汚い娘が歩いていれば、それだけで尋問・・の対象になるからだ。
「……う、あ」
 頭が痛い。今までは左目だけだったのに、唐突に理不尽なくらいに痛みだす。
“何人死んだ?”
“何人見殺しにした?”
 心中の声に反論などない。代わりに頭痛によって打ち消そうとするのが、無意識の心の働きだ。
「う、うう……ぁ、いや、いた、い――」
 何にしろ、その相克はアリスには耐え切れない。
 ぶつぶつと呟きながら、よろめいて路地を歩く。
「あ――そう、そうだ。おしごとしないと、あたし、死んじゃう、死んじゃうから」
 そんな事に精神を逃避させようとするアリスは、今の自分に相応しい仕事が何かをさして考えていない。
 彼女はただ歩き続ける。
 自分が救われる事を願って。身体が傷付き、心が汚れてしまっても、いつかどうにかして人を救おうとする心を取り戻せる事を祈って。
 
 
 3年が経過し、どうにもならなかった。
 今の彼女はエマの住んでいた家の屋上に昇り、そこから空を見上げている。
 渦竜ノアから見た空に浮かぶ竜の姿が、あまりにも懐かしかったからだ。
 ――あの貿易の日を、焦がれるほどに思い出す。
 今は確かにその日と同じ再接近の日だった。
 我竜バベル魔竜アイーシャの融合した世界で最も大きな塊が、渦竜ノアの空を通過している。
 その軌道に理性による制御は感じられない。アリスは自分の父だった男もまた、膨張と変化の中で自我をなくしたのだろうかと思う。
“ディイ君――”
 そして今でもあそこにいる少年の為に、思考を一歩先へ進ませ、
「――――え?」
 アリスの肩に、赤い雪が舞い降りた。
 美しいほどに柔らかく結晶化した精骸の雪。
 
 
 それは生涯にただ一度のみ、アリスの身に起きた奇跡だ。
 
 
 雪は重く肩から胸へと滑り落ちる。
 服に染み込み、あるいは土に還ろうとするそれを、アリスは丹念に蒐集あつめていった、
 掌から雪を溶かしていくと、当然のようにそこから人間の眼球が顕れた。上空からの賜り物として。
 その珠を大切に手の中に収めてから、ふたつの事に気付く。
 これはディイがこぼした忘れ物で、
“……恨んで良いよ。
 必ず、助けに来るから”
 彼と交わした約束こそが、アリスに残された最後の人間性だ。
「――目が、いたいな」
 呟いて歩き出した。
 アリスは渦竜ノアの動きを追って動く。
 足を止めず屋根から降りてもまだ歩き、赤い雪を追い続ける。
「いたいの。でも、ねえ――」
 赤い雪は掌から唇へ動き、呑み下されて、アリスの喉を乾かせていく。
 ――罰を受けねばならない。
 痛み続ける左目と眼窩の隙間にアリス自身の指が入り込み、鉤のようにうごめいた。
 ――刻まなければならない。
 生暖かい感触。眼球は拍子抜けするほど簡単に外れ、しかし頭の奥と視神経で繋がって嫌らしく垂れ下がる。
 そうなってすら視界に変化がなかったから、ようやく左目が潰れていた事に気付いた。
 ――追い求めなければならない。
 雪を集めながら、片手間のように爪で繋がりを削ぎ切っていく。
 ――傷付かなければならない。
 やすりで削るように時間をかけると、左目はどこかに転がり落ちていった。
 その瞬間痛みが失せた事はとても理不尽だったが、アリスにとっては本当にありがたい。
 ――忘れてはならない。
 空いた眼窩に何が入り込むべきか、アリスはとうに承知している。
 
 
「……そうして、手段を選ばなくなったんだな」
 ヒルトが呟く。
 アリスが話の中で残せた成果は彼の口元の引き攣りだけだ。いつの間にか夜は去り、彼の手の中の杯は空になっていた。
「この町で楽しく暮らす以外のことには興味がないんじゃなかったのか?」
「嘘だよ――いや、半分は嘘じゃないかもしれない。あたしはこんな性格だからね」
「今の仕事にはどうやって? 誰かの口利きか?」
「エマさんは顔が広かったんだよ。まずあの人にもっと単純な仕事を紹介してもらって、後は4年間がんばってたらいつの間にかこうなってた」
「その立場はお前の目的に必要なのか?」
「さあ、権力欲かも。でも、とにかく計画はそれなりに――」
 アリスが苦しげな息をつく。喉がひどく乾いていた。
「――それより、あなたは? どうしてこんな仕事を淡々とやっているの?」
「俺は騎士団に拾われたんだ」
「――」
 何を言えば良いのか分からなくなった。
 渦竜ノアの地の上では、それもまたひとつの奇跡だ。
「俺は鍛えた」
 そうなのだろうとアリスは心から思う。一切の魔術を使わないまま血の通わない義肢を生身同然に動かすために、ヒルトがどれほど自らを鍛えたのか――その過程で何を失い、何を忘れていったのか、彼女の想像が追いつかないほどに。
「……お前と違って、その結果を恥じている訳でもない」
 その言葉にアリスは、反射的に自らの左目・・を掌で隠した。
「――そう、分かるんだね」
「自分で目を隠してただろうが――アリス、お前は後悔しているのか? 自分で自分の目を抉った事を悔やんでいるのか?」
「……いや、あたしは……」
 ためらいを見せ、アリスは首をかすかに横に振る。
「……片目がどうとか、そういうのじゃなくて。
 あたしはただ、今の自分の顔が嫌いなだけだよ」
 そうか、とだけの返事。薄く煙るようなしばしの沈黙。
 アリスは直感した。彼が地竜パウルの裏切り者である自分に憤っているにしろ蔑んでいるにしろ、同時にその身を誇っている事だけは間違いない。
「――ねえ。あたし、あなた達に協力できないかな?」
 結局ヒルトが同じ事を話してくるかも分からないから、アリスは自分から言う事にした。
「……正気じゃないのは嫌というほど分かってたが、痴呆まで併発したのか?」
 果たして彼は酷い事を言ってくる。
「あたしは凄くまともな事を言ってるよ。つまり、あなた達の目的は――」
「異民族の浄化。数年かけた皆殺しの準備を、仕上げにかけているところだ」
「――違う。あなた達の目的は、皆が平和に暮らせる世界の筈だ」
 返ってくる吐息には、呆れにわずかな怒りが加わっている。
「お前は、どんなきれい事を……」
「それを望んでいない人間が、この世にいると思う? あたしが協力すれば、それができるって言ってるの」
 ヒルトは沈黙し、アリスは半秒で追い討ちを決意する。
「団員の素性を問わない〈人間騎士団〉を活躍させるほどに人材不足なら、魔術師が余っているとは思えない。特に地竜パウル移民でかつ明確に渦竜ノアへの抵抗運動をしていない魔術師は、政治的な背景を持たない分使い捨てにでも何でもできるから」
「抵抗運動という解釈は偏見だろう――それにその片目で、魔術のための視界を確保できるのか」
「試してみれば良いとあたしは思っている。
 ――あのさ。あなたの目的って、あたしを行動と考え次第で騎士団に招く事も含まれてたんじゃないの?」
 アリスにとっては、これが最後の一押しだ。
 もしその予想が外れだとすれば、協力など最初から無意味な頼みだろう。
「自惚れるなよ、と言いたいところだが――その通りだ、全く」
 やりこめられたというよりは、性質の悪い悪戯に引っかかったようなため息が返ってくる。
「さっきも言った通り、〈人間騎士団〉は国王直属だ。
 団長とエドワード・ノア陛下に話を通す事になる。殺されるなよ」
 だが、とヒルトは気軽にアリスにささやく。
お前はもう、皆が平和に暮らそうが皆殺しになろうが、そんな事はどうでも良いんだろう?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それには答えない。
 答えずにアリスは、気の抜けたような顔で笑った。