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第3景
 
 ――14日前。
『〈風の広塔〉の貿易の日。
 アリスと1年ぶりに再会する。一見彼女は変わっていないように見えたが、やはり成長している。
 露店で水晶の欠片を買っていたけど、あれは誰かにあげるつもりだったのだろうか?
 もっともあんなものを貰っても、少なくとも私なら嬉しくもなんとも』
『日記に嘘を書いてはいけない。
 私は自分があの水晶を貰えなかった事を、しばらく気にする事になると思う。
 きっとうじうじと子供っぽく』
『ディイのことは予想外だった。命令通り彼らが退いたのは間違いではないと思う。
 アリスはきっと、私が思っている以上に聡くて強い。
 そんな彼女が事態に気付くのは、全てが終わってからでいい。
 アリスの聡さも強さも、こんなところで浪費されなくて良い』
 
 
 ――――11日前。
〈風の広塔〉管理者バベルが、ただ一人広塔の中にいる。
 先ほどまで自らの魔術により吹かせていた風も既になく、森を焼く火もいずれ鎮火するだろう。
 そしてバベルは自らの塔の根元に、山ほどの爆薬を運び込んでいた。
 もうすぐロビンが来る。それまでには、作業を終えなければならない。
 この塔を爆破する行程も、ただの目くらましに過ぎないが。
 
 
 ――――10日前。
「なあ、強いとか弱いとか言うより気がどうかしてたと思わないか?」
「……兄さん、いきなり何の話」
 カミロとカーレンは、二人の家の中で話をしていた。
 話題は多少物々しいが、語調はくつろいでいると言って良い。
 カミロはベッドの上で寝転んでいる。地上は昼とも夜ともつかなくとも。
「いやね。アリスとか……あとロビンとか、その辺の話をさ」
“その辺”の少女二人の容姿と行動を、カーレンはちょっとした時間をかけて思い起こす。
「――すばしっこくて一部キレてるが訳の分からない場所でつまずいて悩む、陰謀家みたいにいつも考えを巡らせてるが肝心なところで抜けてる、そしていつも悩んでるくせに行動自体は勢いと思い込みで貫徹してくる。きっとあいつら二人とも処女だぞ」
「処女は余計だバカ。――でも、ま、そうだね。兄さんと同じくらい、ヘンな奴ら」
「変? 俺が?」
「変だよ。第一、兄さんの仕事は何?」
「傭兵」
 間髪入れずに答え。カーレンもそれは承知している。
「ほら」
「何が“ほら”だよ?」
「……だってさ。傭兵なのに、仕事がない時も野盗の真似とかしてなかった」
「なんだそれ。まあ――人様の金を殺して奪った応報は、家族まで皆殺して血の沼に沈めると決まってるしな」
「家族まで?」
「そう、家族までだ」
 二人の会話は淡々と続く。
「……妙な話にしすぎだろ。おやすみ」
 特に止める者もいないまま、カミロはベッドの上で眠りに落ちる。
「やっぱり、変な兄さん」
 カーレンはその横顔を、しばらくは見続けていた。
 
 
 ――――8日前。
「まずは基礎だ」
 ディイに肉体術コンジャリングの教授を始めたのは、ダーリオと言う名の吸血種――ロビンの紹介できる中では最も術に長け、アリスの目の前で身体を霧同然に変える事すらしてのけた男だ。
 当初ディイは自分よりこの男が単独行動した方が効率的ではないかと思っていたのだが、実際に聞いてみたら数十秒しか保たないと返された。無駄口を好まない男らしいと判断する。
「最も基本的な術を教える。
 首筋で脈を取る。その後脈のピクピクしてるのをギューっとしてピクピクがビクッとなったら下の方をバッとさせて、後はガーッといけば良い」
 ディイは自分がからかわれているかどうか真剣に検討したが、数秒間待ってもダーリオは笑い出しもせず訂正もしない。
「……難しいですね」
「難しいんだ」
 それは確かだとダーリオが呟くけれど、ディイとしてはそれでも良い。
 アリスの話によると、どうも自分は竜であるらしい。
 真偽は分からない。ディイ本人にしてみれば、論理の飛躍が過ぎる気もする。
 けれどアリスに期待をかけられる事は、決して悪い気分ではない。
 ――首筋に指を当て、自らの血流を意識する。
 自分が期待に応えられない紛い物だとしたら、それはすぐに分かる事が救いだ。
 

 ――――7日前。
 アリスは自室で眠っていた。何もできなかったからだ。
 独走のあげく失敗した焼き討ちの結果が謹慎で済んだ事は幸運だったが、その時から彼女に出来る事は極端に限定された。
 ――それでも何か、できる事があると思っていたのに。
 アリスに感じられるのは、実害になる寸前で漂っている恐怖のにおいのようなものだ。
 そのにおいが現実に傷付いた人間を作り上げるのを、見過ごせる自分ではないはずなのに。
 
 
 ――――5日前。
 甘く震えるような音がする。
 カーレンが実の兄の首筋に、唇を吸いつかせていた。
「……変なの。ヘンに、させるの」
 噛む。誰も見ていないと、念入りに確かめてから、兄の皮膚を噛み切っていく。
「ほんと、変――おかしな、んっ、お兄ちゃん、だよ……」
 兄は眠っている。彼の身体から吸い取る粘液は、頬笑みがこぼれるほどに甘い。
 カーレンが竜の血を吸って得るべき、肉体術もまた力だ。目的に対して使われるべき力だ。
 ――得るべき力を何に使うか、カーレンは答えは出している。
 アリスやロビン達よりも確実に。
 
 
 ――4日前。
 誰も知らない宿屋の一室で、ディイがロビンに羊皮紙を手渡している。
「これ……バベルの?」
「うん」
「……遅いわ。あと1日遅れてたら、私は〈水〉に帰ってたところよ」
 ロビンの憎まれ口にも力はない。
 幼い頃憧れていたおとぎ話の主人公が、今更目の前に出てきたような心境だった。
「今の術の限界は?」
「全身に作用する術で10分くらい」
 ダーリオは自らの魔術が今の域に達するまで、5年をかけたと言っていた。
「……ご苦労様。さがらないで良いわよ、まだ言う事があると思うから」
 言って、羊皮紙に目を通す。
「――――」
 消えた。
 ディイが何者だろうが、どんな力を持っていようが、そんな事はどうでも良くなった。
「殺さないと」
 呟く。
「――バベルを、殺さないと」
 見上げるとディイは、わずかに眉根を寄せていた。
「……全てを話すわ。あなたにも、あの子にも。
 どうするかは、自分で決めなさい」
 アリスには伝令を出そうと思う。同じ町にいるのだから、すぐに届くだろう。
 今はただ、ディイが敵に回りさえしなければ良い。
 
 
 ――2日前。
「試射は?」
「4人がかりで終わらせた」
 ロビンの護衛達は、今は全員がひとつの塊を見つめている。
〈地の広塔〉の職人の一人が発狂した結果を、ロビンが借り受けたものだ。
 もし使える者がいるならば、それは地竜パウル最強の兵器だろう。
 28連装マスケット銃。
 通称〈攻城者〉。
「28本の銃を一個に束ねたのか?」
「束ねたんだ」
 丸太のような薄暗い色の塊を目の前にして、クラウスとラウニーがうなずきあう。
「全ての銃身から一斉に弾を放てるわけか?」
「放てるわけだ」
 一瞬の沈黙。
「リボンが欲しかったところだな」
「ああ、欲しかった」
「俺が撃ったら?」
「腕が折れ潰れて衝撃死する」
「ディイが撃ったら?」
「腕が折れ潰れるが死なない」
「――笑い事だな」
「ああ、笑い事だ」
 妙に息の合った会話を続けるクラウスとラウニーを横目に、モールがため息をついた。
「……仲良いね、おまえら」
 言ってやるとクラウスとラウニーは、同時に微妙な表情をしてみせる。
「まあ、こんなものを持たせるって事は……」
 アリスは確実にこの武器を嫌うだろう。あの甘く触れた脳の持ち主は。
 だがロビンが選択したならば、この武器にはそれ以上の意味がある。
「――ディイの小僧の腹は、もう決まってるって事か」
 
 
 ――1日前。
『バベルの目的は自分が竜になる事』
『手段は地竜パウルの心臓を破壊し、その血を一身に浴びること』
 それがアリスに伝えられた事実だ。
 何度も聞き返した。何かの間違いだと思った。最後には喚きながら伝令に掴みかかり、彼はアリスを振り払って逃げ出していった。
 理解できない。できない。絶対にできない。
 全ての広塔が意味をなくしてしまう。
 魔術によって変換すべき精骸の流れが絶えてしまう。
 そんな事をしたら、世界が滅びてしまう・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あれ?」
 急に目の前が開ける。
 落下する瓦礫で自室の壁が打ち砕かれたと理解するまでに、アリスは数十秒をかけた。
 彼女の目前で〈風の広塔〉が倒壊していく。