本編に戻る
第1景
4.世界の水割りの犬――4年後
カミロと共に渦竜の地に落ち延びて、カーレンは自らの顔を手で覆っていた。
木槌で念入りに叩き潰されたような顔が元に戻るのかどうか、試してでもいるかのように。
「カーレン……」
うずくまった彼女に屈みこんで呼びかけても反応はない。
それならと立ち上がったら、彼女はカミロの服の裾を掴んできた。
「――逃げないで」
その言葉は見ないで、という響きに似ていた。
「逃げないよ」
返答に迷いはない。
彼の言葉を聞き、カーレンは潰れた顔のままで泣き笑いのように表情を変えた。
彼女がそんな表情をしたままで、瞬く間に4年の月日が過ぎていく。
日常の中でカミロが目を覚ました時には、薄い夜が空にかかっていた。
頭を振った。体内時計によれば皆が仕事なり何なりを始める時間から少なくとも3時間が経っているが、寝坊は気にせず身だしなみを整える。
服を着て髪を梳くのは当然だが、この界隈で水は多少の貴重価値がある品だ。結局、顔に関しては布で脂をこすり取るだけにしておいた。
更に愛用の短剣に研ぎを入れ、気分だけでも清潔になった後にカーレンを探す。人間のように朝食は摂らない、たっぷりの血を飲むのは1日1回で十分だ。
もっとも寝室以外の部屋はひとつしかなかった。2年前――つまり、渦竜に移住してから2年が過ぎた時の事だ――から住んでいる家だ。狭くて汚くとも、〈穴〉のように湿気漬けでない分寝心地は良い。
「兄さん?」
彼女は顔に包帯を巻いていた。これから外出するのだろうかとカミロは思う。
おはようと声をかけて、包帯を巻くのを手伝ってやる。
指を添えた彼女の首筋だけは滑らかだ。
「ん……」
「どうした?」
「……ちょっと、くすぐったいだけ」
うなずいて続けた。対象は顔だけとはいえ、呼吸や視界を阻害せずに巻くのは慣れていなければ難しい。
破壊された顔面から滲み出る血が止まり、彼女の血に混じった少量の精骸が微妙な治癒を終えた後、その顔は仮面のようになっていた。
頬の丸みがない。鼻は穴でしかない。眉がない。唇の肉がない。
そして肉体術をもって再生させようとする前に、カーレンは錯乱の中で自分の顔を忘れている。
「――終わった?」
ただ、その声は悪くなかった。
「手早く仕上げたよ。これから出かけるのか?」
包帯姿が街中をうろついている程度でいちいち怯える者が出るほど、この界隈は上品ではない。
「……兄さん、これからふたりで仕事なんだけど」
「あ。――また、あいつの命令か?」
「他に誰がいるの。すっぽかしたりしたら、冗談じゃすまないよ?」
「俺はあいつは嫌いなんだよ」
「――それは知ってるから、早く用意」
おう、と返して寝室に戻る。とはいえ大仰な武装はせず、短剣をベルトに挟んでから念のため帽子を被り詰め物をした外套を羽織るくらいしかする事はない。
しかしカーレンは武装どころか素手だった。彼女が剣を使わなくなったのはいつごろからだったろうかと思いつつ、カミロは彼女とふたりで家を出る。
「――お。よう」
家を出た途端にニーナに出くわした。
「よう」
伸びの良い少女の声が、忠実な挨拶を返してくる。
ふたりが彼女と知り合ったのが4年前である事は間違いない。その時は幼児同然、今でも10歳程度の年齢であるにも関わらず賢しげに成長していて、カミロもカーレンも自分なりに彼女の事を気に入っていた。
カーレンの異装を見ても平然と対応できる程度には、向こうもこちらの事を気に入っているのだろうとカミロは思う。
「大きくなったな。客を取れるようになるのはいつだったっけ?」
「――さあ、あと3年か4年くらいじゃなかったかな」
娼館の小間使いにしては、わずかに震える声で返してくるとカミロは思う。
「怖いのか?
でも、あの時より怖い事なんて、そうそうないだろう?」
「――――っ」
ニーナが硬直する。4年前の記憶は、地竜にいた全ての者に共通だ。
「いずれ死にかけでもしたら相談してくれ、その時は手を貸すよ――それじゃ、急いでるんだ」
彼女の頭をはたくように撫でて、カーレンと共に去っていった。
「……もう少し、何か言ってあげれば良かったかな」
「おまえ、たまに意味もなく優しいよな」
言い合いつつ町を行く。やるべき事は人探し、兄妹が普段受ける依頼の中でも五指に入るほど面倒な仕事だ。
娼館の用心棒をやっていた時よりは給金も良いが、やっている事のつまらなさは大して変わらないと思う。
そして視界を満たしているのは、渦竜の都市の臓物だ。
片腕がいる、片目がいる、皮膚病やみがいる、梅毒持ちがいる。
火付け強盗にあった屋敷の残骸は黒っぽく、舗装もされない地面に建つのは掘っ立て小屋に粗雑な天幕、うろつく物乞い、死体、地面にかぶりつく吸血種――いや、不死種志願者の群れ。
精骸を存分に吸収し不死を得ようとする者もここ数年で随分と増え、中には実際にそれに成功する者もいた。
成功者が全員自分の身体を切り刻んで濃厚な精骸に溶け込んだバベルに匹敵する行いをしたのかと思うと、カミロにとっては信じがたい思いも沸いてくる。
だが竜や竜人という呼び名に代わり不死種と呼ばれるようになった彼らも、大部分はすぐに急激な肉体の変化の中で廃人と化した。
そのような者はだいたいが偉大なる渦竜に取り込まれて路上の瘤になっている。それはそれで、カミロには見ていて楽しくないということはない。
自分と似たような境遇の者がその瘤にたかっているのを見ても、なかなかに笑えてくる。
「土地が足りないんだよな」
柄にもなく彼が呟いた。
ノエルは清々しいほどに優秀な詐欺師だった。何しろ現実的に不可能である移民を、ともかく地竜と渦竜の双方に受け入れさせたのだから。
実際は渦竜の人口は移民の前から限界に達していた。
だが竜の肉体から無限に沸いてくる精骸にも土地面積や時間ごとの限界があり、その限界から農地の量も水の量も資材の量も自然と定められてくる。
そんな状況で竜の人口が一夜にして数十万増加した時、何が起こるかは明白だ。
実効性のある移住の計画などは最初から存在しなかった。移民の半分は荒地を開拓する事を選んだが、もう半分は既存の町に移り住もうとした。
「――――」
そして略奪に手を染めたのは双方の大部分だ。
治安が低下した、などと言うものではない。
起こったのは民族間の戦争だ。少なくとも5万人からの食料と利権の奪い合いは、それを遥かに越える人数を巻き込んでいる。
敵も味方も流動する泥沼の戦いだった。渦竜の国王が騎士団を動かした時は、敵に感染したと思しき全ての町を焼き払って始末をつけようとするかもしれない。
この辺りの地区は地竜移民の支配下にあると言って良いが、それは何も和やかな話し合いの結果決定されたものではない――
「よう、にいちゃん」
――カミロやカーレンのような悪党の手先が、邪魔者を排除して切り開いた土地だ。
呼びかけた男は貧相だった。容姿ではなく仕草の話だ。
「う――い、痛、なんだ、おまえら、は」
男が振り向いた時には、既にカーレンがその肩を掴んでいる。
がくがくと震える男の仕草を見て、彼女が疲れたようにため息をついた。
「釈明はあるかい? しなくていいぞ、祈らなくても良い」
男は内通者だった。カミロ達に命令する者の情報を売ろうとしたから、今現在こんな目に会っている。
あいつが売られてしまえば良かったのに。カミロはそう思ったが、男の顔もまた不愉快だった。
裏をかいたつもりかどうか知らないが、裏切り者がこんな中途半端なところにうろついているのが気に入らない。
「こ、ここは人目があるぞ、すぐに警吏が駆け付け、け、」
「俺達が警吏だ。誰も止めない。
裏切り者の顔なんぞ口づてに町中に伝わったさ、お前は木を森に隠したつもりで浮き上がってるんだよ」
「きっ――」
肉体術によるものか、カーレンに掴まれていた男の肩が膨れ上がった。
「ぎ、ぎい……っ!」
みちみちと肉が裂ける音がする。
男は自分の肉体を破壊してでも逃げ延びようとしていた。臆病者の持つ死にかけの勇気をかいま見て、観衆が一種の畏敬にざわりと揺れる。
「――そんなに、生きていたかったんだね」
そう呟いて、カーレンが男の身体を投げ捨てた。
投げの勢いだけで男の肩は外れた。勿論それは文字通りの意味で、彼の右肩から先はどこかに飛んでいく。
いつの間にか近くにいたニーナの顔にその腕がへばりついて、彼女が妙に掠れた悲鳴をあげた。
鼻血と涙を漏らしながら、地面を這いずって男が逃げていこうとする。
「犬かよ」
それをカミロが踏みつけた。絶息の悲鳴。
――犬飼い、と誰かが呟いた。
そう俗に呼ばれる組織がある。元は娼婦の互助会だが、最近はこのように稼業の範囲を広げてもいた。
〈塔〉。真名を知っているのは、ほとんどがその組織の所属者だ。
「……死にたくなかったんだよね。裏切るしかないと思ったんだよね。捕まればこうなる事くらい、子供でも知ってるよね」
カーレンはカミロから男の身体を受け取り、彼の頭を鷲掴みにした。
大の男を掴めるほど大きな手ではないが、問題はない。
カーレンの手の甲には野太い血管が浮かび上がり、その指は頭皮から肉にまで食い込んでいる。
彼女の視線は一点に向いていた。丁度良く硬そうな瓦礫。
「生きる理由くらいあったよね。幸せな思い出もあったよね。何かを失いたくないと思った事も、きっとあったんだろうね」
叩きつけた。
彼女の首を包む包帯が広がり、夜を華のように埋め尽くす。
一撃で頭の割れる音。それでも離さない。
2回目で頭蓋が崩れ、3回目で男の頭部が弾けてなくなる。
持つ場所をなくしたカーレンは、少しだけ迷ったあと死体の腰の辺りを掴んで続行した。
「見せしめられて見せしめられて見せしめられて死んでいくって、1回くらいは見た事もあるよね?」
4回目で体内から胸骨が飛び出す。5回目で骨ごと胸の一部が飛び散り、6回目で左腕が有り得ない方向に曲がり、7回目でもげて地面に落ちる。
誰かがカーレンに向け、奇声をあげて突進してきた。短刀を腰だめに構えている。
「邪魔をするなよ」
横合いからカミロが短剣を閃かせた。彼が男の縁者だろうが何だろうが、そんな事は知らない。
ただ彼の殺意に敬意を表し、腹の奥までねじりこんですぐに息の根を止める。
その刃を抜くには苦労した。だが後は沈黙し、カミロもただカーレンを見守るだけだ。
「――ああ、きっと取れないかな」
全てを終わらせた右手の血糊を見て、カーレンがぼんやりと呟く。
頭から爪先まで。男がはいていた靴が、血肉と混じって正体をなくすまで、彼女は淡々と処理を続けていた。
誰もが兄妹から一定の距離を取っている。その視線が今までの行為を娯楽と見なしている事は明らかだった。
けれど観衆達の沈黙は、下品であっても厳粛なものだ。
「手くらい拭いてやるよ、相棒」
カミロは妹の血にまみれた右手を取って歩きだす。彼女が小さく抗議してきたが、気になどしない。
「……汚れが広がるから」
「俺も返り血がついたよ。それにその手、力を込めすぎて痺れてるだろ?」
それでカーレンは沈黙した。血の感触にしろ臭いにしろ、血のついた人間にしろ、この町では既に日常だ。
――悪い仕事ではないと、カミロは思う。
行為の残虐さは傭兵の時と大して変わらない。仕事の労力はむしろ少なくなっている。給金以外の待遇もそこまで悪いわけではない。
ただ、雇い主だけが気に入らなかった。
処刑の残滓も、人間の死体も、知らぬとばかりに歩いている少女がいた。
「――アリス」
それはアリス・パウルから、ただのアリスへと転落した娘だ。
そんな場所から這い上がった〈塔〉の支配者が、奇跡のようにそこにいる。
カミロが彼女を見て、思う事はひとつだけだ。
どうしてそこまでして、人の上に立とうとする?