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第3景
「――賊の正体は不明だ。だが、狙いは私だった」
ディイの家、それにアリスとバベルの家は、隣近所と言ってしまえるほど近くにある。
だからまだディイが首から血を垂らしていても、バベル・パウルがその場に出てくる事は、さして不思議な事ではない。
けれど剣を佩いて歩いてきた実の父親に、アリスはなぜか殺気を感じた。
「バベル卿を……ディイは巻き込まれただけ、と言う事でしょうか?」
そしてバベルは、事件の中心にあっさりと入り込んで来ている。
「おかげで被害は彼以外にはなかった。感謝したい」
ロビンはそれ以上事情を聞かずに、なぜか黙り込んでしまう。
「お父様……」
対してアリスは、聞きたい事の数は片手で数えていては足りないほどだ。
「その、ディイ君の……見たの?」
ただ、最初にこう聞いた。
「見た」
アリスが、わずかに震える――バベルもまた、ディイの事を見ていた。
彼がどこから見ていたのかは分からない。皆より早く、ディイが襲われる瞬間からかもしれない。
ただディイが首の骨を折られた状態から、文字通りの意味で立ち直るまでの様子だけは、バベルもまた確実に見ていたのだ。
――ディイは自分で自分の頭を掴み、それらしく見えるように首の角度を調整していた。
壊れた人形に対して、子供がそうするように。
それだけだった。魔術も何もなく――もっとも無から自分の肉体を取ってくる魔術など、アリスもロビンも知らないが――その後は蔦が覆い被さるように、弾けた肉も折れた骨も戻っていく。
皮膚を破って突き出していた骨の破片は、最後に盛り上がる肉皮に押されて落ちていった。
その時アリスは、無言のままで恐怖していた。理屈ではなくあってはならないとしか感じられないその光景を、嫌悪するのでなければそのくらいしかできなかった。
「羨ましかった」
「え?」
けれど、この男は。
感情を動かす必要がなかったとばかりに、静かにそう言ってのける。
「おとう、さま」
アリスの喉が詰まった。心の中は、その答えを喜ぼうと思っている部分と立ち尽くすように動かない部分が半々ずつ。
――バベルは、瞳孔の男だった。
常人より目の見開きが大きく、赤い瞳は否応なく目立つ。
しかもその目は、異常だった――表情の変化によってその目の形が変わった光景を、アリスすらほとんど見る事がない。
決して笑わない目の中の瞳は、時に細密な絵のようにすら見える。
そんな男が一人で、いつの間にか三人の少年少女の中心に立っている。
「アリス……」
ロビンが呟いた。アリスの顔色を見て、なぜか少し心配そうに。
「え、姉さん――いや、それよりそうだ、二人ともっ」
少しの間が空いた後、結局アリスはまくし立てる。
「ぞく、って、どんな人達だったの? 何人で来たの? お父様本人じゃなくて財産目当てだったりしない? それにそいつらどこに逃げたの、ああいやすぐ追わないと――」
「そうだな、警吏に連絡しよう。――さて、まずどこに逃げたかと言うとだ。夜になれば人通りがなくなるとは限らないが、この地区とこの時間の組み合わせだと、住人のほとんどが仕事中で人も絶える。誰だか知らないが、襲撃の指揮者はよく勉強しているな」
「バベルさん。つまり襲撃者は、森に逃げて潜んでいると言う事ですか?」
まるで他人事のような静かな口調で、バベルとディイが言い合った。
もしディイに襲撃の感想を聞いたら、とにかく被害が無くて良かった、と言って済ませてしまうのだろうか?
「……そうね。いくら街と言っても、こんな人気のない場所では逃げれば逃げるほど目立っていくし、森の中を測量して地図を作ろうなんて未だに誰もやらないし」
となると追うのは難しい、と、ロビンは言外の意味を含ませたのかもしれない。
「そうか。なら、連絡はするが追わせるのは止めよう」
ごくあっさりと、バベルがその意味に応対した。
「え?」
ディイよりも先に、ロビンがバベルに聞き返す。
「賊を追いはしないと言った。ディイも、それで構わないかな?」
「……犯人の正体に心当たりでも? もしかして、追うまでもないと思っているとか?」
ディイは難しい表情をして聞き返す。
確かに大人数で畳み込みでもしない限り、森の中から犯人を見つけ出せる可能性は低い。
だが、〈風の広塔〉の管理者宅が襲われたと言うのに、今は大人数の派遣が許される状況ではないのだろうか?
「心当たりはいつだって存在するが、確証はない。服装や容姿で判断をするのも難しい。
けれど大人数で捜索しても見つかるとは限らないし、その間は町の治安が大幅に悪化する。
ならば、少人数でむしろ襲撃前の様子を聞き込みなどさせた方が得策だろう」
それでバベルはこの話題を、あっさりと打ち切ってしまう。
ディイやロビンもそれはそれで効率的だと思ったのか、それ以上口を挟みはしなかった。
けれどアリスの心には、言い知れない違和感が残る。バベルが単に自分の考えと反したからかもしれなくとも。
「――それより話を戻そう。先ほどは襲撃と言ったが、むしろ“彼ら”の行動は数人がかりでの空き巣に近かったな。その点を考えれば、私本人ではなく家財が目当てだろうというアリスの言葉は正しいと思う」
目視できた4人の中で武器を持っている者が2人しかいなかった、と付け加えて、彼は続けた。
「砦として使えるほどでもないが、勿論私の家にも警備くらいはある。
2人で警備を排除、1人が盗みに入り、1人が品を受け取って逃走する予定だったと考えれば、それなりに効率的だろう――もっとも、推測の域は出ないが。
ディイは偶然通りかかり、そのまま“排除”された。
と言ってもその時彼は、鞘に入ったままの剣で腹を殴られただけだ。殺す気はなかったのだろうな」
「……でも、じゃあ」
それでは、アリスが見た光景と矛盾する。
「アリス。君は自ら肋の骨を折り取ったと確信した相手が、数秒後に平然と立ち上がっても錯乱しないでいられるか?」
「――あ」
口が中途半端に開いたままで、少女の唇から言葉が出なくなる。
「鞘は払われている。
もっとも私の目から見ても、次の一撃は斬撃と言えるものではなかった。そもそも首肉に刃が立っていなかった」
――ただそれでも、骨くらいは折れる。
人の命くらいは奪える。人間ならば。
「その後彼女は逃げ出したが。予定が狂ったことを悟ったのだろう、他の者も逃げたな」
事情の説明は、それで終わってしまった。
バベルは彼女と言う。女性が剣を持って人を傷付ける仕事をするのは、珍しい事だけれども誰もそれには言及しない。
アリスもロビンも彼女の護衛達も、またディイも、それぞれの意図をもって。
「――ちょっと、待って」
ただ、まだ納得のいっていない事もある。
「お父様の家に、何かを盗みに人が来て……ディイ君がその人に殴られて、その後その人達が逃げて、その後モールさんとファビオさんが見に来て、その後あたし達が来たんだよね? じゃあ――」
「“その”が多いね」
「ディイ君、それはどうでもいいのっ。
――だから。その間、お父様は何をしてたの?」
バベルはためらいもなく答える。
「自分の身の安全を確認した後、ディイを助けに行こうとしていた。
彼自身の身の安全は、既に確認されていたからな」
それきり、アリスは沈黙した。
何もできなかった自分に、その言を問い詰める資格はない――
――黙り込むアリスの脚に、アベルが身体をすりよせる。
「……ありがと。でもアベル、あたしは大丈夫だよ」
黒犬の頭を撫でた後、アリスは男と少年に顔を向ける。
「これからのお父様と、ディイ君が危ないです。――次は何があるか、分からないです」
自分なりに精一杯決然と、彼女は言ったつもりだった。
「残念だが、アリスの方が危ない」
けれどそう言われて、アリスは絶句する。
「私自身は管理者としての全力をもって警戒するつもりだ。ディイには危険という概念がほとんど通用しない。向こうもそのくらい分かるはずだ。なら、考えられる手段は人質だろう」
それは明確な論理の流れだった。
「でも、その……それならあたし、しばらく家にこもって……」
けれど、そう――アリスは、臆病者だった。
怖かった。自分が襲われるのも、自分がのこのこ出歩いて誰かを巻き込んでしまうのも、アリスにとっては考えられないくらいの恐怖の対象でしかなかった。
「それじゃちょっと甘いわね。バベル卿が追わないなら襲ってきた所を捕らえたいし、でも卿の家の警備だけじゃ……そうだ、私の護衛達をつけてあげる。人数は少ないけど、全員何があっても油断だけはしないわ」
けれどロビンの答えは相変わらず明確で、感情的な反駁を許さない。
彼女にとってはアリスがバベルの家の警備を利用するのは、既に当然の事だった。
「でも、だって、それじゃ姉さんが危なく――」
「何よ。――私もついてるに、決まってるじゃない」
「……お、お仕事は?」
「元から、ここでする事もあるの」
それで、アリスは完全に沈黙してしまう。
必死で頭の中に架空の天秤を作り、皿に錘を一つずつ乗せる。一つは頼った場合のロビン達の迷惑、もう一つは自分が本当に誘拐された場合の皆の迷惑。
そして想像する。
自分が腹を鈍器で殴られて、泣いてしまうとする。
強く腹を殴られて肉が弾けるとする。
あるいは自分がとても強く腹を殴られて、一生泣き続ける事になるとする。
――どこまで、耐えられるだろう?
「……お父様、ディイも守ってくれますか?」
結局のところ、それがアリスの決断の表現だった。
「守ろう。ディイ、そういう訳なので守られてくれ」
「僕は――ああいや、バベルさん、頼みます」
ディイは一瞬何かを否定しようとしたが、アリスの泣きそうな顔を見ると共にそれを翻す。
バベルをさん付けで呼ぶ人間はこの世界にディイ一人だけかもしれないと、アリスはふと思った。
そしてそう思ったときには、冷たい石の舗装の上に、彼女はへたり込んでいた。
「――あ」
何より先に恥ずかしいな、と思う。
こんなところで、皆が見ているのに。
「ごめ、あたし――その――」
言葉が出ない。ディイが、ロビンが見つめているのに、自分自身を説明できない。
「……無事なんだよね? ディイ君は、もう大丈夫なんだよね……?」
泣き声の中でそれだけが、まともな言葉として漏れていた。
「アリス」
ディイの声がする。短く。
男の子の身体が触れた、とアリスは思った。
大きくはないけれど熱い手が、アリスの手を握って引きずりあげる。
軽い悲鳴。元々身の軽い方ではないアリスは、ディイの動きについてこれなかった。
「……いたい」
「ご、ごめん――」
「うそ」
笑う。
あたしもだいじょうぶ、と付け加えて。
「…………」
「ロビン姉さん? もしかして、寂しかったり――」
アリスがロビンに言葉を述べかけ――それに何を読み取ったのか、ロビンは大急ぎで打ち消しにかかる。
「――ああ、今日はもう交代の時間ね。うん、もう来てるわ」
それは、ロビンの男達の事だった。
今までいた男達――モール、ファビオ、クラウス。
向かってくる男達――エール、ヒルト、ラウニー。
全員に労いの言葉を述べた後に、ロビンは三人を見送る。
「ええ、と――皆さん、お疲れ様でした」
中途半端になったアリスの言葉は、結局男達に頭を下げさせた。
いつもよりもう少し、彼らが頼もしく見える。
端から見れば事態の危険性を分かっていないように見えても、その程度にはアリスも自分の身を危ぶんでいた。
ロビンの立場は、ひどく危うい。常にこんな男達を連れて、胸を張り背筋を伸ばして行動せねばならないほどに。
彼女にとってはそれほど貴重な防衛のための戦力に自分を守らせると言う事が、どんな意味を持つかくらいは分かる。
「……これから、よろしくお願いします。姉さんも」
男達はそれぞれ、短く答えた。一様に不器用に、どこか照れたように。
「ああ、あなたも貴族なんだから、このくらい当然のように構えなさいって――」
ロビンはぶつぶつ言いつつ、うなずきだけは返している。
そんな少女達に、バベルの瞳孔が向いた。
「ロビン卿」
「……何か?」
「貴方は疑われる。それは分かってくれ」
一瞬アリスは、その言葉の意味を理解できなかった。
――政治というシステムの中では、〈広塔〉の管理者は対立し食らいあう事で結果的な調和を得る。そんな事実はある。
――ロビンは立場通りの実権を握れない事を常に不満に思っていて、手勢を得るための精力的な活動を欠かしていない。
そんな噂もある。そして派生する、より後ろ暗い噂も。
管理者の私的な行動に、過剰な注目を寄せる者もまた常にいる――
けれどアリスが、姉と呼んでいる娘は、
「御助言感謝します。……行きましょう、アリス」
そう言って、簡単に歩き出してしまう。
「――っ」
そしてアリスには、ついていく事しかできない。
いつもそうだった。大事な時ほどバベルやロビンがアリスの行動の全てを決めて、彼女はそれに追従することしかできなかった。
それは当然の事かもしれない。アリスにはこの過酷な世界を、剛力で動かせるような地位と魔術は持たないから。
でも、ディイは?
利害も何もなしに正体不明の女性に首を折られ、それでも毅然とした顔でいるディイは、彼なりに事態を動かそうとしてはいないだろうか?
――もうじき、夜が去る。
小さすぎて自分でも分からないほどの声を、小さくアリスは漏らした。
自分には、既に力が与えられている。この世界で飢えもせず、手に農具を握ったまめも作らず――それなのに生きていると言う事が、何よりの力の証明だった。
資金と人脈という力を、世間の噂に関わらず、ロビンはきっと意識して使っている。
そんな力をアリスが自ら振るうのは、無理な話だろうか?
そして思いついた事がある。
もしバベルの手勢による聞き込みの中で、犯人が森に逃げたと分かったらの話だ。
「ねえ、思ったんだけど――」
「え……アリス?」
護衛達と共にロビンが振り返る。もしディイを襲った者がすぐ近くに隠れていたとしても、この人たちのお陰で“彼女”は手出しできないだろうなと感謝した。
手出しさえされなかったと、安堵混じりに。
――ロビンの護衛達が撲られ傷付く事をも恐れている自分に、ようやくアリスは気づく。
けれど今考えた計画はその瞬間に廃棄したくなるくらいの欠点と疑問点の塊で、そもそも自分にそんな大それた行為が許されるのか、いやこれで“みんな”が傷付かずに済むなら、みんなが怪訝そうに見てるしごまかしてしまおうかそれとも誰かに任せてしまおうか、でも、私が褒められたのは魔術だけだから――
「――森を焼いたら、どうかな?」
言った。