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最終景(後編)
――泣きそうに赤い色の、魔法陣が覆う森を飛ぶ。
向かい風を避け、出来るだけ大きな風の流れに乗る事を意識する。
アリスの考えは正しかった。今もまだバベルは、〈風の広塔〉にいるだろう。
そして今まで逸らしていた視線を、ようやくアリスは正しい目標に向けた。
航自機の翼で風を切り、炎に包まれた森を眼下に見る。
泣き出したくなった。
喉までせり上がってきた胃液を飲み込んだ。
その風景を形容する言葉を、アリスは地獄としか知らない。
森は森と一言で言うにはあまりに多様なものを内包するが、今の森は悉く焼けて煙に巻かれて異臭を放っている。
炎によって竜の地肌が焼かれる臭いは、魔術によって竜の血を焼く匂いより遥かに強い。
倒壊する大木に巻き込まれ、小さな銀色の泉が潰された。毒虫の群れは草花と共に末期の踊りを踊り、希少な天然の糸や形容不能で美しい紫色の塊も、一緒くたに焦げ縮んでいる。
岩の隣に転がっている炭は、たまたま迷い込んでいた人間の赤ん坊だと囁かれれば、アリスはそれを信じたかもしれない。
――止まる。止まるのは森の中には難燃性の物質も多いから。きっと森自身がすぐに延焼を止めてくれる。
火をつけたのは自分でも心の中でそう念じて、目的を果たしに何十回目かの鈴を鳴らす。
そのまま、航自機の高度を墜落寸前まで下げた。濁って脆くて質の悪いガラスの窓から、森を覗き見る。
目標は森の中にいる人間全て。見逃したら、ここで計画は終わってしまう。
森と一口に言っても、竜の活動の結果は視界を覆い隠す密林ばかりではない。人間が予定通りに追い立てられているならば、必ずその様子は目に映るはずだ。
――そして、そこまではアリスは正しかった。
アリスから見れば炎の壁の向こうにいて、容貌は良く分からない。しかし今にも炎に巻かれようとしている少女が1人、男が3人、懸命に走っている。
「――!」
ただし4人の向かう先は、炎に向かってだ。
自分自身の間抜けな見落としに恐怖する。
アリスの作った炎は、冷静な目視と集中さえあれば、魔術によって押しのけられないものではないのだ。
航自機の翼の動きがわずかに鈍った。先回りして道を塞ぐべきか、それとも彼女ら4人が失敗するか――いや失敗するはずだ。自分の魔術の程度くらい自覚できずに、何が〈風の広塔〉の後継者か――
「……あれ?」
アリスの思惑が羽虫のように叩き潰される。
彼女は、見たこともないものを見た。
一人が背中から翼を生やし、少女を抱えて飛び上がった。
一人が赤い霧と化して崩壊した。
一人がアリスの方を向き、航自機に何かを振るった。
「あ――」
避けられなかった。痛みは無く、しかし次の瞬間に激しい衝撃。
その男はベルトに数個の刃物を挟んでいる。
航自機の翼を短剣に破られたと悟って、アリスはようやく自分の失敗を悟った。
――結局、吐いてしまう事だけはなかったな、と思う。
この計画の全ての前提は、この4人の眼前で巻き起こっている炎だ。
だから試みるべき説得は、アリスの作った炎が4人より強いという事を根拠にした脅迫だ。
だから説得には護衛すら必要ではなかった。むしろ炎を護衛として、航自機を低く飛ばしていたつもりだった。
「ひ――かっ」
間抜けで穴だらけな計画に対する後悔も反省も染み透るその前に、墜落した航自機ごと地肌に叩きつけられて気絶しそうになる。
アリスが身体を折って咳き込んでも関係なく、むしろ彼女が炎の只中に放り込まれなかった事が残念そうな顔で、短剣の男が脚に力を溜めかがみ込む。
4人とアリスは、炎の壁によって隔てられている筈だった。
けれど次の瞬間は出鱈目だった。服に火が灯るよりも早く、短剣の男は瞬発力だけで炎の中を駆け抜けている。
霧の男は崩壊していた身体を炎を越えてから瞬時に戻し、翼の男は少女を抱えたまま向かい風を巧みに避け、当然のようにアリスの傍まで降りてきた。
あれも魔術だ、とアリスは直感した。
ただし、竜術ではなく、理解できず、アリスには対抗もできない種類の魔術だ。
――竜術による風は精細に吹き、既に彼らと関係なくなった場所を延焼させ続けている。
「お前がアリス・パウルだな?」
どうして知ってるの。
当然の疑問が、しかし声にならない。
「答えられないか、しかしその顔は図星という奴だな――来てもらおう、人質代わりという奴だ」
その言葉をこそ、アリスは恐れていた。
短剣の男は片手で得物を弄びつつ、もう片方の手で軽々と襟元を掴んでアリスの身体を抱え上げる。
喉から断続的な音を漏らしつつ、非効率的にアリスは手足をばたつかせて抵抗した。
短剣の男はアリスの抵抗を困ったように流していたが、それはしばらくも続かない。
「なあ」
彼の声には、紛れも無い憎悪がこもっていた。
「――ぇ?」
掠れた喉から、思わず小さな声が漏れる。
「死にたいのか?」
彼はもう返事を待たなかった。
手は襟元ではなくアリスの後頭部を掴む形に変え、そのまま彼女の顔を地面に転がる石に叩きつけようとする。
その石はアリス自身の行為の結果により、炎にあぶられ存分に熱されていた。
――腐る、と言葉が浮かぶ。
肉を焼けるほど熱された石に、顔を焼かれて腐っていく。
頬が目が髪が焼かれて腐る。腐って焼けて崩れて爛れる。顔が喉が焼け目も潰れて、誰もが二目と見ない顔に――
「ひ――ひぁぁああああっ!」
自分でも理解できない力を発揮し、アリスは首をねじって短剣の男の拘束から逃れる。
逃れた先まで考えていなかった行為が再度身体を地肌に倒すも、その結果は肌を多少あぶられ服が汚れるだけの事だ。
「……次は二人がかりだな」
けれど短剣の男は、アリスの発揮した力に何の興味も敬意も抱いていない。
「ねえ、もう良いってば――あのさ、そろそろ降参したら?」
翼の男に抱えられていた少女が彼に声をかけつつ腕の中から降りて、アリスに水を向けた。
この少女がディイに剣を振るったのだと、アリスは漠然と理解する。
――状況は、どうしようもない。
魔術を使うような素振りを見せた時点で、短剣の男は得物を投げてくるかもしれない。
そして彼が今度も急所を外してくれるかどうか、アリスには考える事すら恐怖を伴う。
「……人質を取っても無駄だったら、どうするの?」
「この炎、お前がやったんだろう? ――どうせ死ぬなら女の子一人くらいは許してやろうなんて殊勝な考え、俺達が持ってると思うか?」
助けて、と叫びたくなりながらも、確かに、と思う。
今更殺す気はなかったと言っても、絶対に信じられはしないだろう。
「どうして、私達の町に……」
「言うと思うか?」
「恨みがあるとかの場合は、言う事もあるよ」
「……」
「そうじゃないみたいだけど、でもどうしてわざわざお父様の屋敷を? 知ってて来たんだよね? もしかして、誰かに頼まれたとか――」
「――なあ、もう一度聞くけど、死にたいのか?」
アリスの声は止まった。
元々自分が殺されかけているという事実から、目を逸らすための推論だ。
脱出するための作戦など思いつけないと、アリスはとうに分かっている。
沈黙。
今度は確実に、顔を灼かれる。
短剣の男が得物を持った手を掲げる前に、アリスは口を開いた。
「……この鈴、触らないで。大事なものだから」
両手を上げて言った言葉は、虚勢ではなかった。
どんな理屈を並べ立てても、心中では皆に必死で謝っていても、疲労と恐怖に負けたのが事実だ。
物言わぬ物体にもすがりつきたくなるほどに、心底から疲弊していただけだ。
そして辿り着いたのは、アリスの知識では表現できない建築物だった。
彼女は自らの服を裂いて作った縄で縛られ、痛みに顔を歪めつつも今まで引きずられていた。
その顔が呆然とし、口が軽く開く。
――渦竜の貿易口と〈風の広塔〉を、アリスは同時に連想した。
それは穴であり階段だった。大量の肉を掘り舗装する事を繰り返し、竜の内部に入り込む事を目的とした通路だった。
それは整備されていた。大量の人員の簡便な出入りを目指して、改良し広げられ続けていた。
「ひとつ根本的な勘違いをしていたようだから、それは正してやる」
短剣の男が、呟くように言葉を落とす。
「俺達はあそこに住んでいる――地竜の俺達全体が、この高い空の地下にな」
高い空の地下、空を飛ぶ竜の体内――その言い回しに、不吉な予感がアリスを襲う。
「……俺達?」
「ああ、俺達だ」
「あなた、たちは、」
何者なの――と問いたくとも、言葉が喉に張り付いて出てこない。
けれどそんなアリスの意図を、顔を見ただけで理解できる少女が現れた。
「吸血種よ」
息を切らし、肌には転びすりむいた痕を作り、目は怒りと苛立ちに細めて。
ロビン・パウルがそこにいる。