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第1景
5.牽引計画――4年後(続)
ヒルトとの会話を経てアリスはひとつの決意を身に固め、色々な事を諦めている。
〈塔〉と自ら名付けた集団、その手で掻き乱していった娼達のために、アリスは時間をかけて後始末を行った。
自分がいなくなっても、何事もなかったかのように生きていけるように。
「ごめんね」
言い残した言葉はそれだけだ。
アリスはヒルトと共に〈展望〉の町を離れ、渦竜の王都へと歩を踏み出した。
馬車は野盗の格好の標的になるので、王都を囲む城壁を越えるまでは航自機と徒歩を併用して旅をする。2点の距離はさほど離れていない事だけが幸いだ。
城壁は分厚く、それなりに役立っていた。押し入ろうとした流民の死体、あるいは餓死者が壁に寄りかかっている程度には。
「――城壁の補修と見張りにかかるお金1日分で、10人くらいの餓えた人に食事をさせられるのにね」
「お前が言うなよ」
その通りだと思ったので、アリスは口をつぐむ。
彼女にはヒルトの口利きで門番が簡単に道を開けた。
――内部の舗装に向かい一歩踏み込んだだけでも、彼女は騎馬の踏み跡を見て取っている。
渦竜の全てを司る場所は、この世界最大の軍隊の基地でもあった。
愛人の腕を引く兵士、馬と馬丁の匂い、商人の喚声。猥雑な秩序、腐りを帯びた強大さがそこにある。
「やあ」
そして路傍には〈人間騎士団〉団長が、その象徴のように立っている。
騎士団長はヒルトとアリスを自宅に案内し、ふたりを客間の椅子に座らせた。
「妾はエイダだ。あんたの名前は?」
「アリス――魔術師のアリスです。
苗字は、なくしました」
「覚えておくよ」 深い声。
アリスは老いたメイドが運んできた茶を一口飲む。安物の葉しか使っていないと分かっても、それでひどく気分が落ち着いた――もっとも最近の高級茶葉は、同じかさの金と比べられるほどに高騰しているが。
エイダは老婆だった。僧衣にも似た暗い色の服でその身を装い、瞳の奥には誰にも推測できないだけの経験が堆積している。
「――計画があります。きっと、あなた達にとっても有用な筈だ」
アリスはわずかな緊張を皮膚感覚に留め、滑らかに言葉を紡いだ。
「ふうん。あなた達?」
「〈人間騎士団〉にとって――」
「なら“私達”だろう?」
エイダの言葉を身に受けて、アリスの喉はわずかに掠れる。
「……入団を決めるのが早すぎます。私はヒルトとも初対面のようなものです、騎士団にとって危険かどうかどころか、有用かどうかすら分かりません」
「それがどうした」
アリスは絶句する。
「陛下はどう言うが知らないがね、有能だろうが無能だろうが危険だろうが安全だろうが、王都防衛線の通行料は馬鹿高いんだよ。
互角にやろう。騎士団は――いや、妾はあんたを食い殺す気で利用するからさ、あんたも必死で妾らを利用してくれ」
「――――」
渦竜に奉仕する気などないと言う事を見抜かれるのは、アリスにとっても当然の事だ。
だが、エイダは心底から本気だった。彼女の命令に呑気に従っていようものならアリスは彼女の目的の手駒として使用され、恐らくは渦竜の繁栄に貢献した挙句惨死するだろう。
「……改めて、計画をお話します」
窓の向こうを見る。地位に比せば質素なエイダの家の中では、純度の高いガラスを使ったその窓が最も高価な家具かもしれない。
4年前から軌道を変えて動き続ける月に付属して、我竜の再接近の日が近付いてきている。
「牽引計画」
その言葉が魔術であるかのように、ヒルトは表情を変えた。
エイダは目を光らせ、アリスの言葉の全てを取り込もうと覗き込んでくる。
「移民と先住者の争いの根本は、渦竜の国家としての余裕……いや、余地の不足にあります」
自分が騎士なのか虜囚なのか分からなくなっても、それだけで萎縮するほど今のアリスは幼くない。
エイダとヒルト。ふたりの騎士を相手に回し、彼女の言葉はとうとうと響いた。
「住居も食料も仕事も日用品も足りず人間だけが多すぎるなら、必然的に起こるのは奪い合いです」
そして、と間を取り、アリスはふたりの表情を見る。
――そこから何も見て取れなかったので、結局何の気無しの顔で続けるしかない。
「その全てを産み出すのが竜ならば、空いているのを取ってくれば良いでしょう」
空いている竜とは何であるかなど、今更誰も聞きはしない。
「……言いたい事は多いけどね、まずはどうやってそれを行うか聞かせてもらおうか」
「もちろん竜術を――」
「無理だ。――他の全ての問題を無視するにしても、我竜だか魔竜だかへの移住に何ヶ月、いや何年かかると思ってるんだ?」
ヒルトの語調には、強烈な底意が透けている――“俺達を舐めているのか、そのくらい考えていなかった訳がないだろう”。
「今度は生きている国家が絡んでくるんだ、4年前とは移住するにしろ複雑さの訳が違う――あの時渦竜の軌道を変えたので、聞いた限りではこの国家が擁する魔術師を全員使っての限界だったそうだよ」
ヒルトが一息つき、アリスはエイダと同じようにうなずきを返した。
確かに数年もの間竜の軌道を変え続ける事など、たとえ人間だった頃のバベルでも不可能だろう。
「だから、我竜が魔竜とやったように融合させてしまえば良い。それなら魔術を使用するのはお互いの竜を近接させるまでで済むから」
「――それこそ、どうやって」
「身体の膨張はとっくに止まったみたいだけど、それでも我竜の生存本能は4年くらいでは消えないと思う」
言いながらアリスは、少しだけ4年前の事を思い出した。
「大幅に我竜の身体を削いだ上で、適当な餌……つまり渦竜の事だけど、それを示せば食いついてくれるんじゃないのかな。
ああ、ヒルトはどうやってとか聞かないよね? 誰がいつどの竜をどうしたのか、あなたは覚えてるよね?」
彼は沈黙だけを返す。自分の寄って立つ世界を野良犬の食事か何かのようにまとめても、誰も顔色は変えはしない。
少なくともアリスは、自分の住んでいた世界が砕け散る様を思い出している最中だから。
「……それ以上のものに食いつかれたらどうする? あちらさんの動向次第では、王都くらいは消えてなくなるよ」
「繰り返すようですが、我竜の膨張は止まっているんです。
だから、彼――いや、あれは、自分の傷を癒す以上の事はしないと思います」
無意識にアリスは、それに、と呟いていた。
「……あれが無関係の人を襲っているようなら、あの時に何人死んでいた事か」
ふと漏れた呟きに、エイダが何か言いたげな顔を作る。
「いえ。……それよりこの計画ですが、どう思いますか?」
「――不安定な計画だな。多くの魔術師を必要とする割に危険な箇所が多すぎる」
「ヒルトに同感だね。そもそも4年前とは大幅に事情が違う、強力な魔術師は常に自分の事情で国中を駆け回ってるところだよ。
ついでに聞かせてもらうけどさ。あんた、本当に娼館の切り盛りで4年間満足してたのかい?
妾が知っててかつ暇をしてる魔術師って条件じゃ、あんたは今の世界で一番の素質持ちしれないんだよ?」
「――あれはあれで、悪くなかったからですよ」
ジジの顔を思い浮かべながら返事をする。その言葉は全くの真実ではないにしろ、嘘でもなかった。
「……あんた、ヒルトに言った話は本当かい――ああいや、妾とした事が」
問いただすのは無駄と思ったのかそれとも無粋と思ったのか、エイダは手を振って自らの言葉を打ち払う。
「とにかくだ。計画献策で人を唸らせる気なら、もう一手足りないよ。
これ以上無駄話を続ける気なら、〈展望〉の鎮圧に行ってもらう事になるね」
「――――」
「あの町で地竜移民が支配している地区があるらしいね。圧倒的に少数である反動勢力が拠点を作れるなら、町の有力者――豪商だか役人だか知らないけど、何らかの形で癒着があるに決まってる」
「……そうですね、それが当然の推測でしょう」
「ああ、全く当然の推測さ。とぼけてんじゃないよ小娘。
殺さないから言いなよ。あんたがたらし込んでる奴がいるんだろう?」
エイダの見事な笑いに、アリスは恐怖を覚えた。
「……言えません」
「アリス。今のうちに吐いておかないと、馬鹿みたいに馬鹿げた痛い目に――」
「言えません。
――それに、私の計画は、まだ言い終わっていません」
恫喝に返すものは睥睨だ。
「多くの魔術師なんていりません、必要なのは限界をなくした魔術師ひとりです」
年季もこもらない眼光に、アリスはせいぜい狂気だけを込めている。
「私を渦竜の最大動脈まで連れて行ってください。
私を不死種にしてください。さあ」
そのアリスの要請は、狂気じみている以前に馬鹿げていた。
周囲の事情を鑑みない愚策であり、幼稚な思いつきに過ぎなかった。
だが彼女の脳内には、それを愚策以上のものにする骨子が秘められている。
ヒルトとの会話に嘘は無い。言い募った転落も、自傷も、目的も、全てが事実だ。
だが、また全てを語った訳ではない。