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第2景
それは自殺にしか見えなかった。
女とも少女ともつかない者が自らの胸を撃ち抜き、渦竜の血溜まりに沈んでいく。
引き裂かれた乳房よりも先に空に放たれていたのは砕け散った心臓だ。枯れ葉にも劣る呆気なさで泥混じりの精骸に埋もれていく彼女の姿には、尊厳も美しさもありはしない。
だと言うのに胸までが血の海に沈んでも、彼女は死にかけの震えを止めていない。
左胸の空洞に流れ込む精骸を掴むように、彼女が右手を傷口の中に突き込んでいく。
掴んだ。
捏ねた。
流れ込む精骸は彼女の肉体の一部に変わろうとしていた。自分の心臓の形を思い出しているかのように、彼女は震えながら手を動かす。
彼女の震えは、右手と胸が融合して奇妙な影を作る頃に止まっていた。
引き剥がす。舞い散った血液が彼女のものであるかどうかなど、世界が赤く流れる中で分かる筈がない。
「……あー」
顔を上げて呟た。
全ての赤子がそうするように、彼女は血の海から這い出てくる。
そうしてアリスは不死種と化した。
密室で翼に似たものを掲げている。
アリスはエイダの邸宅の地下室で、自らの肉体をあつらえていた。
王都に侵入してからはずっとそこで寝起きをしていた。竜人、あるいは不死種となってから2ヶ月が経ったが、我竜と渦竜の再接近の日までは、あとひと月の余裕がある。
「ん……は」
漏れた吐息に熱がこもり、アリスの背中が揺れる。
彼女の着衣の背中を切り取った部分から翼に似たものが生え、どこか不鮮明な影を作っていた。
「……アリス、それがお前の望んだものなのか?」
同室する男の問いに、彼女はためらいも惑いもなくうなずきを返す。
不死種と化したアリスは全身に鎖を巻かれ、人間に可能な限りの確度で身体の膨張を封じられていた。
更にエイダの家に軟禁され、同じ集団の一員に監視を受けても、それは彼女が自ら望んだ行為だ。
「これ、何だと思う?」
そしてそんな事は懊悩にも値しないとばかりに、アリスはヒルトに無垢な問いを向ける。
真っ先に返るものは沈黙。少なくともヒルトは、アリスの事を真剣に見ていた。
――背中から生えたものは、一見鳥の翼に似て見える。
だが精細に観察すれば羽毛との共通点は大まかな形状と柔らかそうな糸状の末端、そしてその白さくらいしか存在しない事が分かるだろう。
翼に対して行うように羽根の芯をつまんで抜いてみようにも、その芯に類するものがない。
むしろ構造としては植物の根に似ているかもしれない。それの末端の細さに反して背中
の肉と繋がる根本は太く、わずかに黒ずんでいた。
「……ものを動かすための部位じゃないな。精骸とも直接関係はなさそうだ」
慎重な推測。
「とはいえ、早く教えてくれ。俺達は確か仲間だった気がするからな」
ヒルトの皮肉めかした言葉が珍しくて、アリスは思わず笑ってしまった。
「そうだね、確か当面の目的は同じだったよね――
それじゃ解説抜きで正解。これは脳だよ」
もう一度沈黙。
ただ今度のそれは、自分を観察するための沈黙ではないとアリスは思う。
「ねえ。やっぱり、解説がいる?」
「……脳とは白っぽい餅のような塊じゃなかったのか」
「実際はお餅よりはもろいけど、だから作ったのは脳の一部。何だったかな……ええと、神経。それの更に一部だね」
「一体それが、何の機能を――」
「本当に分からないの? それとも、分からないふりをしてるの?」
言葉を繋げて紡いでいくごとに、アリスの口元には笑みが浮かぶ。
「不死種の弱点はふたつ。力が強すぎて無意味なくらいに危険視されるという事と、無限の再生もその途中で発狂したら意味が無いという事。
前者を緩和するためにあたしはここまで自分を縛らせた。ならこの背中の脳が、一体何への対策かくらいは分かるよね?」
「俺には貴族と違って学校も家庭教師もなかったんだ。……だが、そこまで言われれば大意は掴める」
ヒルトは息をつき、物事を受け止める人間の顔で不死種を見返した。
「もう少しだけ具体性を高めよう。発狂の原因は?
仮に全身を粉微塵にされても意識を保っていたバベルやディイを例外だとすれば、お前は例外ではない。何故ならお前はそこまで大した人間ではなかったからな。
ではそこまで大した不死種にならなかったお前は、何を失った時にこの戦いから脱落するんだ?」
「記憶」
たった一言で言い切った。
「だから、これはそれだ。
本来は糸1本で十分表現できるような記憶を、何百万も同じだけ複製してる。ならたとえ〈攻城者〉で蜂の巣にされたって、1本くらいは残るでしょう?」
「……蜂の巣にされる痛みには、楽に耐えられるって言うのか」
「耐えられるって言うんだよ。痛みを感じない身体になるのは簡単だったから」
アリスは内心で笑う。見当違いに心臓や脊椎を複製していた記憶が蘇ったから。
研究は必要だと思える部位を複製し、必要でないと思われる部位を削除していく作業の繰り返しだった。全身を霧に変えるような超人芸よりは痛みを感じる部分や記憶を司る部分の操作の方が簡単なものだとアリスは思う。
「でもいくら幸せになっても、それは目的への障害を取り除くだけ。記憶を失えば、目的の持ちようもないよね?
だから発狂するかどうかは意志力の問題じゃない。仮に意志力の問題だったとしても、私にはそんな意志力は持てないからどうでも良い。
前例を鑑み、問題を抽出し、計画を練って――つまり、これは考え方の問題。
ねえ、あたしは狂ってるかな? この考えはおかしいのかな?」
アリスは笑顔で言い終わった途端に荒い息をつき、直後に咳き込み始める。
「は……ごめ、口の中が乾いて……水……」
義手から水を受け取り、アリスはそれを一気に飲み干す。
「何かの反動か?」
「――ごめん、本当にただ乾いてただけだよ。お腹がすかないから油断してた」
「飲まず食わずだったという意味か」
呆れたような声をあげ、ヒルトは息をついた。
「……お前は全ての人間が理想とする、物理的に挫折できない生物だ。そこまでして目的を果たしたかったのなら、きっとその考え方とやらも間違いじゃないんだろうよ」
全てかどうかは知らない。だが少なくとも彼にとっては、本当に理想通りなのだろうとアリスは思う。
今はそれが嬉しくて、他の人間に拒絶されるか弾劾されるか差別されるかはどうでも良い。
「もし間違いがあるとすれば、お前はバベルと同じ行動をしているという事くらいだ」
「その、どこが間違いなの?」
――終わった。
単に会話が途切れただけで、物理的には何の変化もない。
ただ、この瞬間自分は決定的な何かと決別したのだと、彼女はそれだけを確信していた。
「……お前は。
いや、良い――やりたい事が有るなら、今のうちに言っておけ。牽引が終わるまでは保護するが、その後は使い捨てだ」
「あたし達ってとっても正直者だよね?
……いや、でも、保護してくれてるだけで十分だよ。自分だけで出来る事は、すごく増えたし」
それはどうも、と気のない声。
だが、アリスにとっては本心だ。騎士団以外に対するエイダの弁舌がなければ、アリスの処遇は鎖と軟禁では済まなかったろう。
「そうだ。この計画って、噂になってたりする?」
「今や〈展望〉の辺りまで流れてる。たった2ヶ月だが、大きな事は隠しきれないものらしいな」
淡々とした、誠実な答え。ヒルトもまた、利害が一致する限りは彼なりの協力をするとアリスは信じている。
「……いや、だが、本当に何も――ひとりで、ディイの元へ向かう気か?」
あくまで表情を崩さないヒルトに、アリスは微笑んでみせた。
「あたし、まるでたったひとりで魔王に立ち向かう、正義の味方みたいだね」
その言葉によって震え寸前までヒルトの顔を引き攣らせた事が、アリスにとっての収穫だ。
「――と」
少し、アリスの視界がぼやけた。
慌てはしない。休息を含めて100秒に1回、それを2ヶ月間繰り返してきた肉体術の反復の中で、この程度の反動は楽しめるくらいになってきている。
「どうした、反動はないんじゃなかったのか?」
「……ヒルトはほんの少しだけ、あたしの事を買い被ってる気がするよ。
背中のは防ぐんじゃなくて耐えられるようにしてるだけだし、理想通りの何かじゃなくてそこそこ有効な対策に過ぎないし」
かもな、と短い返し。
「――それは良いが、どうして先ほどから左胸を気にしているんだ?」
「分かるの?」
表に出していなかったはずの事実に気付かれて、軽い驚きを表情に出す。
「鍛えたと言った――いや、鍛えなくとも分かる。目をつぶって歩けば左にしか行けそうにない歪み方だよ」
努めて淡々と投げかけられる言葉に、アリスは素直に感心した。
「とりあえず、怪我じゃないから……ああ、怪我はありえないけど、それに似たものでもないから。
これはね、おまじない」
「?」
「うん。効果はほとんど無いと思うけど、少なくとも普通に持ってるよりはましだと思ったからしてみたの」
「――ますます分からないが」
疑問を乗せた視線を流したのは、大した事ではなかったからだ。
いつか自分のために買い求めた水晶の欠片を、どこにしまっていようが――心臓の最も静かな部位に内壁と融合させて収めていようが、アリス以外にとってはどうでも良い事だ。
それにそうした時の気分は、誰にも理解できないだろうから。
結局話は中途半端なままで終わった。
アリスは着替えをするからとヒルトを追い出し、肌に食い込んだ鎖を見下ろしつつ早々と着衣を取り替える。
終わった後にすぐに部屋を出た。階段を登り、出られもしない玄関を素通りして、アリスは2階のエイダの私室の隣まで歩いていく。
そこは客室だった。湿気と血の匂いの染み込んだ地下室より、ずっと清潔な場所だ。
「……姉さん」
ロビン・パウルがそこにいる。
彼女は名前を呼ばれると椅子のささくれを弄っていた手を止め、アリスに向けて振り向いた。
「姉さん、ご飯は食べた? ……ね、ごはん。おなかは? いっぱい、それともすいてる?」
ゆっくりとした問いかけ。けれどしばらく待っても反応はなかったので、アリスは目と指と使う事にした。
彼女の表情にはいつも微妙な違いしかないが、不快や空腹感は感じ取れなかった。頬を撫でても垢じみた感じはしない、鎖ごと水浴びをしているアリスよりも清潔だろう。
「――あ」
それでもアリスには気付く事があって、彼女の衣服に手をかける。
「そう、はじまっちゃったんだ……ちょっとごめんね、すぐ済むから」
着替えを急いでひどく怯えさせてしまった事があるから、アリスはゆっくりと着衣を脱がせていく。
「ううん、上はいいよ。下だけでいいから――」
自分から全裸になろうとする彼女を制して、下着を降ろしていった。
アリスが見た通り付け根から経血が垂れ、周囲の肌を汚している。
そして黙った。
黙ったままできるだけ柔らかい布を取り、アリスは彼女を拭き清めていった。
それなりの苦労と共に彼女が生理用具をつけ、下着を替え終わるまで、ふたりは穏やかに行動する。
脳の半分が体外に流れ出しても、生命を失うとは限らない。
ロビンが自我すらさして失わなかった事を、アリスは幸運だったと思っている。
「……はい、終わり。
でも姉さん、身体の奥が痛くない? 熱はないみたいだけど――ん? どうしたの?」
ロビンは遠慮がちにアリスの手を引いていた。
反応し、アリスは待つ。確固とした形を持たない彼女の言葉を、自分が理解できる形にしようと解釈しながら。
「……、――」
明確だが小さすぎる言葉が落ちた。少し迷った後、アリスは彼女に顔を近づける。
「……ころして」
そして聞こえた。
そうとしか、聞こえなかった。
「――――」
ロビンがかりそめの知性を取り戻し、アリスに向けてそう願うのは、はじめての事ではない。
“あなたは誰?”――他に言われる事はといえば、だいたいがそんなところだ。
「……殺せるものなら、殺してみたいんだけどね」
心底から情けない笑みで対して。
アリスの返答にも、“前回”とさして違いはなかった。
「でも、姉さん――姉さんは、本当に死にたいの? 死ななきゃいけないの?」
その問いにロビンが答えないのは彼女の逃避ではなく、単に返答を構築するだけの余裕がないからだ。
いつものようにどちらかが会話に飽きる時を待ちつつ、アリスはロビンとは関係のない事を考える。
“君の事が好きなんだ”
背中から生える脳に染み付かせた、たったひとつの言葉について。
あるいは4年の時を経てディイが、死にたがっていたらどうしようかと。