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最終景
 
 何の意味もなく偶然に。
 行軍の中でちょうど100人目の死者が出た時、彼らは地竜パウルの突端に辿り着いた。
 そこでは故郷の死んだ風とは比べるべくもない、渦竜ノアの身体そのものを動かすための風が――先方の手引きにより今では本来の速度の数十分の1にまで弱まっていると言うのに、暴風として吹き付けてくる。
「――押さないでください、前に出ないで! まずいつもの小休止と同じで、身の回りの整理を――」
 先頭から後方へ呼びかけ、そして前方の絶大なものを見る前に横を見る。
 概観すれば見事な3列縦隊だ。突端は小高い丘になっていて、振り向けば後方は果てしないくらいに良く見える。
 最前線には全ての広塔の大旗が集まり、そこから続く眩暈のするような人ごみの蛇行は滅び去った森の再来とでも例えるべきか――
「少ない。たったの50万人にも満たないだろうね」
 アリスの思考は、穏やかで冷たい断定によって止められた。
「――――あなたは、ノエル卿」
 振り向いた先にいたのは、その得体を窺い知れない男だった。
 痩せた身体、張りのある皮膚とそれに相反するわずかな老人臭、錆びた刃物のような目の光。
 最古参の管理者ノエル・パウルと、まともな話ができるのは初めての事だ。
「このくにに住む人間と吸血種を全て集めたならば、見えるべき光景はこんなものではなかった。
 貴女も私もロビン卿も、努力はしたのにな」
 穏やかに発せられた言葉は、穏やかなままで終わった。
 それに対して言うべき事を言おうと心がけると、なぜかアリスの瞳は睨み上げるような歪みを帯びる。
「……ともかく水も食料も住む所も一刻も早く確保しなければ、近いうちにその50万人がまとめて爆発してしまいます」
 アリスの言葉は誇張ではない。
 今までに出た100人の死者など、俯瞰すれば大砲への着火の最中に燃えている導火線のようなものだ。
 死者の数が一人増えるごとに、遺族が復讐を考える。
 その一部は実際に復讐の対象を確立させ、更に一部は復讐を実行に移す。
 復讐の対象が同胞だろうが人間全てだろうが自分だろうがそうなった・・・・・者の数が一定を越えた時には、権力や兵力で復讐者の群れを止める事などできはしない。
「――渦竜ノアで皆が一等地に住めるとは思えないが、延々荒野を歩き続ける境遇よりはましだろうね」 
 ノエルの言葉に宿った意味が自分の考えと近い事を読み取り、アリスは少しだけ安堵した。
「そう、なんです。
 だから――たとえ、進軍についていけなかった人が何人いるとしても、渦竜ノアで私達が虐待される結果になっても……」
 喋りながら、目を伏せたくなる。
「――アリス卿、その言葉は貴女自身を傷付けるよ」
 彼はそんな呟きを、一言で止めてきた。
「……つまらない事を言いました。でも、私は“卿”ではないです。
 バベル卿の代理として活動しているとはいえ、正式には……」
「? ああ、まだそんな事を気にしてるのか――」
 ノエルの唇がわずかに歪む。
もう管理者なんてどこにもいないんだよ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 全ての広塔はとっくに意味を失っているんだ。それなら誰をどう呼ぼうが、気にする事もないだろう?」
 公然と放たれた言葉を耳にした余人は、己自身のために何も聞かなかった事にしたに違いない。
 そんな言葉を放ちながら、彼が全く絶望していない事こそが恐ろしかった。
 ただ腐り果てた諧謔だけがそこにある。
「……行きましょう。
 姉さ――ロビン卿はまだ魔術の反動に耐えられる身体じゃないし、私達の目的はすぐそこにあります」
 ああ、とノエルが頷いた。
 視線の向きを変えると、絶大なものが――渦竜ノアの身体が、目の前にある。
 その竜の位置は地竜パウルよりもやや高く、人間の尺度で言えば絶壁を感じるほどに高い。
 しかしふたつの竜の間に鳥くらいしか渡れないほどの間隙が空いていても、渦竜それの大きさは目を灼くほどに鮮烈だ。
 ――右腕の傷は、もう塞がっているのに。
 それなのに、昔火の粉を浴びた左目がわずかに痛む。
「では、予定通りに行きましょう。
 あなたが橋で、私が殿しんがりです」
 言い置いてアリスは、今までとは逆の方向に振り向いた。
 後方へ。
 遥か見通すべき進軍の先、その彼方で立ち上がるもうひとつの絶大なものを見据えて。
「――――」
 バベルが動く。恐らくは魔竜アイーシャ――ロビンから聞いたあの月まで向けて、一直線に。
 その結果が災厄をもたらす事は、間違いがない。
「……お願い。私達を信じて、冷静でいて」
 傍らの警吏へ。最後の命令は、祈りのようだった。
 ノエルの詠唱が朗々と響く。その傍らで、アリスはいつかの弓矢を取り出した。
 渦竜ノアの風が微風にまで弱まっていくさなか、徐々にもうひとつの竜・・・・・・・からの風が感じられていく。
「――我竜バベル
 感慨もなく慈悲もなく、アリスは真の竜が誕生する瞬間を目撃していた。
 地竜パウルの肉体を撃ち抜いて飛び出していくそれは、怪物などではない。そんな形容など、目の前の事象に対してはあまりにも可愛らしい。
 アリスの視界の中で、確かに地割れが起きた。
 地竜を崩壊させながら・・・・・・・・・・誕生するそれは、この世で最も強力な生物だ。
 ――鉢に盛った土の中に植えた根が、いつしか鉢の中を埋め尽くしていたようなものだろう。
 本体となった生物の脱却の時、パウルは跡形もなく崩れ去る。
 背後に魔法陣の気配。ノエルは気も狂わんばかりの速度で、民が渡るための橋を急造している。
 その民は懸命に動くべき時を待っている。
 我竜バベルは地割れの狭間から、着実な脱出を進行させている。
 ただ一人の男がその妻を求めただけで、どうして無数の人間が死んでしまうのだろう?
「バベ、ル――」
 先頭に立つ殿として、アリスのする事はひとつしかない。
 番える矢もなく弓を構えた。矢を刺して照準を作る必要はない、狙うべきは見えている我竜バベルの全てだ。
 彼を風に変えると、運命のように確信した。
 ためらいはない。大地を割る萌芽に向け、視界を絞り弓を引いた。
 
 ぱん。
 
「え?」
 目が痒いと思った直後に視界が弾ける。
 左目の血管が音を立てて破裂していた。
「あ……」
 弓を取り落とし、血の涙がささやかな虹を描く。
 それは無謀な魔術の使用に対する、効率的な警告だ。
 ――どうやら肝心な所で、全員が絶望的な事実から目を逸らしていたらしい。
 我竜バベルが気紛れを起こせば、単に皆殺しにされるのだと。
 たかが人間が真の竜を数秒の魔術でどうこうできるのなら、この世界は今頃魔術師による混沌の集合と化している――
「――――っは」
 精神は無事だ、疲労すらろくに無い、そもそも魔術は失敗していた。
 一時的な片目になった事により、遠近感が失われている。視認すべき対象との結線がずれている。
 そして当然のように転んだ。
 足元への地割れに打撃にも似た血流の噴出が加えられただけで地面に引き倒され、意思にも信念にも関わらず無様にもがく。
 這い上がる頃には、管理者達が歩を出していた。
「終わった」
 ノエルの声は淡々と、自分のやるべき事にのみ向いている。
 渦竜ノア地竜パウルの肉体の結線は、結果を見れば融合と言うよりは貼り付けに近かった。
 それでも幅は笑いが漏れるほどに広く、天然の階段のように高みを目指し、にわか作りの精骸の橋が作り上げられている。
 そしてノエルは高く旗を掲げ歩き出そうとして、踏み出すごとに姿勢をなくしていった。
 骨が崩れる。肉が溶ける。
 こんなにも実用的な濫造だったのに、あまりにも速すぎる魔術の代償として、なだらかに地面に広がっていく。
 ――橋を目指して誰も彼もが走り出すまで、一瞬の空白がある。
 一瞬の思考。“大地の補修を――”
 けれど無限の人ごみの中で、補修すべき箇所を視認するのは不可能だ。
“――ディイ君、ごめんなさい”
 そんな思考が散じて、一瞬が過ぎた。
 今度こそ本当に世界パウルが崩壊する中で、皆が命懸けで走り出す。
 隊列も命令もない。全員が等しく死ぬ・・・・・・・・という現実を抑えられる命令など、この世のどこにもありはしない。
 大旗が投げ捨てられ子供は大人に突き飛ばされ、アリスも誰かに踏みつけられ、肺から酸素を搾り出す。
「アリス――!」
 ロビンが駆け寄ってきて、鼻血を流すアリスを引き上げる。
 彼女の傍らには常に付き添っていた護衛達がいなかった。
 お互い守るべきものが粉微塵に磨り潰されている最中に、はじめて二人は再会する事ができた。
「ねえ、さ……」
「……もう、どうしようもないの」
 その言葉が胸を抉るように響いた。
 数十万の人間も、人として壊れた我竜バベルも、それはひとつの世界そのものだ。
 たとえ世界そのものが相手でも、それが戦いなら逃げることもごまかすこともできただろう。
「――うん。どうしようも、ないね」
 ただ自らに無関心なままで暴走する世界に手を伸ばした時、伸ばした手ごと自分は轢き潰されるのだと、そう言い捨てて走り出す。
 お互いに手を繋いだのは、そうしないと今度倒された時にそのまま踏み殺されるからだ。
 祈りながら走る。目の前に地割れが開けば、ふたりとも反応する前に落ちていくだろう。
 あっという間にアリスを追い越していった無数の人間の背中を見て、地響きと風の中で生き延びようとして走る。
 衝撃に転びかけたロビンを、今度はアリスの手が引き戻した。
 ついに我竜バベルの肉体が地竜パウルから抜け出している。
 混沌の形をした影が空に浮かび上がっていく中、直感的に我竜バベルの肉体が自分を潰す事はないだろうと読み取った。
 あれはまず高みへと上昇し続けるだろう。距離と軌道を読み取れば、せいぜい垂れ下がる尻尾らしきものによって後方集団が何百人か弾けていなくなるに過ぎないと分かる。
 ――走る。無駄な事は、しない。
 風が刻一刻と強くなると共に、地面の崩壊も早まっていった。
 ただ皆で走っているだけなのに一秒ごとに人が死んでいく。風で体勢が揺らげば、直後悲鳴をあげる暇もなく地割れに飲み込まれてもおかしくない。
 せめて自分では動けない者、ぎりぎりで崖に捕まって落ちまいとしている者を助けようとしても、そんな者達は目にした直後に死神に連れられていった。
「は――――」
 だから、走る。
 ひたすらに走る。息が止まっても知らないとばかりに走り続ける。
「…………っ」
 走り、続けたかったのに。
「――アリスさま、たすけて」
 どうして遥か遠くから、その声が届いた。
 ふたりは同時に振り向いた・・・・・・・・・・・・
 尻尾の動きは鞭のようだった。身体と共に上昇していっても、風に乗って揺れ動くだけで人間など吹き飛んでしまう。
 ただ嘲笑うように綺麗な空の中で、その尻尾は何がはばかるでもなく良く見えた。
 小さな鈴の音と掠れ声の詠唱は、竜の動きを止めようとするものではない。
 アリスは風を使って我竜バベルを更に上へと弾き、ロビンはそれでも障害となる先端部のみを水と変えている。
 それでも危険な部分を全て吹き飛ばす事などはできず、ニーナは助かるだろうと言う事しか分からない。
「ひ、――ぎ」
 膨大な力を起こした反作用は、直接肉体に飛び込んでくるようだ。
 視界はどこもかしこも真紅に染まった。物体を影と輪郭でしか視認できず、魔術の使用は論外にまで追いやられる。
 頭が爆発して飛び散ってしまう。心底からそう思うほどの頭痛をそのままに、再びロビンの手を握って走り出そうとする。
 その手が止まった。
 ――ロビンはきっと、アリスより少しだけ優秀なだけの、ただの人間だった。
 彼女の視界には少しだけ誰かが死んでいく様が克明に見え、内心では少しだけそれを忘れ難いものとして扱った。
「姉さん!? 姉さん、何やって――!」
 もう一度だけ詠唱が聞こえたのも、きっとそれだけの事だ。
 アリスの声は空しい。遠くで擬似的な雨が降り、彼女は全て吹き飛ばした・・・・・・・・・・・
 アリスはロビンの身体が倒れ込む前に彼女を支え、歯を食いしばって足を踏み出す。
 坂を上り高みへ。隣にある体温だけを胸に感じ、力の抜けた身体を抱え、今のロビンだけは絶対に手離さないと心に決めて。
 一瞬の再会なんて認めない。すぐに誰かに突き飛ばされ、なぜか骨折のような音を伴う暴風に追い討ちされ、それでもロビンを守りつつ這い上がった。
 自分がいたのは隊列の先端だ。橋がこんなに長いはずはない、人ごみのせいで良く分からないけど、きっともうすぐ駆け抜けられる。
 皆が渦竜ノアに渡った時に必要となるのは冷静で魅力のある統治者だ。自分のようなまがい物ではない。
 だからロビンは、姉さんだけは、生きて元に戻らないと――
「――――そう」
 進まなければならないという思いは確信だ。
 止まったら死ぬという考えは事実だろう。
 だから橋が途中から風で吹き飛ばされていても、それが現在形で再建され続けていても、何の違和感も感じない。
 人間による左道術コンジャリングの復活、あるいは改変。大量の人間の血肉は精骸に近い性質を持つのだと、アリスは始めて知った。
 橋は人間の死体、折れ飛んだ四肢、流された血液により、こぼされた感覚器により、破壊されながら修復されていた。
 全てを執り行う魔術師などはどこにも存在しない。これは、皆で行っている魔術なのだから。
 進まなければ死ぬのだから俺以外のものは橋の材料になるべきだ、礎になるべきだ、俺だけは生き延びるべきだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 それを総意として昇りゆく血肉の雨は、アリスの身体にも飛沫を吹きつけた。
 茫漠とするアリスの視界の中で、誰かの頭が弾ける。
「――――え?」
 呆然とした声はなぜか弾けた頭から聞こえる。もしかしたら、頭ではなく顔が弾けたのかもしれない。
「い、イヤ――」
 悲鳴のために息を吸う音が、「――嫌ぁあああぁあああぁあ!! あたしの顔が、そんな、うそ――兄さん、見ないで兄さん……!!」
 魔術は死体にかかるのみではない。全ての者は無作為に身体の一部を弾けさせ、切り取られて、それでも進んでいく。
 アリスも既に背中から撃ち抜かれたように血を流していたがそんな事は知らない。アリスの身体は既にどこもかしこも血まみれで、散発的に持っていかれ・・・・・・てもすぐにまた別の血が飛んできてくれる。
 ふと服の中にかゆみを感じた。汚れているのだからおかしくはないが、こんな状況でそんなおかしくもない事を感じたのがおかしい。 
「――あは」
 笑いながら歩く。ロビンを抱えて歩く、いや走る。疲れている事は確かだ。
 狂ってなんかいない。「は――――はは、あはは、ふ、はは、ははは」狂っていたとしても、それでロビンを離さないでいられるのならばそれで良い。
 そして少しだけ人の密度の薄い地帯に出ると、「――め!」ロビンに向かって誰かが走り寄ってきた。どこか違和感のある構えだが、こんな時に武器らしき何かを構えているのが正気の沙汰ではない。
「狂人め、この! この、この気狂いがあっ!」
 わめかれた。何かを胸に突きつけられたから、アリス自身が狂人と呼ばれているのだろう。
「あ?」
 胸に突きつけられたものはそのままに二人分の体重をかけて肩を打ち当てると、男は不思議そうな声をあげて弾き飛ばされた。そのまま落ちる――多分落ちたと思う。確認する暇はない、止めも刺したくない、速度をあげてロビンを引きずる。何か柔らかいものが胸に垂れ落ちても構わない。
「狂人、め――卿の死体を、どうする気だ――!」
 ああ。こいつはヒルトで、ロビンが死んでいるのだと、
 ――頭が割れる。
 エールは? クラウスは? ラウニーは? 死んだのか? いつ死んだんだろう? どちらにしろロビンは死んでいない。そう思ってアリスは怒る。それこそ頭が割れるような憤りを覚える。何しろロビンは死んでいないのだから・・・・・・・・・・・・・・・・・・怒るのももっともだと思って銃を奪って「死ね、狂人! 笑うな、どうして卿を殺したあっ!」奪うよりも先に撃たれて転び、右肩が完全に折れたと理解するがロビンを抱えるのは左腕だから問題は無い。
「狂人! 狂人! どいつもこいつもどうして無意味な事をする! どうして死のうとしたんだ! どうして生き延びようとしなかったんだ! ふぐっ、ふぐっうううぅうっ」  違和感の正体=ヒルトには両腕が無い、口で保持して撃ったからまとめて歯が折れた事による呻き。しかしそれと関係なく誰かに踏まれたのだから痛くてたまらない、両手のないヒルトの笑いがとても癇に障るのでロビンは強く左腕で抱えたまま“ひゅウ――、ひゅウ――”、折れた右腕を使い地面に落ちた銃を脇に挟んでヒルトの口に突っ込んだ「ッあ、ギ、ガ――!?」「姉さんは生きてる、お前は嘘つきだ」ねじる。笑うほど痛い。「ア――ア、ア、あ、が、は」「ヒルトさんは嘘つきなんですね」更にねじ込んで気を済ませようとする前に蹴り飛ばされた。「どいつもこいつも――なぜ俺をこんな風にする? なぜ俺はこんな事をしているんだ!?」地面に転びながらわめき続けるヒルトの声はそれこそ正気ではないが、その声はごぼごぼ言う音と共に消えたので死んだと思い肋骨が何かの折れた痛い胸から痛い息を呼吸する音がうるさい。元から赤い影の動きしか見えない視界には更に揺れが加わり、意識ごと真っ黒になる時は近いと覚悟する。「ひゅウ――、ひゅウ――」赤い。なんて事だろう、地面に倒れている。「あ、や、あ、姉さん、だめ起きて、踏まれちゃう」ロビンと共になんとか起き上がると踏まれていなかった。ひと安心して右腕を無理矢理振ってくっついていた誰かの髪を振り落とし、同じくへばりついていた脂肪は落とせないようなのでそのまま進む。本当に痛いなんてとっくに思っていない。瀕死の人間に止めを刺したついさっきに罪悪感を抱けない。「繋がるわ、もうすぐ向こう側にいけるの」聞いた事もない声。目的地は近いような気がするのだけれど、一体この利かない目でどうやって現在地と目的地を区別すれば良いのだろうと思いアリスは進む。アリスは昇る雨に吹かれ、昇る雨を吹かせながら進む。こんな調子で新天地では本当に受け入れられるのだろうかと思いながら進み、同時にそんな事はどうでも良いと考えている自分に笑って進む。歩く。胸の湿りを、華のような汚れを、服の中に入り込んだ人間の皮を、出番のない吐瀉物を、吸血種を、吸血種の死体を、いつかロビンから聞いた歌を、犬を、少女としての語彙を、あらゆる意味での月を、髪に絡む死骸を、血を焦がす匂いを、魔術を、バベルの影を、割れかけの殺意を、吹き昇る精骸を、化膿しうる傷を、“姉さん姉さん姉さん姉さん助けて助けてどうして目を開けてくれないのあたしを助けてごめんなさいごめんなさいあたしが悪いの何もかもあたしのせいなのあたしがみんなを殺してるのあたしが姉さんの代わりに戦争をしてカミロさんの代わりに焼き殺されかけてモールさんの代わりに半分になってディイ君の代わりに見捨てられてちゃんと死ぬべきだったの”を、食物と人間と生活の匂いを、地べたに這う死体を、肉体から歪まされた子供を、血を含んで唸る風を、狂気と発狂の境目を、義眼と義肢を、眼球と肋骨と心臓と大腸と名前を知らない臓器と皮膚と脂肪と大動脈と脳と小指を、嫌悪感と節制を、怒りと悲しみを、50万の人間を、淡い恋心を、その全てを越えて渦竜ノアの地に辿り着いた。

 ロビンは眼窩から溶けた脳を流している。