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最終景
 
 アリスが住んでいた家が崩れ、〈風の広塔〉が崩壊していく。
 最初の一撃は、爆薬に弾き飛ばされた広塔の石材だ。
 それほど大きな石ではない。けれど放物線を描いて撃ち出される弓矢のように、城壁を砕く砲弾のように、アリスは暴力と化した塊に家の壁を砕かれた。
 そして遠く聞こえる泣き声は、同じく住居を破壊されても、無傷でいられるほど幸運でなかった者のあげる声だろう。
 ――欠けた月の絵を緑色に染め抜いた大きな布が、瓦礫の上から転げ落ちてくる。
 それは〈風の広塔〉の象徴旗だ。きっと何かの冗談に違いない。
 そして広塔が生き物のように震える瞬間を、アリスは確かに見た。
 塔が震えた。
 それが二度震えた時、何も分からなくなった。
「……あ」
 轟音の後、腰が抜けたと気付く。
 今まで眼前にあったはずの何かの代わりに、火の粉の弾ける音がした。
 ――危険だと考えるより先に、火事になるなと思う。
 泣き声が聞こえる。何かが素早く走る足音がして、すぐに遠く離れていく。
「……う、ぅ」
 腰を抜かしたまま、旗を杖代わりにして立ち上がった。
 ロビンは?
 ディイはどこにいる?
 声が聞こえる方に――思考は半ば空白のまま、それだけを念頭に置いて歩いていく。
 そうすると人が倒れている光景に、当然のように出会った。
 男。年齢は恐らくは10代。腰を住居の残骸に挟まれた状態で、手を中空に伸ばしている。
 その男から血の匂いを嗅いで飛びついた。腰は抜けたまま旗を捨て、男の手を両腕の力だけで思い切り引っ張りあげる。
「あれ?」
 再度地面にへたりこんで、握った手が冷たいと思った。
 その手から先を見て納得する。
 アリスが持ち帰ったのは内臓の垂れ下がる、半分になった死体だ。
 
 ――森中の獣を焼き殺してでも、人間同士が傷付けあう事を止めると誓った約束を――
 
 ――目を、閉じたくなった。
〈風の広塔〉の倒壊から、元よりアリスの精神は感じる事も考える事も止めていた。
 まるで凍りついたようだ。誇りは傷付き、妄信と呼ばれる内臓を表出する。
 恐怖は行動のための力よりも、思考の停止を要求する。
 そして日常もまた失った――父親が町を捨て、アリスは帰る家を失った。
 だから未来は無い。征くのだと思い込むのでなければ。
「ごめんなさい」
 そんなものによって精神は解凍され、弾かれるように動き出す。
 手を離せば死体の腕は垂れ下がるのみだ。
 それが腰に差していた拳銃を、形見のように取り上げた。
 自らの体温だけが、汗がにじむほどに熱い。
「ごめん、なさ――ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!」
 転び倒れ伏した挙句、逃げ回る者に頭を蹴り飛ばされた少年がいた。
 ガラス窓に頭から叩きつけられ、顔を抑えて泣く女がいた。
 落下する構造材に強打されて首が伸びてしまった老人がいた。
 燃え上がる家の中で、子供の泣き声が聞こえてきた。
 いつもこの町で誰かが死んでいたように、人はアリスの誇りも恐怖も、意に介さずに死に続ける。
 再度旗にすがった――いつしか無言になり、そして今度は歩き出さない。
 家を焼く炎を見遣る。
 いつかとは逆に、今度は消えろ・・・と心底から思って。
 目を見開いた中で感じるのは、火の粉が左目に入り込む痛みだ。
 けれど、視界の半分が歪む中で認識した炎の光景は、自然につかうべき魔術を思い描かせてくれる。
 ――自分ひとりの力しかない腕で、旗を地面に打ち鳴らした。
 住居だった残骸にまとわりついていた炎が、周囲に分散していく。
 それは水に溶ける墨に似ているかもしれない。炎は分散して薄まり、やがてはただの熱気と化して、大気に溶けていった。
 終わりを確認するより先に駆け込んだ。形見の銃は似合わなくとも腰に差し、地を這うようにして両手で床を探る。
 そこには汚れた服で泣いている5歳程度の女の子がいて、アリスは何も考えずに手を伸ばした。
 腰はまだ抜けている。倒れそうになる。倒れない。手はわずかに触れただけで、後は向こうからすがりついてくる。
 右腕で女の子を抱え、左手で旗にすがりついた。
 服が派手に煤で汚れる。そんな事より女の子が喉を痛めていないかが気になったけれど。
 ――最初の魔術が終わり、足りないと気付く。
 火の回りはアリスの予想をはるかに超えていた。既に視界の中で、数軒の住居に炎が燃え広がっている。
 そして塔の残骸は巨大な絵画を線分したように、アリスの視界にはとても届かない場所までも被害を広げている。
 呼吸が荒れる。目標を求めて走り回っている間にも、火炎は延焼していく――
「……アリス、様」
 声をかけてきたのは、覚えているという記憶しかない男だった。
 服装からすれば警吏だろう。けれどその身体は薄汚れ、表情は暴走寸前の緊張に満ちている。
「一体、何が起こっているんだ――いや、起こっているのですか? 〈風の広塔〉が倒壊したと言うのに、あなたが旗印を掲げて……」
 旗。そう言えば、これは〈風の広塔〉の旗だ。
 彼からすればアリスは管理者を気取っているように見えたのかもしれないが、男の言動は勘違いも良いところだと思う。それとも、分かってやっているのだろうか?
 アリスが今思い込みによって動いているように、彼も似たような何かにすがっているのだろうか?
「……それは、」
「バベル卿は何処に? なぜ彼からの連絡が無い? もしかして、謀反を……」
 権力の基盤を破壊してまで謀反をする馬鹿が、どこに、
「――卿はどこを探してもいません、彼が塔を爆破しましたから。
 よって現在警吏、及び兵団の指揮を取る資格があるのは私だけです。それを謀反と呼ぶなら、そう呼びなさい」
 言葉は、考えるより早く流れ出た。
「……そんな。あんた、何を言って、」
「聞いて。警吏長に連絡。これ以上の街への攻撃はまず有り得ないから、避難者の広場への誘導と逃げ遅れた人の救出に専念。それと兵団にも、彼らは航自機に乗せて――いや、そっちは事前に準備でもしてなければ間に合わないか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・――類焼しそうな建物を打ち壊し、町全体への延焼を避けさせて」
「…………」
 沈黙する男に見えるように、再度旗を打ち鳴らす。幼い女の子を、右腕で抱えた力は緩めないままで。
 それは火事に向かう魔術であり、魔術によってこけおどしの域を脱した威嚇だ。
 皮肉にも炎を煽る風によって、欠け月の模様は大きく翻った。
「――早く、して。時間が、無いんです」
「……彼女はこちらに。せめてそのくらいは、させてください」
 右腕の幼女が、泣きたくなるほどの強さでアリスの腕にしがみついてきた。
 彼女を見ての提案はもっともだったのだけれども、かぶりを振って否定する。
 彼は一瞬の沈黙の後、なぜか微笑んで去っていった。
 そして気が付けばアリスに向かう視線は、ひとつではない。
「何か、僕にできる事はありませんか。
 アリス卿、ありませんか」
 それは少年の声だ。笑い出すより先に、気が狂いそうになった。
 彼に〈風の広塔〉の管理者継承手続きの複雑さを、日が10回ほど翳って夜が来るまで説明してやりたくなる。
 ――しかもこの少年は、よりにもよってアリスに頼ろうとしているのだ。
 断りたい。胸が焼ける。左目が痛い。
 警吏の男に伝えた事が最善の計画とはとても思えない。自分がどこの無能者かこの少年にも思い知らせて、自分ひとりで進んでいきたい。
「――そうですね。崩壊に巻き込まれた地域に沿って、動いていきましょう」
 右手で持ったままの拳銃は、固着したように重かった。
 逃げるなとそれが言っている。
 あるいは――逃げても良いが、その時は破滅するぞと。
「きっと瓦礫のせいで、自分では動けない人が沢山います。警吏の人々を待っていては間に合わないかもしれません。
 力仕事になるでしょう。一人では苦しいと思います。
 ――皆さん、手伝ってください・・・・・・・・・・・
 お礼は、しますから」
 手段は選ばないと、とっくに決めてしまった。アリスに視線を向けているのは少年だけではなかったから。
 そうしてアリス・パウルはこの町の中心になる。
 人々の感情の揺らぎが、たまたま彼女に目を留めた。
 人々の利害が、偶然に彼女を容認した。
 大まかに言えば、ただそれだけの話だ。
 
 
 警吏達よりも普段目立たない兵団の方が集まりは早く、彼らはパニックになりかけていた町の人々を鎮静する事に一役買っていた。
 アリスはその間中ずっと、炎の道を歩んでいる。
「……卿、お水を」
 童顔の女性――今でもアリスの手伝いをしている市井の魔術師が、皮袋を持って気遣わしげに声をかけて来る。
 彼女も技量は並以上なのだけれど、専門は小規模の精細な魔術だった。今は相手が悪すぎる。
「それは、この子に――もうすぐ、日変わりの鐘が……その時になったら、一休み、させて、もらいます……」
 よほど喉が渇いていたのだろう。むせるほどの勢いで皮袋に吸い付く女の子を見ながら、アリスは一言一句を切りながら言葉を吐き出している。
 呼び方を訂正する気力も無い。そんな弱音を吐かざるを得ないほどに、アリスは疲れきっていた。
 視界の中で、誰も彼もが汗みずくになっている。
 左目は痛みだけでもなく、目にずっと塵が挟まっているような気持ちの悪さを伝えてくる。
 炎を散らす魔術の連発だけでも十分に疲労すると言うのに、自らの魔術により狂った気温は水分を急速に奪っていた。
 いっそ航自機を借りて高空から魔術を行使する――それも駄目だ。それにかかる時間と航自機自体の高度の限界を考えれば、そんな事はできない。
 大火の中で比較的冷静に考えを構築できる自分に気付く。その事実を決して忘れないようにして、心の中に縛り付けた。
「卿。多数の者から報告です、航自機が森の方向へ飛んでいったと――」
 兵団の一人が伝えてきた。それは確実に地竜パウルの心臓へと向かうバベルの機体だ。
「ええ、分かります――けど、今は何があっても、町からは出ない、で……」
「しかし――何だと?」
 兵の声が中断した。
〈水の広塔〉の管理者が、自らの兵を揃えて出撃しようとしていたからだ。
 一瞬巨大なテントに見えたのは、布と銀とガラスで作られた怪物だ。
 ロビン・パウルが所有する最大最速の航自機――〈称揚〉号。
 その機体に数十人の兵と7人の私兵を乗り込ませ、彼女はバベル・パウルを殺そうとしていた。
 7人の私兵の中で、ロビン個人の護衛が5人。ファビオ、クラウス、エール、ヒルト、ラウニー。
 彼らは既に〈水〉の旗の下に集い、緊張よりも殺気を表出させ揺らめかせている。
 そして吸血種が2人、カミロとカーレン。本来雇っていた人数に比べれば少ないが、そんな事もあるだろう。
 ロビンは約束を守っていた。アリスを騙しもせず、出し抜いてもいない。
 その出撃は、完全にアリスの予測通りのものだったからだ。
 ――お互い語るべき事は多くなく、まして無駄口をきく暇などは無い。
 だから本当に言うべき事だけ言って、消えようと決めた。
「これ」
 旗を手放した。腰に差していた拳銃を、立ち尽くしていたロビンに手渡す。
 火打石によって着火し、大袈裟な硝煙と共に一発のみの弾丸を弾き出す拳銃。
 それは瓦礫に挟まれて死んだ、どこにも行けなかった男の武器だ。
「これ、モールさんの形見だから」
 そう聞いた時、ロビンは無表情だった。ファビオも、クラウスも、エールも、ヒルトも、ラウニーも。
 ただ、まるで罪を告白するような声で、ありがとうと言われる。
「――これ」
 渡すべき物を渡した後に、ずっと渡したかった物を渡す。
 それは水晶の欠片だった。
 何百年も昔の貿易の日にほんの遊びとして買い求め、まさしく遊びとして急転する現実の連続に追いやられたまま、それは服の片隅にしまわれていた。
 喉が焼けてしまいそうな気温の中で、小指にも満たない水晶だけが冷たい。
 左手から右手へ、水晶越しに触れ合って見つめ合う。
 ロビンの目はアリスでなければ分からないほど、ほんのわずかに揺れていた。
 そんな彼女に、今こそ言うべき事を言いたいと思う。
 左目が痛い。胸は苦しい。それ以上に、右腕の暖かみが重い。
 この女の子は、何を――まだまだ小さい子供なのに、疲れているのに、眠っていても良いのに、まるでアリスの心中を汲み取ったかのように真剣な表情をしているのだろう。
 疲労も周囲の喧騒も、当然のように続いている。
 けれど兵団も警吏も展開を始めていた。行動さえ現状を維持し続ければ、鎮火は急速に進行していくだろう。
 息を吸う。大袈裟に深呼吸しなくとも、多少の余裕が出来るだけで良い。
 言えるだろうか?
 無理かもしれない。恐らくは無理だろう。
 こんなに短い言葉なのに、きっと最初の一音すら口にできないに違いない――
 
「さよなら」
 
 ――言えた。
 そして何もかも急に変わるのだと理解した。
 今の自分は紛れもなく臆病で偽善的なアリス・パウルでありながら、既に以前のアリスと同じ者ではない。
 思い込みにより凍結した精神を解凍したのではなく、アリスは破壊された精神を再築している途中なのだと。
 それはアリスらしく、ほとんどを他者に寄り添って。
「……アリス……」
 彼女の表情の揺れはいつも通りに小さく、見逃してしまえるようなものでしかない。
「――さよなら、アリス」
 そうしてロビンの姿は、配下と共に航自機の扉の向こうへと消えていく。
 言うべき事を言った。もう口はつぐんで騒がない。
 また会おうとも、すぐに追うとも、死なないでとも殺さないでとも、無駄口なんかは叩かない。
 用が済んだから振り返る。
 すると崩れた木材の中心で、幼い男の子が炎に追い立てられていた。
 今なら助かるかもしれないと思い、旗を打ち下ろす。何十度目かの魔術を行使する。
 頭が軋む。炎の放つ光は鮮烈に目を打ち、直視する事は既に体力の消耗しか意味しない。
 ――魔術の結果を確認する前に、遠くを見た。
 空には月が出ていた。当然のように旗の模様よりも美しく。
 じき、夜が来るかもしれない。
 わずかにバベルの乗る航自機が見える。一人で向かうのかと思っていたら、〈称揚〉号に匹敵する大型の船だ。
 そして思う。
 先ほどの会話は、幸運な別れだったのかもしれないと。
 届かない者もいると見てしまった。
 バベルを追い、人間の速度を越えてディイが走っていた。
 彼は背に巨大な何かを負ったままで樹々を弾き、舗装を蹴り飛ばし、今や肉体術コンジャリングを全身の筋肉に染み渡らせている。
 ――日変わりの鐘が鳴り響いた。
 水晶の欠片は3つ。ひとつは自分のために、ひとつはロビンのために、ひとつはディイのために。
 渡せなかった欠片ものもある。
 もう永遠に行えない遊びもある。
 だけど視界の端が滲んだのは涙のせいではない。単に片方の眼球が損傷しているだけだ。
 涙は出そうにない。
 泣く必要は無いのだと、とうに思い込んで決めていた。