本編に戻る
第2景
吸血種の兄妹とすれ違い、薄闇の中で目を利かせ、頭の中の地図で仕事場を目指して歩く。
アリスはそうして無名の町に紛れていた。
道ゆく者達の影は4年前と同じ精度で視界を塞いでくれて、あの時からほとんど背が伸びてない事をアリス自身に実感させる。
時を重ねるごとに削げていく肉は、今は頬がこける寸前で踏み止まっていた。伸びたのは前髪だけで、服装と状況次第では4年前と同じ15歳に間違われるくらいかもしれない。
ただ発育不良の肢体も、こんな町中では路地裏に連れ込まれないための気休めくらいにはなる。アリスは群集の中で目を引かず、彼女が通りすがる者達の中で目を留めるのも猫くらいのものだ。
黒い毛皮は泥溜めの町の中でも光を保ち、彼のまとう空気からは確かな雄の匂いがした。
彼は右の後肢を引きずっていた――腱が傷付いている、もしかしたら腐っているのかもしれない。
そのまま歩き去る。彼を助けようと思った事もあるが、アリスはそんな気紛れ以上に時たま自分の傷を舐めつつ歩く彼の仕草を気に入っていた。
――流れていく風景も、住み慣れていた地竜の町とは何もかも違う。
地下の動脈から精骸を引く井戸には“飛び込み禁止”の看板が付属し、しかしそれは3日も経たずに破壊されて焚き付け代わりに消費されている。
けれど、一番の違いは――
「よう、売女」
「――いちばんの違いはね、この町には人殺しが多すぎるってこと」
噛み合う気配すらない会話に、声をかけてきた男が怪訝そうな顔をする。
「あんた、独り言いう癖があったのか?」
「そうかも。けど、あなたは誰?」
見覚えはない。少なくとも、ここ1年の間に会った覚えのある顔ではなかった。
「売女じゃなく気狂いと呼んだ方が良かったか?」
それなのに男の言葉は、アリスの記憶の深い所を突いてくる。
「――ヒルト」
男の外見に覚えがなければその名も思い出せなかったかもしれない。何しろ殺したとばかり思っていたから。
けれどヒルトは欠けた筈の両腕を義肢に変え、堂々と道を歩いていた。
「ねえ、その腕……」
「今となっては騒ぐようなものじゃない。それより――」
話がしたいとヒルトに言われ、アリスは態度の大きな物乞いを疑った。
だが、それにしては彼の視線がおかしい。
両腕と任務を失った時のヒルトは、明らかに狂っていた――今の彼の瞳の中には、その狂気が見えない。どころかアリスよりも大きな何かを、アリスを通して見据えているようにすら思えてくる。
「……久しぶりだって言うのに、唐突すぎるよ。あたしは、これからお店に行くところだし」
「店?」
「来れば分かるよ、仕事が終わるまで待ってれば良い。
でも、ひとつだけ教えて」
無言で見返してくるカミロに向かい、アリスが問う。
その声はどこか絞るように、
「――話って、姉さんのこと?」
「いいや。全く関係ない」
その言葉に、アリスは落胆よりも先に安堵を覚えた。
彼は昔の役目と昔の狂気を捨て、今の生活のためにアリスとの会話を望んでいる。
それを責める資格どころか責めるような感情も、アリスはとうに失っていた。
案内した場所は娼館だった。
アリスは毎日通っている。そこに住み込まないのは居場所を知られないための用心に、それと言葉にできない見栄のようなものだ。
「空き部屋があるから適当に使ってて。葉が腐ってても良いなら、お茶くらいは出させるけど」
彼女はヒルトを連れて木と骨を乱雑に組み合わせた建物に入り、空き部屋がある方向の廊下を適当に手で示す。
「……驚いたな」
「こんな仕事をしてるって事が?」
「さっきどう呼ばれたか忘れたのか? ――女を使ってる方だとは思わなかったんだよ」
そうだね、と返した。
「あたし、運が良いんだよ。いつも気が付いたらまあまあ楽な方に行ってるの」
そう言い捨ててヒルトと別れると、ほどなく“使われている方”の娼婦に出会った。
名前はジジ。前髪の黒が映り込んで、彼女の顔色はいつも少しだけ暗く見える。
「――おはよう。いつも通り看板を掲げたら部屋で待機……どうしたの?」
「隣から嫌がらせ」
アリスが右目だけを動かすと、彼女はつまらなさそうな顔で自らの衣服の裂け目を撫でていた。
「弓撃ってきたし」
それは一見殺しにかかっているようだけど、営業妨害には違いないとアリスは思う。
「ん。ごめんね、後で服縫ってあげるから――撃ってきた人は見えた? 他に誰かいた?」
「……良く、分からない」
「それじゃ、やっぱり単なる嫌がらせだね。ていうかこの時間には見張りを借りてるはずなんだけどな、後で文句言いに行かなきゃ――」
アリスは自らの言葉を中途で止めた。
震える彼女の手を見て取り、その手に自らの指だけを触れさせる。
「やっぱり、怖い?」
「……怖いんじゃない。そうじゃ、なくて。
どうしてあたし達、こんな事をされてるんだろう?」
「――――」
ああ、そうだね――仕事場に向かうだけで人殺しの道具を向けられるような生活は、普通じゃないんだったね。
「――ごめんね。答えてあげられるなら良かったんだけど」
指を離した。
辛いかとまでは聞かず、そのままジジから離れていく。
「どこに行くの?」
「針と糸。今取ってきて、すぐ直すから」
その後は家――もとい仕事場の事は任せられる者に任せ、同盟先の別の娼館に行こうとアリスは思う。
弓矢を使った脅しの次が徒党を組んだ殴り込みでないという保証は無い。ただ幸いこの町は噂の網から徒党がこぼれるほど広くない、味方にできる者と相談して情報屋を買収しておくべきだ。
「ねえ――あたし、ようやく天国に行けそうなんだよ」
また若い女性と出会った。今度はあちらから話しかけて来る。
「そう、おめでとう。でもあちこち痛そうだけど、大丈夫? 天国に行くまでに動けなくなったりしない?」
そう言えば地竜では天国より地獄の話をする事の方が遥かに多かったと思いつつ、右目だけを動かしてアリスは応対した。
彼女が提げた血塗れの短刀を見て取り、自らへの害意はないと確信しつつも身体だけは緊張する。
そんなアリスに彼女は口元を緩めてみせた。
「大丈夫だってば、むしろ傷が多い方が行きやすいんだよ」
彼女が涎のように血を垂らしていると嘲るのは不正確だろう。
首元からけして止まらない血を湧かせているという見方が厳密だ。
「――うん、その元気なら本当に大丈夫だ。
お疲れ様、あっちでも幸せにね」
最後の言葉に心底から嬉しそうな笑みを返して、彼女はどこかに去っていった。
そしてアリスはようやく思う。
今のは一体誰だったのだろう。
結局ヒルトとの再会は数時間後になった。
椅子に就いたまま眠りかけていた彼に、陶製の杯に水だけを注いで差し出す。
「遅い」
「……悪かったよ」
アリスも椅子に座って脚を組む。額から目にかかる前髪も、今更うっとうしいとは思わない。
「それで? 今日は、本当に何の用なの?」
「俺は〈人間騎士団〉に所属している」
あまりにも唐突な発言に、アリスは一時の沈黙を返した。
ヒルトは鉤のついた右の義腕で、器用に杯を手の中に固定して口をつける。
義肢の素材は良く分からない。ただアリスはその時になってようやく、彼の肩の部分に生身が残っている事に気付いた。
何もかも一部は残る。
「……それは、渦竜の国王直属の騎士団の名前だね」
「そうだ。素性は問わず能力のみを問い、少数精鋭の集団を作り上げている」
「――――」
一般常識に近い共通の知識を言葉に出しつつ、アリスの頭の中は推論を汲み上げていた。
〈人間騎士団〉ほどの有名な組織の一員が、地位も名誉も失った自分に接触してくる理由――
「――難しく考えているのか? ただ話がしたいだけだ、お前が国家への反逆を企てているというなら話は別だが」
「国家か、地竜ではあまり聞かなかった言葉だね――つまり、あたしを監査するという事?」
「その面もある」
ヒルトが肩をすくめる姿は、妙に彼に似合っていた。
「ただのアリス、遣り手のアリス、貴族崩れのアリス――全土に響き渡る名ではないが、竜術の力が消えた訳でもないだろう」
「飲み水の調達以外で魔術を使う気はないよ。
ついでに言うと、もうあたしはこの町で楽しく暮らす以外の事に興味なんてない。こんな事してるのも身体を使うよりはずっと楽だから、それだけ」
「――俺は、詳しく聞きたいんだ。あしらわれるんじゃなく」
今度はアリスが肩をすくめる番だった。
ヒルトに比べれば似合わないかもしれないが、そんな事はどうでも良いとアリスは思う。
「どうやって? 取引の材料はあるの?」
一瞬の沈黙。
その後にヒルトがした行為を、アリスはよく理解できない。
「――え」
ヒルトの義肢がアリスの顔めがけて動いた時、彼女は何もできなかった。
金属製の小さな鉤が素早く動き、長い前髪を跳ね上げる。
「両右目のアリス。その左は、一体誰の目だ?」
何もできなかった理由は、きっと素早さの為ではない。
ヒルトの動きがあまりにも穏やかだったのが、本当に不思議だった。
「――――両右目、ね」
今のアリスの瞳は、左右で色が違う。
それをどう受け取るにせよ、けして動かない左目を自前に備えたものとだけは解釈できない。
――肉を打つ乾いた音。
アリスは鉤を跳ね除け、平手でヒルトの頬を張った。
「……人の貌を暴いて、あたしを怒らせて、そこまでして女の過去を聞きだそうとしたの?」
「今では自分のために怒れるんだな」
「それが何だって言うの、あたしだってそのくらい――!」
「いいな、もっと喋れよ」
「――っ」
アリスの理性は警告する。早くこいつを追い出せ、相手もするな、利害も一致しない男の粗末で安っぽい挑発に乗ってやる義理なんてひとつもない。
「……分かった。ふたつ条件があるけど、話せるだけ話してあげる」
そしてヒルトの挑発以上に安い享楽心が、アリスの唇を動かした。
「条件?」
「ひとつ。両右目って呼ぶな。
ひとつ。途中で後悔しても泣いて頼まれても、話し終わるまでやめてあげないから」
変貌を思い知らせてやる。
この男を愉しませてやる。