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第1景










































――6年後、五竜牽引魔王。












































 吸血種カーレンは、実の兄を愛していた。
 今でも愛している。
 
「――あのね、なにもしてないんだよ。あたしは何もしてなかったのに、あの人が突然、掴んで、掴みかかって、それで、」
 それは随分、ありふれた光景だった事だろう。
 湿気と血の匂いが染み付いた小屋の中で、自分より遥かに年下の女の子――6年前から付き合っているニーナがまくしたてる言葉を、カーレンは静かに聞いていた。
 ニーナとは、それなりに仲が良かったつもりだ。彼女を落ち着かせるための相手が、身内から消去法で決まる程度には。
「それで、言葉遣いがいけないんだって、地竜パウルのなまりが残ってるからいけないんだって……いけないから、どうしてもいいんだって……」
 起こった事を要約するなら、長屋ひとつ分の民族浄化だ。
 この小屋にカーレンは、ニーナやその知人達と共に逃げてきたのだ――6年前から続く移民と原住民の対立。それは、彼女も分かっていないはずがない。
 実際に災難と出くわすまでは、注意深くそれを避け――注意深くさえあれば、永遠に負傷と死と絶叫から断絶していられると、思ってしまったのかもしれないにしろ。
 6年。移民の数は3分の1ほどにも減ってしまったというのに、皆が活発に生きている。
「――地竜パウルの娘のくせにうるさく笑うから駄目で、地竜パウルの娘なら渦竜ノアの男ので孕むわけがなくて、こんな子供だし、でも孕んだってよくて、それで、それで、」
 どいつもこいつも、殺して、殺し返して、復讐して、殴って、食って、子供を産んで、泣いて、笑って、殺されて。
「……もういいよ、ニーナちゃん」
 錯乱じみた動きを見せる彼女の手を軽く握り、言葉を止めさせる。
「とにかく、ね。何も無くて・・・・・、よかった」
「…………なにも・・・?」
 呆然とした声。
 カーレンからすれば本音だ。ニーナが何をされかけたかは吐き気がするほど理解できるが、発見された時のニーナは、胸倉を掴まれる以上の事は何もされていなかった。
 それでも、ニーナはカーレンの手を振り払う。
「あ、あたし――ひとを、ひとを殺しちゃったのに……!」
 カーレンに発見された時、ニーナの傍らの男は、尻餅をついたまま土下座をさせられているような姿勢をしていた。
 転んだ拍子に上から頭を殴りつけられ、殴られて殴られて死ぬまで殴られれば、そうもなるかもしれない。
 ――突出した自警団(渦竜ノアの火付け屋と読め)のひとりか、おこぼれに預かろうとした野次馬かは知らないけど、少女ひとりを押し倒そうとした拍子に足を滑らせるような間抜けは、それだけで殴り殺されても文句は言えないとカーレンは思う。
 カーレンがはじめて人殺しの気持ちになったのは、6年前にディイの首を折った時だった。
 あの時の悲嘆も、後悔も、一生涯忘れないと思っていた。
 今となっては、ただの思い出になってしまったと言うのに。
「大丈夫だよ」
「どこが大丈夫なんだよ! どこも、大丈夫じゃないよ! ぜんぜんっ!」
 ――ニーナの苛立ちも、怒りも、心の全てを埋め尽くすほどの本物にまで成長してしまった。
 それに悲しいのは、カーレンの知り合いの女の子は、誰も彼もが子供を産むよりも先に人を殺しているという事だ。
 せめてあの、温和で茫洋としたジジくらいは、順番が逆であって欲しいけど。
「……大丈夫なの。報復があったとしても私がさせないし、それに――」
 そっと手を伸ばすとニーナの涙に濡れた頬に、自らの指先が触れる。
 カーレンは自身の手指の、ごく普通の柔らかさに感謝した。
「――泣けるなら、忘れられるよ」
 沈黙。
 ニーナは添えられた指を押しのけ、彼女自身の頭の重みを、掌で受け止めるようにして支えた。
 笑いが漏れる。
「……あんたは、優しい怪物ですか?」
 彼女はカーレンの事を、それなりに好いていた筈だ。カーレンの素顔を見て、なお涙を流せる程度には。
 ――忘れたくないんだようと、泣き笑いの声が漏らす。
 カーレンは確かに素顔だった。指を這わせればどこまでも滑っていく仮面の顔は、普段まとう包帯の揺れよりもよほど表情に欠ける。
 そして血肉を呑んで生きる日々。心もまた、人でなしの身体に影響されずにいられるほど、カーレンは強い娘ではなかった。
「ごめんね。……なりたいんだけどさ、やさしくないねえ」
 言葉と共に微笑みたいのだけれど、口の端を動かす事でしか笑えない。
「――あたしとさ。それと、兄さんと一緒に、〈新天地〉にまで行く?」
 部屋の隅に視線を置き、蚊柱よけの香草の匂いを嗅ぎながら、2年前に産まれた単語を言葉に乗せた。
〈新天地〉、あるいは〈月の棺〉。
 あるいは我竜バベル、あるいは魔竜アイーシャ、あるいは呼びたいように。
 2年前の牽引計画によりつきが引っ張られて融合されて殺されて、それでも何も感じなかったとしたら白痴か死体だ。
 今や渦竜ノアの過半数を占める白痴と死体を置き去りにして〈新天地〉を目指そうとする者は、決して少なくはない。
 天然の希少繊維が揺れる森、鉱脈、特大の精骸溜り。それらはこんな時代でも、一攫千金に値する。
 移民に対する攻撃も、こちら側でのものよりはましだろう。
 ――渦竜ノアの住人としては、何が何でも移民を殺したい信念者が1割。できれば殺したい程度にほどよく嫌悪している者が8割5分。残りがその他。そんな所だろうか。
〈塔〉に属していた頃の、欲得づくのやり取りが懐かしい。〈新天地〉で野心にぎらついた目に隠れて、兄と共にもう少しだけ穏やかな生活をしたい。
「……あのさあ」
 そしてカーレンの言葉に返事をしたのは、ニーナではなかった。
 部屋の隅で膝を抱え込み、屈みに近い姿勢で床に座り込んでいたジジが、眠るように伏せていた顔を上げてくる。
 ――あれは、何座りって言うんだったっけ。
「一応聞いとくけど、あんたの吸血兄さんの事はいいの?」
「え?」
 聞かれて、妙な声が跳ねた。
「さっきからいないんだけど。一応この小屋で落ち合う手はずになってたのに」
「え、いや、まだ、遅れてたとしても、1時間くらいしか、あ、と、時計持ってないけど、でもでも、」
 がくがくと声が震えて身体も習う。
「……カーレン、実は、さっき逃げてきた路地で」
「ろ、路地でぇっ!?」
「路地で、えー、路地で…………………………………………ふ、ふぷっ、ぷはははははっ、ふげがげげえっ」
 順に法螺を吹くのが面倒臭くなってきた声、カーレンの泣きそうな沈黙、肉体術コンジャリングでもってジジに化けていたカミロが調子に乗って笑いだした声、カーレンと遅れて入って来た“本物の”ジジに揃って首を絞められた声。
 今のカーレンには2本の手どころか5本の指で実兄の首無し死体を作れる自信があったが、頚動脈がねじ切れる寸前で許してやる。
「……今度そういう冗談やったら、密告してやるから」
「すまん、さすがにこんな萌え妹の事だけは他人に知られたくないんだ」
「何の話!?」
 カミロがこれほど頭がおかしいとは思わなかった。自分のない・・顔を揉み解して、無理矢理気を落ち着かせる。
「声響くんだから叫ぶな。あとあたしの真似するためだけに女装すんな。……でもさ。実際、行くならこの4人で行くしかなくない?」
“本物の”ジジはカーレンよりも早く落ち着いて、小屋を見回してみせる。
 言葉の理由は、単に安全上の問題だ。ジジとニーナは自分の身を守れるほど強くなく、カーレンは彼女達を――殺戮の歳月を共に過ごした〈塔〉時代からの仲間を、絶対に見捨てられはしない。
 そしてカミロも、恐らくはその筈だ。
「魔術を使いこなすための女装は基本だ、気にするな。――行くのはいいんだが、いつにする? 竜骸に乗る金は有るか? つうか、俺達切符売り場に行けるのか?」
 その言葉に応じて、なぜか黙り込んでいるはずのニーナがもじもじと身を動かした。
 視線を集中させてやると、すぐに金属を埋め込んだ木札を取りだす。
〈虹の黒犬〉号1等客室使用許可証。出所は、恐らくニーナに殴り殺された間抜けだろう。
「でかした」
 声だけで笑ってみせる。〈虹の黒犬〉号が渦竜ノア公的機関とはいえ、監視の目を無限に撒くわけにはいかない。
 民族的な監査人の目が光るのは切符売り場までだ。そこさえくぐってしまえば、鞄いっぱいに爆薬を詰めて乗り込みでもしない限り、咎められはしないだろう。
 ――竜骸と、あるいはただドンと呼ばれる生き物。
 発端は〈魔竜陶片〉とも呼ばれる。
 2年前に流出したある紙片から、急速に発展した技術によって作られた人造生命の一群だ。
 材料は竜の精骸、と言うより肉体そのもの。使用されるのは肉体術コンジャリングと生物学、それに工学、時々建築学。
 例えば竜の肉体の中から、刺激されると繋がったものを跳ね上げる性質の神経だけを抽出する。
 それに血肉を繋ぎ、ついでに鈴でも貼り付けてみる。神経自体も分かりやすく、白いより糸か何かのように太ましくしておく。
 そうすると、指で糸を引けば鈴が跳ねるおもちゃができる。竜骸というのは、つまりそんな怪物だった。
 そして乗り込むべきは竜骸の中の竜骸、ガラスと血と骨の芸術たる〈虹の黒犬〉号だ。
 それの噂を耳にした時は、犬と一体化した車を想像した。おぞましいと思った。
 前に遠くから目にした実物は、蜘蛛が引く馬車のようだった。
 可愛いと思った。
「――善は急げ、だよ」
 次の襲撃はすぐだろうし。そう呟いて、椅子から立ち上がる。
 ――その時に、もう一度ニーナの手を握ってみた。
 一瞬の緊張。
 直後の弛緩。
 見間違えようのない彼女の微笑を、心から嬉しいと思う。
「……あったかいね」
「でしょう?」
 カミロが肩をすくめる光景を強いて無視し、ジジが疲れた息を吐き尽くすのを待ってから、ゆるゆると手を繋いで歩く。
 ひとごろしの手は、血のぬるみのように暖かい。
 
 
〈新天地〉到着の晩、カーレンは酔っていた。
「…………けふ」
 ひとりきりだった。手に杯を持っておくびを漏らすその場所は、ありふれた酒場ではなく荒野の中。
 薄光が目の前の巌をわずかに照らし、そこから漏れる赤い雫を際立たせる。
 夜だった。いくら上を見上げても月はなく、空は厚い雲の群れに濁るばかり。
 わざわざ酒瓶を運んできたわけではない。こんな中で酔うならば、それには天然の酒が要る。
 ――苺にしろ葡萄にしろ、奇形の果実は妙な所に入り込む。
 小規模な石洞の中で、同居する精骸と結びつき、奇形の果実は美しくくさっていった。
 すぐに力尽きる運命の泉だ。それでも泥に汚れもせず、酒泉は理想の状態を保っている。
「はあ――」
 杯の中身は、精骸が5割に葡萄酒が5割。それもまた、カーレンにとっては実にいい。
 ――はじめて酒を飲んだのは、まだ人間だった頃だった。
 兄が湯飲みを傾けていた時の見るからにまずそうな顔が、妙に印象に残っている。
 その時のカミロは少年だった。親の酒を盗んで度胸試しをするような、どこにでもいる子供だった。
 最初は止めたのか、それともカーレンも面白がって相伴したのかは覚えていない。ともかくひとくちだけ飲んで、舌が痺れた事は記憶している。
 水割り、お湯割りの類なら、皆で日常的に飲んでいた。それでも混ぜ物なしの酒の味は、強烈で純粋な印象を残している。
 その時のカミロは、既に吸血種だった。酒を飲みながらカミロが漏らした話から、カーレンが事実を知ったのは、ふたりの父よりも母よりも遅れている。
 ――そりゃ、美味いからさ。
 どうして精骸を、とカーレンに聞かれて、カミロは笑う。
 正直なところその笑みを、カーレンは可愛いと思った。
 血肉を呑んで美味そうにするから好きだ。――今でもそうなんだと、そう言ったら、カミロはどんな顔をするだろう。
 腹を抱えて笑うかもしれない。泣いてやろうか。
 そしてほどなく地竜パウルの〈穴〉にカミロが移り住んだのは、〈水の広塔〉の実家から追放されたというよりは、単に利便性の問題からだったろう。
 カーレンは何も考えずについていく。
 その時は自分は人間のままでいいと考えていた。せいぜい剣を護身程度に修め、吐き気を我慢しながら精骸を口にするのも、ほとんど付き合いのようなものだ。
 ディイと出会った時に、甘えという甘えを打ち砕かれた。
 カーレンがはじめて人殺しの気持ちになったのは、6年前にディイの首を折った時だった。
 あの時、首を叩き折ったはずの――本当に首を叩き折られていた少年が、平然と立ち上がってきた時、彼女は絶叫していた。 
 そしてカミロはそうではなかった。そこから先は、単純な憧れの物語だ。
 愛する人に追いつき、愛する人を守り、愛する人と共にいる。実の兄妹とはいえ――それなのに肉欲を抱いた事すらあるとはいえ、その憧れだけは間違っていなかったと、今でも自信をもって言える。
 けれどそれだけだ。
 最初から、憧れ以外の自分の全てが間違っていたのだとしたら、その時は本当に泣いてやろうか――
 
 
 そう思いながら自分が泣いている事に、カーレンはまだ気付かない。

 
 酔ってますます香りは高く、い鼻が血の匂いを嗅ぎ分ける。
 杯を干して、たった一人の吸血種の手が空を切った。
 少女の死骸の臭いを嗅ぎ取って、カーレンはようやく空から顔を背けている。
「……なんだ、こんなところにいたのか」
 興味もなさそうに言う。
「ねえ、アリス――あんた、どこが正しかったの? どこが間違ってたの?」
 いつまでも幼く見えた女の名、ついに帰ってこなかった娘の名を、酒を湧かす娘に聞いている。
 それは拡がっていた。
 地竜の娘アリス・パウル
 ――〈新天地〉、あるいは〈月の棺〉、あるいは地竜アリス
 地竜の継嗣アリス・アリス・パウル
 彼女とカーレンに共通点があるとしたら、それは人間から崩れてしまった身体だけだ。
 仮面の顔を恥じる訳ではない。恥じる行為すら、自分に許していないだけの事だった。
 ――兄に、涙を見せる事ができない。
 人間の顔を持っていた頃、戯れに彼の血を吸った幸福を、今でも思い出す。
 それでもどんなに好いたとしても、血の繋がりを飛び越えて子供を産みたいとすら思っても、醜いからこそ愛せない。
「……う」
 ただ、一緒にいる事しかできない。
「…………っく」
 カミロの相棒でいる事しかできない。
「……う……うう……」
 それが悲しいからでもなく、それを想う自分が幸せである事に気付いた為に、カーレンは今度こそ泣き出した。
 ――会いたい。
 ――会いたいのに、今すぐに会いたいのに、今だけはこんなにも一人でいたい。
 
 
 涙が止まるのが早かったのか、酒泉が尽きるのが早かったのかは分からない。
 ただそのふたつともが終わってしまった後、カーレンには気付いた事がある。
 ――ひとの生き方を、変えてしまったくせに。
 今にも消え入りそうな弱い顔をしたディイが、いつしか視界に入り込んでいる。