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第2景
 
 
ずは人肌、ずは双眼。
 形骸を刻み輪を結び、頭蓋を織って器と謳え。
 血肉、神経、精骸を、念じて家の重みだけ。
 そして強制。
 別し調教。
 言葉と言葉と言葉と、脳は膨らみ起爆の毒。
 毒は繊細、身体の流れに任せて守る。
 更には魔術を教え込め。
 裁いてこえは大きく、猫の髭に逆毛に似て。
 こえは天頂穢土のひとがた。
 天頂穢土の産物。
 天頂穢土の犬。
 天頂穢土の鳥。
 
 竜の骸よりひとがたへ。』
 
 
 ディイと出会ってから夜も明けないうちに、カーレンはあるものをディイに手渡した。
 彼女からそれを受け取った時、自らの身体が薄れて消えていくような気になる。
 全ての竜骸の原点である〈魔竜陶片〉を手に持って、ディイは呆然と立ち尽くしていた。
 
 
 ディイを〈新天地〉の酒場に引っ張り込み、今にも壊れそうな椅子に座らせたかと思うと安酒を無理矢理口の中に捩じ込んで、ようやくカーレンは落ち着いた。
 咳き込むディイを見て、彼女は妙な顔をする。
「……あんた、もしかして酒弱い?」
「けほっ……いや、ちょっと喉が、驚いてるだけだけど……」 
 鼻をくすぐられれば誰だってくしゃみが出る。喉の感覚が死んでいなければ、劇物寸前の液体をいきなり流し込まれても同じだ。
 いきなり何をするのかと思うが、本人はなんて事もなさそうな顔で、血入りの飴を口内に転がしている――もっとも包帯の塊に、豊かな表情を期待するのも無理な話だ。
 どうも彼女が血酒を飲んでいたところを見かけて以来八つ当たりをされている気がするが、それは置いて言うべき言葉を思案する。
「……どうして君が、〈魔竜陶片〉を持っているんだ?」
「それを書いたのが、アリスだからだよ」
 短い会話。
 まず、最初の質問の結果は、予想通りだった。
「――――」
 だというのに言葉がない。
 ディイが人の形をして生き残ってから2年間、何もせず呆然と放浪していた訳では決してなかった。
 アリスの辿った経路。移民の結果、〈牽引計画〉、そして〈新天地〉。
 人づてに歴史を辿り、それでも帰り着いた末路は、彼女が砕けていったこのだった。
 ――ふと、後ろの方を見た。
「ディイ?」
 カーレンの声も聞こえない。
 何を見たという訳でもない。
 ただ、過去を思い出しただけだ。
 ――ディイは、自分自身が傷つく事を恐れない。
 それが竜としての特性の結果に過ぎないにしろ、決して不幸な事ではないと思う。
 耐えられないのは、好いた人が傷つく事だけだ。
「君はさ」
 振り向いて問う。
「うん?」
「僕の事、どこまで知ってた?」
「だいたい。アリスが誰のために何をしてたのか、分かるくらい」
 それで十分だ。
「僕は、何もしなかった」
 カーレンが静かになる。
「解き放たれた時は裸だった。今まで何が起こっていたのかすら分からなかった。経緯を調べている間に新しい経緯がどんどん広がっていく。僕はここに旅をしていながら、同時にここに来る者を待ち構えていた。そして、気が付いたらここは〈新天地〉だ。2年だ。……長かった、長かったよ」
 雨が降っている。
 屋根ですらない天幕のあちこちが雨漏りすれば、敷物はこびりついた黴が溶け出して、どこもかしこもうんざりするような臭いを放っていた。
 素早く建てるにはそれなりの技術と資材が要るが、そんなものは尊重などされない。ちょっと術に長けた吸血種ならば素手で倒壊させてしまえそうな天幕。
 カーレンが口を開いたのは、単に鼻で息をしたくなかったからだったかもしれない。
「あのさ。状況によっては、あんたの事殺してあげるつもりだったんだよ」
「――――」
「あんたさえ良いんなら、あたしならやれる。解体して、引き伸ばして、その身体を〈新天地〉に溶かしてやれる。……絶望してるなら、誰だって死ねるんだ」
 いつしか酒場の客は、半分がたがふたりに視線を向けていた。
 さまざまな反応があった。好奇に疑いを交えて愉しむ者に紛れ、哀しそうにする者すら。
 ――どうでもいい、とカーレンは呟く。
 ディイも同意する。端から見れば、もう終わってしまった話なのだから。
 でも、とカーレンは、一度閉じた口をまた開きかける。
 ある種の心を込めて決然と。
「――え?」
 その口が止まった。
 カーレンの視線が固定された先に、宿敵がいた。
「エイダ。……エイダ・ノア……」
 ディイですら知っている。彼女は移民の――いや、民衆の・・・宿敵だった。
 理解しやすい代わりに残酷か、理解しがたく冷酷な工作を行う王の犬。
地竜パウルの外じゃ、その姓が相応しいのは王だけさ」
 老婆は見た目に分かる護衛を伴わず、安酒を不味そうに傾けている。
あたしは〈人間騎士団〉のエイダ。黒のエイダ、非在薔薇の家のエイダ。
 でもこの際、そんな名前はどうでもいい」
 その視線は、カーレンからディイへと滑り落ちていく。
「ずっと探してた。付き合ってもらうよ、最後の不死種。……どうしても、聞いてもらう事があるんだ」
 そして今までした事もない皮肉な笑みが、いつしかディイの口元に浮かんでいた。
 最後だって?
 
 
 エイダに連れて来られた先は、少なくとも天幕ではなかった。
 もっとも砦じみた急ごしらえの建物に、腐肉のにおいが無いとは言い難い。
「……で、なんであんたも来てるんだい?」
 胡散臭そうな目で、エイダは一面識も無いカーレンを見ている。
「悪い?」
 包帯越しですら分かる。
 敵意と、恐怖と、それに拮抗する何かにより、カーレンの目はいっぱいになっていた。
「悪いよ。あんたら親友か? 恋人か? ――それか、あんた自身が戦争狂か?」
「戦争狂? そういう話・・・・・なの?」
「外野の前じゃ言わないのがお約束だ。殺したりなんかしないから、話がややこしくなる前に出てってくれないかね」
 しばしの沈黙。
「友人じゃないよ」 
 呟くようにカーレンは言う。
「あたしだって、こいつにしてほしい事があるだけだよ」
 ――何を、してほしいのだろう。
 そんなディイの疑問をよそに、エイダは意外にもうなずきを見せる。
「仕方ない子だね。
 いいさ、どうせ保守の必要はほとんどないんだ――」
 エイダは、ひとつ息をついた。
「そこの坊やには、ちょっとした魔術への協力を頼みたいだけだよ」
「魔術?」
 聞き返す。
 
「昇る雨」
 
 頭の中で、時間の停止する音が響いた。
 
 
 会話は一時間も経たずに終わる。
 ディイは“昇る雨”の、きっかけを作る役を請け負った。
 ――耐えられないのは、好いた人が傷つく事だけだった筈だ。
 
 
「……ねえ、本当にやるの?」
 カーレンの怯えた声は、案外希少なのではないのだろうか。
 そんな事を思いつつ、彼女をそばに伴って、視線は前方に据えたまま歩き続ける。
「他に方法があるなら、僕だって絶対に請け負わなかった」
 ディイ自身の声もまた、間違いなく無感情とは聞こえないだろう。
「……あの女は、本気で渦竜ノアの事しか考えてなかったね」
「ああ、ほんとに」
 出会ってから数分で、ディイはエイダの事が苦手になっていた。
 外見や言葉、それそのものが問題なのではない。
 突飛な事を語りながら醒めていて、それなのに現実を語りながら遠くを見るその瞳が、ロビンに似て見えて仕方がない。
「ねえ」
 ふと、声が静かになった。
「なんでアリスが〈魔竜陶片〉を書いたのか、あんたは分かる?」
「…………」
 予想はできる。
 けれど、言いたくはない。
「アリスはあたしに、あたしの兄さんに――〈展望〉の町の偉いさんにだって、書く端からあれを渡していった。
 多くは木か石版か布に書き付けた落書き。でも、どれも文面は同じ。
 その内容も意味も、生きてるうちに教えてもくれなかったけど」
 もしかして、単に恥ずかしかったから・・・・・・・・・じゃないだろうな、と呟いて。
 ――ああ、そうなのかもしれない。
 増殖する事で災害を超越する蟲のように、気が付いたときには〈陶片〉はそこら中に散らばっていた。
 その大本の意図だけが隠れたままで。
「あいつは、生き返りたかったんだ」
 それが何かを吐き捨てるための言葉だとすれば、彼女は何を吐き捨てたかったのだろう。
「何が竜骸だよ。あんなもん、ただの人間のつくりかた・・・・・・・・だ。
 そいつをバラまいてバラまいて、自分と関係ないところまで広がらせて――いつか、人間を作れるほどの魔術に耐えられる者のところまで、辿り着けるようにして」
「…………僕か、それ」
「他に誰がいるの?」
 口元で、彼女は笑ったのかもしれない。
「人間の生き方ができるひとがたなんて天国の所業だよ? そんな滅茶苦茶な竜骸を作る肉体術コンジャリングだよ?
 ねえ、最初の・・・不死種。
 あんた以外の、誰ができるって言うの?」
 沈黙。
「それが、今のアリスを、殺す事に他ならなくてもか」
 竜は生きている。ディイには分かっている。
 今の地竜アリスの肉体を切り刻み、作り変えようとすれば、その結果は闘争となるだろう。
 ――耐えられないのは、好いた人が傷つく事だけだ。
 それに、今なら分かる。
 彼女が人の形を止め、地に溶けていった理由は、単にその方が楽だったからだ。
「それに、僕はアリスの事をよく知らない。僕は彼女の恋人じゃない・・・・
 そんな男の勝手な思い込みで作られるのは、彼女の形をした偽者だけだ」
 死者蘇生などという、都合の良い魔術がないならば、それは形作るしかない。
 何もかもが吐き気のする妄想であり、おぞましい悪夢だ。
 だと言うのに。
「あいつは本物の竜より、偽物の人間になりたかったんだよ」
 ディイには理解できない理由の元に、カーレンは断言していた。
 そうして理解する。カーレンのしてほしかった事とは、こんな些細な事なのだと。
 そしてどんな理屈ともどんな倫理とも関係なく、ただアリスともう一度話したいと思っていた自分がいた。
「……君の兄さんは、どこ?」
「家。この道を曲がってすぐ近く」
 もうここに家を得たらしい。さすがだ。
 やはり、帰るところのある者は、素晴らしい。
「ねえ、エイダの事はどうするの?」
“昇る雨”は、とは、さすがに言えないらしい。
「大丈夫。彼女が2年間遊んでいたのでなければ、僕のやる事は彼女の目的にも叶う筈だ」
 断言した事を保証されてはいないが、“昇る雨”を起こすための手段を限定されている訳ではない。
 毒を食らった時に続けて食うべきものは、何だったろう。
「行ってくる」
 歩調を速め、カーレンと別れる事にした。
 今更どこへと聞かれる筈もない。彼女は立ち止まり、逡巡し、やがて強く踏み出していく。
 帽子に包帯に男の服。後姿だけ横目で見れば、カーレンが妙に格好良く目に映る。
 だがそれも一瞬だ。
「――――い」
 呟く。
「止まらない」
 誓った。
 
 
 ディイが紡ぐ誓いは、昔誰かが弓を携えて口にした約束だ。
 
 前へ。
 更に前へ。
 地獄へ。
 もっと地獄へ。