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最終景(前編)
 
 今日は自分で思った以上の時間を眠って過ごし、目が覚めた時には空は気持ちの良い薄青に染まっていた。
 干し肉と良く分からない野菜の漬物、それと黒パンに水という簡単な朝食を食べた後、思い立って公衆浴場に行く。
 混浴は苦手だけれども、貴族としては質素なバベルの家には、沸かし湯を溜める湯船も無い。
 変に見られた気もするけれどさっぱりして帰ってきた後は、身繕いだ。
 なるべく動きやすい服装に着替える。スカートは論外として、森を走ることも考えると木の枝で肌を傷つけないように厚地の長袖が良い。
 お守りのように懐に忍ばせたのは、幼い頃から持っている小さな鈴だった。
 そんな服を着ても最後には薄い化粧をまとったのは、どんな心根によるものだろう?
「よし」
 そして、覚悟を決める。
「――行こう」
 
 アリス・パウルは、高いそらの森を焼く。
 
「……覚えておいて。私が最後まで、反対してたっていう事はね」
〈風の広塔〉に入る時、ロビンから聞いたのはそんな言葉だ。
 本来この建物に入れる人間は、バベル・パウル以外にこのくにに一人もいないと言って良い。
 建物としての整備を行う技師すら行動を制限するその塔には、アリスを護衛するべき男達すら入れなかった――もっともそんな建物に、アリスを害そうとする者が入り込めるはずもないが。
〈水の広塔〉管理者のロビンも、彼女が管理者だからこそ、〈風の広塔〉には入れない。
 ロビンは本当に最後まで、森を燃やす事に反対していた。結局はアリスとバベルの2人がかりの攻勢に押し切られた形だ。
 そして、彼女以外からの声は混ざり合って歓声としか聞こえない。
 塔に行く時には、町中の人々に見送られた――3日前にはディイ達を交えて町中で立ち話などしてしまったけれど、結果がここまで大きくなるとは思わなかった。
 ――ロビンの声に、そして皆に頭だけ下げて、アリスは塔の扉を開いている。
 そして〈風の広塔〉の屋上にまで彼女が引きずってきたのは弓と矢、それに油に布に火打石だ。
 どれも何の変哲もない代物だけれど、すぐに魔術のための意味を持つ。
「は、ぁ…………」
 今まで登ってきた螺旋階段を恐れるように、アリスが来た道を振り返った。
 階段と背負い続けた荷物と長い路程を足した当然の結果として、床に崩れてしばらく荒い息をつく。
 計画通り途中で効率的に休憩を挟んで、たった1時間・・・・・・で屋上まで登ってこれた。
〈風の広塔〉は儀礼も信仰も関わりなく屹立する、道具の怪物だった。
 アリスすら塔に関しては、後継者候補としてバベルから情報を聞いていただけで、登った・・・事はなかったのだ。
 塔の床は、巨大すぎる血管だった。
 踏み締めると弾力が無い。不気味な柔らかさもない。ほとんど木の床と同じ感触で、圧倒的な重量感しか伝わらない。
 地竜パウルの大動脈――精細な魔術によって水脈にも鉄鉱脈にも変わる力の塊が、地下から浮き上がりここに繋がっていた。
 故に広塔。ただの建物でありながら、広すぎる範囲への影響力を持つために。
 けれどその圧倒的な価値も、〈風の広塔〉の本質の半分でしかない。
 今回においては、その半分の本質は意味すら持たない。
「あ――は……ぅ……」
 目を閉じ、足を投げ出しても、呼吸が収まらない。いい加減、歩き詰めの疲れも少しは取れてくるはずなのに。
 風の吹きすさぶ屋上に、怯えが止まらない。
 魔術の根本は対象の目視と、精骸の確保だ。
 対象物を目視でき、変換すべき精骸――竜の血肉を把握しているのなら、詠唱などは個性の範囲で済ませられるものに過ぎない。
 だが、目視には当然限界がある。論理的には地竜パウルの端に立てば反対の端までを見通せてもおかしくはないけれど、丘陵や建物は視界を塞いで無差別な魔術を防止する。
 そして〈風の広塔〉は高い。
 馬鹿らしいくらいに高い。この世全ての金と資材を使っても、同じものをもう一つ建てるのは難しいほどに高い。
「――――」
 視線を落とした町は小さく、人は目に粒としか映らない。
 ――世界パウルの全てを見渡せてしまう事が、恐ろしかった。
 延焼と言うものがある。もし自分が塔下の町を火の海に沈めようとしたならば、バベルはどうする気なのだろう?
「――――い」
 止まらない、とアリスは呟いた。
 良質な弓を貰い〈風の広塔〉の使用権を借り受け、すぐ隣には航自機まで停まっている。
 なるべく借りる手は少なくしようと思ったのに、まだ魔術を始めてすらいないのに、バベルを介してこれだけの恩恵を受けた。
 それだけではない。今現在のバベルもロビンも――そしてディイも、当然のように自らの意思でこの計画のために動いていた。
 市井の人々が計画の全容を知っているとは思えない。アリスがバベルの敵討ちに森ごと敵を焼き殺すのだと思っている者もいるだろう。
 けれど本当の事に近い推測をして、それでも自分を応援している者も、いるのかもしれない。
「止まらない」
 森中の獣を焼き殺してでも、人間同士が傷付けあう事を止めると誓った約束を守る。
 弱くて怠惰な自分自身に誓った約束も、今は力となってくれる――
 ――油と布、そして弓矢。
 布は矢の先端に巻き、油は手につかないように注意しつつ布に染み込ませる。
 火打石を鳴らすとあっけないほど簡単に、矢に火が灯った。
 人を傷付けられる本物の、しかし魔法によるものではない火を用意する。
 見下ろした森は、歪んで潰れて中身・・がはみ出た楕円という風情だった。
 黒に赤や緑が斑に混じった、竜の血肉の結果は放埓すぎて、詠唱し目視すべき焦点すら定まらない。
 そして森の端にへばりついている付属品がこの町だ。
 ――本能的な恐れを覚え、矢を手放しそうになった。
 全てを焼かなくても良い――計画通りに自分に言い聞かせ、恐れを打ち消せずとも体内に押し込めていく。
 弓を構え、矢を番え弦を引く。たった数十時間の付け焼刃の、今成果を挙げなければ何の意味もない訓練通りに。
「はっ――」
 火矢の照り返しが熱い。すぐに放たないと、矢が燃え尽きてしまう。
 3秒待って、それでも呼吸が収まらなかったら射とう、と思う。
 1秒の空白で気が狂いそうになった。
 2秒の待機で諦め、姿勢だけは訓練通りのまま矢を放つ。
 けれど弦が風を裂く音は、ひどく美しかった。
「――あ」
 当たった。
 今いる床に突き立ってもおかしくなかった矢が、狙い通りにこれから・・・・焼くべき中心に当たった。
 森の中で塵のような赤い点が、それでもじわりと視界に滲む。
 炎は焦点・・だった。けれど湿った木の中でその炎が消えるまでには、1分もかからない。
 今度は1秒も待たずもはや矢を番えていない弓の弦を、もう一度引き絞る。
 張力を限界まで溜めた弦は、指当て越しにも軽く肉に食い込んできた。
 ――これが自分の個性ならば、ひどく無駄の大きい個性だとも思う。
 けれど、もう一度指を離す。
 矢のない弓から、魔術をはなつ。
 竜の血肉で造られた森の中に、点がもうひとつ灯る。
 赤くそして白い点は、アリスの魔法陣――アリスの個人色と魔術の炎が、混ざり合った色だった。
 弦の震えが収まる前に、もう一度構える。訓練通りの姿勢で。
 まばたきは一回のみ。指から腕へ、腕から全身へと侵食する悪寒は、疲れではないと思い込んだ。
 はなつ。月が薄明の中に浮かんでいた。
 はなち、既に森の中の赤は点ではない。
 4度弓に架空の矢を番えても、まだ足りないとアリスは理解していた。
 疲れが吐き気と結びつき、胃から喉へと突き上げていても。
 ――4度目で風を制御し、炎の向きを操る。
 森の詳細な地図はなくとも、人が一日に歩ける距離の限界から、追い立てるべき者がいる可能性のある範囲は分かっている。
 雨水を利用する貯水池をはじめとして、町に近くとも人の住まない場所はいくらでもある。森の一点から扇状に炎を広げそんな場所まで追い込んだ後、待機する警吏の群れが捕らえるべき者を確保する――
 ――5度弦を振るわせる。炎と魔法陣が視界の中で、錯覚を覚えるほどにおおきくなる。
 そして疲れは既に痛みに近い。今すぐ弓を捨て、うずくまって泣き伏せりたくなった。
 けれど胸の中で渦巻く感情が、それを許してくれない。
 怖かった。今止めてしまい皆に蔑まれる事も、自分自身を裏切ってしまうことも怖かった。
 そして自分がこんな大それた魔術を使えている事が、隠そうが押し殺そうが目を逸らせないほどに嬉しかった・・・・・――
 ――魔術を重ねるほどに、森の中が見えると錯覚する。錯覚は常識を通り越し、枝から落ちそうな一枚の木の葉も、土の中に埋もれた天然の水晶や天然の糸の塊もまたえていく。
 自分は神に祝福されているとすら錯覚する。恐怖と背中合わせの全能感に襲われ、最後の魔術をはなった。
 過密した視界の中で、森の中が爆裂したと思った。
 その結果も確かめないうちに弓を高く放り投げ、昂揚した神経が萎えてしまわないうちに次の行程に移る。
「――お父様っ!!」
 叫んだ。ほとんど、気が触れたように。
「いるんでしょ! 見てるんでしょ!?
 たとえ子供でも裏切るかもしれない、あたしの事を監視してないとおかしいよ!
 ごめんなさい、今からお父様が計画通りの風を吹かせて――あたしは、現場に向かうからっ!」
 直感を無理矢理確信に変えて、アリスはそう言い放った。
「っ……!」
 返事も待たず懐から忍ばせていた鈴を取り出して、転げるように航自機の中に乗り込む。
 一人乗りの小型航自機は、子供の頃に乗ったように燃料・・の詰まった袋に翼をつけただけの塊も同然だった。
 扉すらない機内に駆け上がり、紐を引っ張って厚布製の風防を降ろす。
 鈴を鳴らし袋の中の血肉を風に変える行程は、既に歩くほどに自然にできた。
「ぅ――く」
 血が焼ける匂いが胃を収縮させ、服を汚してしまう事を覚悟した。
 それでも右手は勝手に鈴を鳴らし、力を溜めた脚を跳ね上げるように、一気に航自機の翼を風に乗せる。
 純白の魔法陣は、淡雪のように消えていった。
「――行かないと」
 今まで全ての者に隠していた計画を、力を背景にした薄甘い計画を、アリスは今こそ実行に移す。
 ディイを襲った者達の前に出て、戦いが始まる前に説得する・・・・
 誰も剣を交えないうちに自分で始めた事を止めるために、自分自身が行かないと――