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第3景
ディイがアリスの元へと向かって行く時、たったひとつだけ不審に思った事がある。
なぜあのバベルは、未だにディイの身体に牙を剥かないのだろう?
――その時のバベルは、それどころではなかったからだ。
自らの屋敷をエイダが離れ、彼女が〈新天地〉へと旅立って以来、ヒルトは退屈を持て余していた。
両肩から先に延びる義腕にも関わらず、ヒルトは〈人間騎士団〉の荒事屋だ。
騎士団長の指示がなければ動けもしない彼は、エイダの旅の護衛としても落選した後、こうして彼女の屋敷で腐っている。
「…………はぁ」
窓の外から聞こえる声は、物好きな芸人のそれか。
守る者がいない紛争の中の平和は、時にひどくむなしい。
まさか騎士団の同僚がエイダ以外にいない訳はないとはいえ、人材不足から単独行動を旨とする団員達は、どうも守るべき仲間という気がしない。
エイダが出かけて以来の日々の大半は、騎士団内部や他の組織とのしがらみで漠然とそこらの施設を警備させられて終わった。
命令というのは、大体が困難なほどいい。
だと言うのにこのご時世に、城壁を爆破して突入してくるような架空の敵軍を想定した任務をやらされていると、愚かさのあまり死にたくなる。
――でなければもっとくだらない用事か、さもなければロビンの相手で一日を潰す事になった。
成り行きから屋敷に留まった移民に過ぎない彼女も、虐待を受ける事はない。それどころか屋敷を駆け回るメイドも、気難しい園丁も――あのエイダですら、彼女にはなぜか皆が優しく接していた。
それは偶然に過ぎず、そんな態度の理由は人によって異なるのみだろう。それでもヒルトには、時に不思議な事に思えてしかたがない。
そしてある日にヒルトが自室で天井を見上げている時、ロビンはなぜかわざわざ彼の部屋で本をめくっている。
「――――」
言葉のやり取りは無い。単に話題がないだけの事だが。
ただロビンの本に視線をやる。
それは宗教書であり、寓話であり、識字のための教本でもあった。要するに、大人が子供を教育するための贅沢品だ。
内容を理解できているのか――分からない。
ヒルト自身の願望の次元ですら分からない。理解していて欲しい気もするし、どうでも良い気もする。
「――――」
外から聞こえる声がやまない。よく響く割には中途半端な声量で、何を言っているのか分かりそうで分からなかった。
この部屋の沈黙はあまりに薄く、無造作に身体の中まで染み入ってきて、まともな考えをする気をなくさせる。
益体もない回想は、浮かんだと思った途端に自らの脳裏を満たしていた。
――ロビンが死んだと思っていた時、ヒルトは全てに絶望していた。
ヒルトは傲慢な馬鹿だったので、自分自身を除いた全てに絶望していた。
“昇る雨”に両腕を溶かされ、更にあの時のアリスに胸を撃たれた男が這い進む様は、直立した芋虫か蚯蚓か。
“……お前は全ての人間が理想とする、物理的に挫折できない生物だ”
過去に漏らした言葉が蘇る。
“そこまでして目的を果たしたかったのなら、きっとその考え方とやらも間違いじゃないんだろうよ”
ヒルトはただの人間だった。たかが腕の2本程度で、物理的に挫折する生物だ。
それでも馬鹿には馬鹿のやり方があり、傲慢には傲慢の誇りがある。
生きるごとに胴が太くなった。無腕の身体で物を噛み、這い、立ち、歩き続ける日の中で。
ほどなく肩から先は枝葉と断じ、ヒルトは地を踏む脚の確かさと胴駆の重みをこそ求めるようになる。
――はじめは義肢とも言えない添え木を使ったが、油断しきったごろつきの柔らかな頬を貫くには、それで十分すぎたほどだ。
幹は太く、枝葉は硬く、人肉を押し潰すほどに硬く。
自らの身体の重みを知った人間の体術は、決して無力ではない。
「――――」
沈黙が、少し長く続きすぎる気がする。
自殺もせずに体術を鍛えたそもそもの理由は何だ。
今も服の下でうねる馬鹿馬鹿しい腹筋は何のためだ――主人の武具たる己を、もう一度鍛え直しただけの事だ。
絶対の忠誠を前提とする内陣にあって誠心を比較するのも無意味だが、それでも地竜の頃のロビンに、ヒルトは最も私心なく仕えている男だった。
彼女が罪人の凶刃にたやすく屈するか弱い乙女であるが故に、ヒルトはロビンの隠れる鎧だった。
彼女が罪人を、家を、町を焼いてなお進む王であるが故に、ヒルトはロビンの呑んだ短刀だった。
だから彼女が死んだと思った時、ヒルトは無様に折れている。
――折れた物を、折れたまま鍛え直した。
もう一度仕えるに値する主を見出すという、妄想を具現化させるために。
鍛錬により執念を純化させていく最中に、主を失った悲嘆すら炉いた。
忘れるでもなく全ての記憶をその手に掴む。時に悪夢にうなされ、時に幻肢を痛ませる、全ての幻影を覚えて認めて心に刻む。
忘れられない少女を、覚える事で弔ったつもりだった。
「――――」
結局死体が見つからなかったロビンを、せめて自身の心の中に。
「――――死体が見つかる訳ないだろ、馬鹿」
自分に呆れて静寂を破る。
「……あ」
それに反応したロビンがこちらに振り向くと、ばさりと音がした。
彼女が手元への注意を失った時に、本を取り落としている。
「むう」
ヒルトから視線を外した視界から消えた本を探しだす。まず前方から歩きながら探りはじめて、足元に落ちたものに気付かない。
「むー、むー……」
――これは冗談か。
弔い、記憶に変えたはずの死体が、今現在人の部屋で落し物の本に苦戦している場合、俺は一体どうすべきなんだ?
「…………こっちだよ」
ともかく拾ってやった。右手の鉤を使った結果は、掴むというより引っ掛けるという表現に近い。
「――、――――」
拾い上げられた本を見て彼女が何かささやいても、何を思っているのか完全に理解はできない。
何が言いたいのか読み取り、対応する事だけができる。当たり前の事だ。
「違う、俺が読みたいんじゃなくて――それも違うか? あ、蟻……ああ、そう、そうか」
“――ありがとう”
「どういたしまして、ロビン」
頬を掻き、今度こそ本を渡す。
何気なく彼女を呼び捨てている自分に、さっきから抜けていた気がますます抜けた。
「ん?」
本を手渡した後はすぐに読書に戻るかと思いきや、彼女は何か不思議そうな目で窓の外を見ている。
そんな横顔が綺麗だと、今更のようにヒルトは認めた。
綺麗な目、綺麗な顔。もう20代も半ばだと言うのに、成長するにつれ無垢な美しさが磨かれていく。
「……おい?」
そして、ロビンが突然部屋の鍵を開けて外に出ていった。
何の前触れも、なかったと思う。
唇は相変わらず閉じられたまま。今にも転びそうな危なっかしい足取りに見えるのが、ヒルトの偏見かどうかは分からない。
「おい、待ってくれよ――」
なぜか来訪した彼女が、なぜか今になって去っていっただけだと言うのに、追いすがった理由は自分でも分からない。
間違っても腕を掴むような事はしないが、追い抜いて立ち塞がる気にもならなかった。結局隣に付き従うように歩き、彼女の行く先を推し量る事にする。
「屋敷の外かよ」
前庭まで出ていって、ようやく行き先が分かった。
同時に、彼女は案外耳が良かったのだと理解する。
――欠けた旗の下もう一度、貴女と時を過ごしましょうか。
ヒルトは、戦慄した。
「ディイ……!」
世界全てに響く声は、風を利用した竜術だ。
歪んだまま響く声は粗雑で大規模、才能だけを存分に振るった荒削りさが目に見える。
だが、十分だろう。視界さえ届けば。
――竜ひとつ分の彼方を超えて、一瞬だけ彼と目が合った。
〈触彩〉の発展。あの広塔を越える高さを持った肉の樹に、視覚という名の実が生っている。
――語りましょうか。
黙りましょうか。
背中を背中に合わせたら、月が出るまで黙りましょうか。
声が響き続けるうちに、ヒルトの顔は赤みを帯びていた。
恥ずかしげもなく響くあの声が、中年にさしかかったむさい男にはたまらない。
ああ、恋の歌だ――
そして声が懐かしすぎる地竜情景を描き出すと、たまらない感じが胸にまで押し入ってくる。
ロビンの足取りは、少なくとも誰かに操られているかのような病気じみたものではない。
彼女は確かに自分の意志で、恐らくはあの歌の大本である〈新天地〉まで行こうとしている。
それは、一般には牽引計画以後渦竜と繋がった地の総称か、あるいは我竜中央部で発見された金山周辺の町を示す言葉だ。
だが、今のヒルトにとっては、〈新天地〉は奪回すべき聖地にすら思える。
実在せず影響して君臨する魔術には、望郷という名がついていた。
「……そうか」
ようやく気付く。
その美しさこそが、この竜術の狙いだ。
地竜からの移民は、逃げ出す余裕さえあれば皆が皆すぐにでも〈新天地〉へと駆け出しているとヒルトは思う。
そうしないのは無数のしがらみと、隣人に向く憎悪と、そして身ひとつでは辿り着く前に餓死するという単純な問題故だ。
――少なくとも、もうひとつ追加されるべき問題だけは、この魔術を使えば消えてしまう。
〈新天地〉で住人から差別をされないという保証はない? いや、保証はある。
皆で一斉に移動して、移民の方が多数派になってしまえばいい。それだけの話だ。
故に時計の針に蹴りを入れ、邪魔が入る前に全てを加速させて終わらせる。
計画者はエイダかもしれない。ヒルトが何も知らされていないとはいえ、ディイは自主的にこんな事をする性格ではないだろう。
だとすれば、〈新天地〉の将来も心配になってくるが――今は、それどころではない。
「ロビン」
心を込めて彼女を呼ぶと、偶然にも振り向いてくれるから運が良い。
「お前は、あそこに行きたいのか?」
――分かってくれ。
お前が分かるまで、俺は何度でも言うから。
「自分が弱くて脆いって事くらいは分かるはずだ。それでも行きたいのか。どうしても? どうしても、なのか?」
くどく言葉を費やしても、一向に反応はない。
反応は、
「お前も、アリスともう一度会いたいのか?」
「うん」
あった。
「……まったく、それなら早く言えってんだ」
毒づきながら手を差し出す。
ロビンがそれをぽかんと眺めていたから、仕方無しに指先から握って軽く引いてやる事にした。
「――?」
「とりあえず飯、服、外套。靴も履き替えろ、金も要るぞ。
さすがにこの旅は、長くなるからな」
しがらみの方はなんとかなる。憎悪の方は、のたくる竜のうち誰かにでも押し付けておくのが健全だ。
この腕で服を着替える事だけが難しい。
一方的に宣告してから、言いたい事は伝わったかと不安に思う。
「――、――?」
「もうちょっとはっきり喋らないもんかね。……ああ、うん、このままついてきてくれ。すぐ済むから、さ」
今度の返答は、うなずきだったと思う。
そうして歩き出す。
あの時のアリスの永遠とも思われる竜術の副産物として築かれた石の道――まずはあの〈月の長牙〉を目指し、ゆっくりと進んでいこう。
「ああ、全く――」
手を繋いだまま、ゆっくりとゆっくりと、馬鹿らしいほど不器用な速度で歩いていく。
歌うような独り言のその先は、脳裏に綴っていった。
――全く、こんな弱くて静かな女に、共感したと言い張れるほど分かってやれる奴の事が、この世のどこにいるって言うんだろう?
そいつは最低限人間ひとりを守れるくらいに強くて、しかも暇を持て余してなきゃいけない。
こいつを愛するように見守り、好いているようにその意を汲み、その全てを続けて飽きないご都合な奴は一体誰だ。
いつまでもひとつの事にこだわり、ひとりの人間に何年も仕えるような真似をして、それを誇りとする馬鹿は誰なんだ。
――あ、俺か。
恋歌を吟じながら、ディイは踊っていた。
踊るように戦うように、昔アリスだった今もアリスから伸びる触手を確保。
踊りながら踊らされながら外に外に言葉を肉体を紡ぎながら崩れ伸ばした手が手が手が唇が歌い詩を紡ぐ唇だけが確立。
「……壊れはしないよ」
それでも壊れない。
せいぜい聞くといいと思った。
どうせ、誰も後戻りなんてできないんだから。
視界の端の竜もまた動き出したが、今はそれどころではない。
バベルもまた、それどころではなかった。
彼は遥か昔の魔竜の姿を思い出すのに忙しい。