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第3景
渦竜と我竜の再接近の日――王都の日変わりの鐘が鳴り響く中で、アリスは微笑んでいた。
不死種と化してから3ヶ月、“昇る雨”から4年と半。
多くのものを切り捨て、更に多くのものから逃げ出し、辿り着こうとしている場所が空だ。
屋敷の中で日替わりの鐘を聞く。残響が消え失せてから、アリスの肢体が動きを見せるまでは一瞬だ。
彼女は顎にかかった鎖を引き、自らの唇を解放した。
「――じゃあ、行ってくるから」
微笑みを消した顔をヒルトに向ける。
彼はまるで後方のロビンを庇うようにして、視線だけをアリスに向けていた。
「お前は、これで良いのか」
言って来い、とヒルトは言わなかった。
今更になったはずの言葉を、彼は匕首のように差し向ける。
「……何が?」
屋敷を出ようとする足を止め、アリスはヒルトを見返した。
「たかが背中から脳が生えた程度で、何もかも忘れた振りをするな」
あくまでヒルトの眼は醒めていて、それでも口調は徐々に熱を帯びていく。
「〈展望〉でお前が作った〈塔〉は順調に散壊している――それなりに組織の維持に尽力していた癖に、お前があっさりあの地を抜けたせいでな。
今まで全ての問いをごまかしてきたんだろう? 〈塔〉という名の娼館と関わる事で、お前は一体何がしたかったんだ?」
答えはない。
答えは、
「……自分でも、分からないんだよ」
――答えは出ないまま、アリスは表情を崩す。
不死種となって以来縁のなかったはずの、しょぼくれた情けない笑顔。
「ニーナちゃんがどうでも良い男に強姦される様なんて見たくなかったから、あたしの家に引き入れた。せめて助けられる人だけでも、あの町に合わせたやり方で助けたかった――でも、あたしって、それを4年も続けられるような人間だったっけ?」
“……恨んで良いよ。
必ず、助けに来るから”
4年前に落とした言葉が、未だにこびりついて消えてくれない。
あの時はディイとふたりきりだったから、アリスが言葉の代わりにディイを助け出すような人間ではなかったという事は、誰も知らないのかもしれないけど。
「――だから?」
「……だから、せめて、あたしを好きって言ってくれた人だけは」
ヒルトはもう何も言わない。
ロビンだけが茫洋とアリスを見つめていても、アリスの笑顔はどこかで彼女と断絶している。
そして踵を返した。
「おねえちゃん?」
ロビンからの声。まるで姉のように自分の世話をしてくれた娘だとでも思っているのか、その呼び名はアリスにとっては不気味なくらいに純粋だった。
応えは浮かばない。
振り返りもしない。
永遠の別れを告げる仕草に、それは少しだけ似ていた。
屋敷から出た後、アリスは時間をかけて――2週間もの時間をかけて、ゆっくりと渦竜の突端へと歩いていった。
戦火に汚れた南の突端――〈石舟〉の町ではなく、無人の荒野に近い西の突端へと。
怪物の娘は、怪物として父と再会する。
見上げる必要もないほど間近に浮く我竜を、アリスは正面から見据えていた。
遠目には垂れ下がる触手に見えたものは、良く見れば天然の樹木だ。この生物は、既に人間が移住するには十分なほどに壊れている。
すぐにその事を忘れ、アリスは一歩踏み込んだ。
「子よ」
魔法陣が浮かぶ。
“――子よ。私の歌を、”
鞘を捨てるように唇を開き、親を子と呼んで詠う。
“――ゆりかごは、ここにあるから、”
我竜の内部から風が吹いた。
アリスが精骸を変えて吹かす風は我竜それ自身の発する風と対流し、異様な歯軋りと化して辺りを包む。
そして風の暴走は、小屋程度の大きさの肉塊を弾き出す事から始まった。
渦竜と同じだけの大きさを持つ竜が、たった一人の魔術によってゆっくりと千切れていく。
“――私は疑わない”
“――私は疑わない”
“――私は疑わない”
詠唱は止まない。今にも潰れて千切れそうな視神経を肉体術により強化し、見開いた目を閉じることは決して無い。
アリスが器物を使う作法を捨てて、声による詠唱を選択した理由は自分でも分からなかった。
ただ別れ際に目にしたロビンの茫洋とした表情は、無関係ではないだろう。
そしてアリスとロビンだけが知っていた秘密を、ふと思い出したという事もある。
彼女が威風堂々と発していた魔術唱詩の原典が、一介の子守唄に過ぎないと言う事を。
“――私は疑わない、あなたの眠りを疑わない。”
我竜が本能による痙攣を始める中、アリスは笑い出したくなるような悪寒に震えていた。
痒くて仕方がないのは頭蓋の中だ。痛覚を消した報いとばかりに、魔術の反動による幻蝕が跳ね回る。
しかしそんな事は、目前の脅威の前では些細な事に過ぎない。
何しろアリスは竜を敵に回している。
身体の欠けた竜はそれを補うための精骸を求める。アリスが精骸の塊と化したならば、我竜の次の行動は明白だ。
認知はできている。
覚悟は、
「あ」
喉から出た声は弾けた。
身体を拘束していた鎖が砕け、少女だった肉塊が倒れ込む。
我竜が何の気無しに落とした触手によって、アリスの上半身は爆裂した。
撲殺と言うには素早すぎ、虐殺と言うには孤独な死だった。
アリスが人間であったならば。
「……あー」
そんな声を落とした。意志による声ではなく、ただ声帯の再生の一環として。
アリスが再生していく。
腰から上の肉体が生えていき、髪は空に溢れるように広がった。
ばさり――頭の振りにより髪を翻し、アリスは再び を見据える。
戻る場所をなくした者の瞳だ。
「あ……う……」
目前の が分からない。
から断裂した肉砦を見ても、それと自分との因縁が分からない――
「――――――!!」
思考を押し潰すようにして、少女は絶叫する。
眼前の我竜を、その存在から丸ごと忘れかけていた。
今は幸運にもその程度で済んだが、もう一度頭脳と同時に魂を弾き飛ばされてはかき集める事もできないだろう。
死ぬ事を生きていけなくなる事と定義するならば、彼女の死は眼前に迫っていた。
記憶がなくなる。自分の姿を忘れたならば、再生する肢体は人の形から外れていくしかない。
生きる目的すらなくし、他の竜との融合を肯定するならば、肉に融けていった無数の不死種と結末は変わらない。
――その事もまた、認知はできている。
「……私は、疑わ――」
再度の詠唱は、今度は水音に似た濁音によって中断された。
我竜は渦竜に近付き、降下しつつあった。
粘液状になって垂れ落ちる“尻尾”に飲み込まれ、アリスは瞬秒のもとにその姿を消す。
だが、それは彼女の真の死を意味しない。
莫大な重量を持つ粘塊により圧死しても、人としての目的さえ覚えていられれば、それを元に再生できる。
だから奪った。
圧縮された津波のような轟音が響く。粘塊の中での魔術により、街道ほどの太さを持つ“尻尾”は半ばから断裂した。
「ぷあっ……」
粘塊の中から顔を出して息継ぎをし――未だに必要もない呼吸を続けている事が、内心では妙に可笑しかった――“尻尾”を自らの体内へと取り込んでいく。
そしてディイの元へ向かい、彼女は粘塊の中を泳ぐように進んでいった。
つまり、アリスが今まさに取り込んでいる最中の“尻尾”を辿っていく形だ。自分自身に所属するモノの中を移動するのは、ひどく奇妙な感覚であると同時に非効率的でもある。
アリスはより効率的な手段をとる事にした。
まるで潜水のように大きく息を吸ったかと思うと、先ほど顔を出した粘塊の中に潜り込む。
数秒もたたずに“尻尾”が断裂した箇所、目的と最も近い位置から顔を出した。
街道ほどの太さを持つ“尻尾”の長さは、断裂した部分だけでも町と町を結ぶ程度の距離がある。肉体を使っては有り得ない速度を出せた理由は、単に潜った時点で肉体を不定形化して、目標の地点で粘塊から肉体を再構成しただけの事だ。
潜ったままの下半身は定型化する必要も感じない。背中の脳髄だけは原型のままで粘塊の中に置き去りにしようかとも思ったが、結局はむしろ自己の肉体ほぼ全てに増殖させる形になった。
雨の後に芽吹く新芽のように、“尻尾”の全面に繊毛のような神経が震えだす。
その光景――否、その触覚にある種の満足感を覚えた時点で、アリスは自らの人間性の半壊を知った。
殺し合いとすら言えない奇怪な闘争の中でも、大半を支配するものは本能だ。
人間の上半身を保つ事にすら不自然さを感じる。この身体全てが必要としないものから忘れていくならば、次は自分の容貌を忘れる気がしてならない。
――こんなめちゃくちゃな身体、誰かが見ていなくて良かった。
理性が働くうちに思った事は、本当にどうでも良いことだった。
渦竜の突端に位置したまま、目標とはまだ空を隔てて離れている事を確認する。
「……私は、疑わない」
竜術で空を飛ぶ事にした。できないとは微塵も思わなかった。
風を巻き、地面と反発するようにして浮かび上がる。同時に我竜の本体が自分に向かって覆い被さってきても、それを突破できないとは思わない。
疑いはない。
――おねえちゃん、だってさ。
いまだ、ほんの少しだけ怯えても。