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第2景
アリスがロビンを出し抜いたように、ロビンはアリスを出し抜いた。
そしてようやっと気付くのだ。
道を別する時が近いと。
同類だったふたりも、ついに同一にはなれなかったのだと。
「……そう、分かってたのね」
ロビンの顔からは、表情が消えていた。
――アリス以外の者が見たならば、彼女は本当に冷静でいるかのように見えたかもしれない。
そしてそんな思いを脇に置いたまま、言葉は勝手に綴られていく。
「この町全体に地上との交易の痕跡があった、カミロとの話があっさり終わりすぎ、そもそもあんまりにも平然とここに入ってきて――あの時“どうして”って聞きたかったよ。どうしてあたしの居場所が分かったの、って」
「……この場所は知ってたから。航自機を飛ばしたわ、着陸したのを後でごまかすのは難しいかもしれないけど」
「焼き討ちに反対したのも、カーレン達の正体を知ってたからだよね? でも、本気で止めてくれれば――姉さんの考えてる事をあの時に話してくれれば、こんな事にならなかったのに――」
「アリス。その時の事にも、ちゃんと訳が――」
「それはいつだって、訳くらいはあるでしょう!?」
気が付いたら、叫んでいた。
「あたしにだって訳はあったよ! 誰も傷付いて欲しくなかったの! 人が死ぬなんて考えたくもないの――あたしの大切な人達だけは! 卑怯者呼ばわりされてでも、馬鹿だって言われても、あたしは……それは、それだけは……」
徐々に小さくなる声の中で、アリスは一喝されるだろうなと思う。
いつものように今までのように明快に、自分の小さい考えなどはすぐ弾き飛ばされる――
「……ったの」
「え?」
けれど、予想は外れた。
「……あなたは、巻き込みたく、なかったの」
ロビンが、恥ずかしそうにうつむいている姿を、最後に見たのはいつだったろう。
「本当に……あれだけは予想外だったの。アリスが単独で森に向かうなんて……
……ねえ、アリス。本当に今更だけど、私、自分のしたい事にあなたを巻き込んでも――」
「――姉さん」
未だ傷付いたと主張しているのは、胸の中の誇りと自称している何かだ。
それを押し留め、自らの胸に手をあてて、言うべき事を言う。
「あたしは、もう戻れない。姉さんの考えてる事を、知りたい。
――もしかしたら協力はできないかもしれないけど、ひとつだけ約束する。
これからは、姉さんを出し抜こうとなんかしない、って」
ロビンが沈黙する。
「……わたしも……」
そしてアリスの指に、ロビンがほんのひとときだけ指をあてた。
長く冷たい指をわずかに曲げて約束と呟いたのは、指切りを真似た行為だろうか。
「――ふふ」
その指を見ると、照れたようなからかうような笑みが浮かんでくる。
「あ――姉さん、でもどうして、あんな事をさせたの?」
「……家財目当て、というあなたの言葉は、実際それなりに正しかった。
それと、私は確かに吸血種と同盟している。〈水の広塔〉の住人の大部分は吸血種の存在を知っているわ。
けれどそれは、自分一人で権力を独占するためなんかじゃない――もしかしたら、結果的には、それに近いことになるかもしれないけど……」
語尾に苦渋を滲ませつつ、ロビンが言葉を続ける。
「ともかく最近のバベルには――バベル卿には、行動に不審な点が多すぎるの」
ロビンの言葉からわずかに感じられるのは、苛立ちと怒りだ。
アリスはその正体を知っていた。
アリス自身が恐怖と誇りから動くように、時に彼女は怒りから全てを動かしてくる。
「3日前の貿易の時に卿の〈広塔〉での魔術の終了が遅れてたのは、その直前まで彼が異常なくらいに溜め込んでた仕事を片付けてたから。
私もその使者の一人だったけど、使者や伝書鳩や手紙が山積みになってたわよ。
言ってしまうとそのせいで、彼の信用と実権はひどく低下して弱まってる――そこはアリス、大量の警吏を動員しておいて計画に失敗したあなたも一緒だけれどね。
ともかく卿は元々権力へのこだわりは薄い性格だったけど、いきなり仕事を止めたも同然の状態になっているのは酷すぎるわ。
それに、あなたがここに来るはずないって思ってた理由の中には、バベル卿があなたを止めるだろうという事も含まれてたのに……
アリス。あなたも、卿の書斎と寝室には出入りできないと前に言ってたわよね?」
「――じゃあ、姉さんが狙ってたのは」
「情報。彼の計画が何かはまだ分からないけれど、誰だってその走り書きくらいは残しておくものよ」
押し黙る。そんなバベルの状態を、今まで全く知らないでいられるほどアリスは間抜けではなかった。
ただ、怖かった。
アリスの父親であるバベルは、他者への愛情に溢れた人間だ。他の誰が否定しても、それだけは断言できる。
アリスは母親――アイーシャの顔を知らない。物心がついた時に聞いたのは、アイーシャはお月様になったんだよ、という言葉だけだ。
――おとうさま、なかないで。
確か、そう言ったのだと思う。
――おとうさま、ないてないけど、ないてるから。だから、なかないで。
そう言った。自分の心が、感じ取った通りに。
けれどその認識が間違っていると、仮に確かめてしまったら、自分はどうなってしまうのだろう?
「――ちょっと待った。バベルの状態がそうなら、こんな回りくどい事しなくても表から追い落とせるんじゃないのか? アレだ、ナントカを開いて糾弾するとか」
アリスが沈黙している間に、カミロが口を挟んでくる。
「査問会よ。……確かにそれは考えたけど、現状バベル卿の仕事を肩代わりできる者もまたいないの。
それに管理者が一人でも査問会に呼ばれる時は管理者全員が会に出席するのが慣習になってるけど、ノエル卿がいるのは航自機でもそうそう辿り着けない遥か彼方だし……
卿が管理者としての役割を放棄したわけでもなく、こっちが具体的な情報も持たない以上、管理者を集合させるだけの規模の査問会を開くのは難しいわね」
「アリス以外の権力者に頼るのは――」
「似たようなもの。無難な範囲で打診はしてたけど、あっちも忙しいの」
「……じゃあ、取るべき手段は」
「アリス」
言ったのはロビンではなかった。
軽くうつむいて悩みがちに、だけど滲むような誠意を携えて――少なくともアリスに殺されかけた事を棚上げにして、カーレンがアリスを見つめる。
「ディイを説得して。彼なら不意を突いて、どこにでも侵入できるの」
「――え?」
「そうね。私も、それはひとつの方法だと思う」
同意を返してきたロビンに、アリスが助けを求めるような顔を向ける。
「……今更そんな顔をしないで。私があなたを巻き込むと言うのは、そういうことよ――あなたが巻き込みたくない人も、巻き込んでいくという事」
「で、でもディイ君は、ただの吸血種――」
「――違う。私が吸血種とそれなりに付き合えている理由はね、彼らも殺したら死ぬということ。
それにね。あの再生が肉体術だったとしたら、あなたにも魔法陣の気配くらいは感じ取れたでしょう?」
「……じゃあ、ディイ君の種族は? それにお父様の目的って、分からないの?」
「どちらも推測はできるけど、私は知らないわ」
「……姉さんの、目的は?」
「平和よ」
漠然とした言葉に、どうして彼女は万感を込められるのだろう。
「――アリス。私、急いでるの」
言ってロビンが、アリスから家の扉へと視線を向ける。
そして、ロビンは本当に急いでいた。
「アリス」
それは少年の声だ。
立ち込める血臭など無いような顔をして、ディイが吸血種の町にいる。
「……君も疲れているのかな、まず皆で食事にしたらどうかと思う」
難しい事を言ってくれると思う。
けれど、疲れている事だけは事実だった。心底から。
食料は意外にも、ロビンの護衛達が出してくれた(こういう時のために常に持ち歩いているらしい)。
アリスは自分で思っている以上に空腹だった。ディイの事も血の匂いもそのままで、家の焜炉で軽く炙った干し肉を黒パンで挟んだ食事を出されると、リスがかじり取るような速度で食べ始めてしまう。
むしろ相変わらず定期的にやってくる、揺れとわずかな音の方が気になるくらいだ。
外で待っていた彼らも家の中に入れて皆で食事をするのは、ほんの少し楽しかった。
「てぇかさ、気が狂いそうなくらい狭いんだけど――ああこの、触んなバカっ」
「む、悪い」
テーブルを囲みほとんど触れ合いそうな距離で、肘を動かした拍子に胸に触ってしまっても、慣れているのかモールはカーレンに平然と応対している。
眉根が寄っているところを見ると、案外本当にすまながっているのかもしれないが。
そんな家の中をエールとヒルトは貴重な腸詰を取り合い、クラウスとラウニーは周りを面白そうに眺めつつ食事を楽しんでいる。
ロビンは保存食を、感心するくらいゆっくりと上品に食べている。食欲がないと家の外に立っているファビオも、水だけは遠慮無しに飲んでいた。
そしてカミロとカーレンは自前で料理した血晶を、お互いを牽制しつつ分け合って。
けれどアリスはゆっくりと干し肉を噛み締めつつ、どうしても対面の少年を気にしてしまう。
「……ディイ君、食べてる?」
「ああ。美味しいね、黒パン」
――誰も彼も、なんであたししかディイ君を説得できないって思ってるの?
そもそもあたしが、どれだけディイ君が傷つくのを怖がってるって思ってるの。不意を突いてって、この子の不死を利用してのことじゃ――
「その。……今までの話、聞いてた?」
「ほとんど。うまく筋道立てては言えないけど、確かにバベルさんには、どこか怪しい所もあると思う」
「……アベル、家に置いてきちゃった。ちょっと心配だよ」
「ロビンに航自機に放り込まれる時に様子を見てきたけど、その時は元気そうだったよ」
「――――」
「アリス?」
「え?」
「僕自身の身が危険に晒されるのは別に構わないけれど、バベルさんには義理がある。僕はどうすれば良いと思う?」
それがあまりに淡々とした声だったので、一瞬ディイは本当に考え込んでいると気付かなかった。
そうして、アリスもまた思考の迷宮に沈む。
――ディイを傷付けさせるような事はできない。けれど、今更何もしないでいることもできない。
――吸血種。竜の体内に住み、竜の血を飲み、竜に近付いていく。
――竜。知る限りでは無限の生命力を持ち、無限の成長を行う生物。
――バベル。目的は未だ不明。けれど仕事を棚上げするくらいの用事が出来たことは確からしい。
――ロビン。吸血種と同盟し、その一部を手勢としてバベルの調査を行っている。
――ディイ。正体は不明。けれど、魔術以外の方法で肉体を再生したことは確か――
顔を上げる。結論が出た事に驚いた。
確実な手法ではない。相変わらず今もって、アリスには確実な手法など思いつけない。
だけど、試してみる価値はあるだろう。
「……ディイ君」
「ん?」
「肉体術を学んでみる気は、ない?」
「僕が?」
ディイがわずかに、戸惑ったような声を出す。
そして他の誰も、そんな声は出さなかった。ロビンも。
誰もが思いついても言い出せなかった事を、アリスがようやく言ったとばかりに。
「……そうね。多分、あなたは――」
わずかに手を掲げて、アリスはロビンの言葉を押し留めた。
また言葉を遮ってしまったと思う。けれど、これだけはアリスの口から伝えたかった。
「ディイ君。きみはもしかしたら、人間の姿をした竜なのかもしれない」
しばらくの間があった。誰もその言葉を、否定しようとしない。
「驚いたな」
ディイの茫洋とした顔を見るうちに、自然に彼の頬に手が伸びた。
「アリス?」
「――魔術の本質は見る事だって、あたしは思ってる」
その言葉もまた、ごく自然に流れ出している。
「それは対象の視認。そこにあるんだって思うこと。
対象はどう見えるか、行動しているのかしていないのか、それは自律的なものかそうでないのか、対象に自分が何を望んでいるのか、対象が周囲の中でどんな役割を占めているのか――この場合は、対象は何者なのか、って。
だからこの魔術を学べば、ディイ君は今よりもっと良い顔できるようになるはずだよ。
きみに心はあるから。自分の心を見て、それがどんな心か知るのが、意味が無いはずがないから。
――もしディイ君に、肉体術の才能なんて全然なかったとしても、きっとそれは良い経験になるよ。
それでね。誰も傷つかないような魔術を覚えたら、使ってみてほしいな」
言うべき言葉は、すぐに言い尽くされた。
ロビンが気の抜けたような顔をしていると、視界の端で認識する。
「ありがとう」
そしてその声を聞き、ほんの少しだけ後悔した。
ディイが微笑っている。
「ごめん。――あは、良い顔してるよう」
血の海と陰謀の中で、アリスは満面の笑顔を返す。
彼を守りたい。世話をしたい。この時まではいつもそう思っていた。
けれどディイの笑顔を見たいと思ったのは、生まれてはじめての事だ。