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第3景

〈穴〉から〈風の広塔〉の町へと落ち延びたアリスが最初にしたのは、全てを話す事だった。
 火事もようやく収まってきた後で、選んだのは広場だ。
 鐘を鳴らし、なるべく多くの者をそこに集め、壇の上から――地竜パウルの死について、何も包み隠さずに語る。
「――――」
 帰ってきたのは、怒声よりも恐ろしい沈黙だった。
 住まうべき竜が死に、その血肉の増加が途絶える事が何を意味するか、この世界で知らない者はいない。
 反論が無いのは既に町中の精骸の流れに異常が起きているからだ。アリスの言が皆の不安に対する厳密な答えとなっているのでなければ、この沈黙はありえなかった。
 ただその沈黙は、安堵からは最も遠い。
「……結論は」
 誰かが聞いた。もしそれに対して答えられなければ、間違いなくアリスは発生する暴動に飲み込まれて殺されていただろう。
 けれど、言うべき答えは既に決まっている。
地竜パウルの住人全員が、渦竜ノアへと移民しなければなりません」
 ――渦竜ノアとの再接近の日から、14日が過ぎた。
 移住すべき場所は既に遥か空の彼方で、最大の航自機を飛ばしても途中で燃料が尽きてぬ事になる。
 だが、それでもアリスの中に計画はあった。
 町を捨てるまで、その準備の時間に計画を突き詰めて完成させる。独りでそれをやれる自信はなくても、協力する者はきっといるだろうと思う。
 人類はしぶとい。
 
 
 そうしてアリスとその一党は、たった2日で町を捨てた。
「……は、ふ」
 町から歩いて半日。今は小休止の時間だけれど、アリスにとってはやる事が多い。
 まず隊列の見直しが急務だった。病人や子供が後ろの方にいるのでは、皆が彼らの速度に合わせて進む事ができない。最前列とは言わずとも、もう少し前の方に進ませるべきだろう。
 そして隊列を素早く動かすには馬を使った方が良いが、連れてきた馬や豚は予想以上に飼料を消費している。今のうちに何割か屠ってしまうべきかもしれない。
 それと持ち歩く精骸も多すぎる気がする。いくら貴重品ではあってもこの状況では飲み水と同じ意味しかないのなら、その重みによる体力の消耗を避けて現地調達を基本とした方が良いのだろうか。
 争いや病気に関しては特に報告は入っていないが、だからと言って警備と衛生が完璧であるはずがない。準備の時にやや注意が逸れていた分だけ検査の必要がある。
 また合流してきたのは人間だけでなく〈穴〉から逃げ延びた吸血種もだ、彼らと人間との融和も欠かせない。今のところは肉体術コンジャリングを操れる吸血種にはなるべく隊列の警護に就いてもらって、彼らが人間の敵ではない事を示すという案がある。
 とにかく何もかも早いうちにやらなければ、その分だけ脱落者が出てしまう――
「は、あは……」
 ――いっそ、笑いが漏れるほどに疲れていた。
 火事の時からずっと痛む左目と共に、最近つけられた右腕の傷がうずく。
 現在ひどく硬くなった地面にくに座り込んでいるのは、広場で見た人ごみなど物の数にも入らないような大行列だ。
 傷付いた者のあまりの多さに、眩暈を起こしそうになる。
 誰もが思い出と共に荷物を携えていた。一部の者は飲み食いをし、残る者は口中の唾を持て余していた。
 具体的な人数は数えたくもないが、5万人に届いていたとしてもおかしくはない。少なくとも行進の開始時点の人数の2倍は越えているだろう。
 町の皆で出発してから1日も経たないうちにこんな夢のような人数がアリスの元に集まってくるのは、彼女の予想を遥かに越えている。
 あの火事の時から、たかが人間ひとりで面倒を見られるような数を相手にしている訳ではないと言う事は理解していた。
 だが隊列の先頭で欠け月の大旗は、全ての流民に対する目印として、傲慢なほどにまざまざと翻っている。
 この行列――いや、進軍・・の人数は、5万人の峠を越えて更に増え続ける事が目に見えている。
 近いうちにもっと効率的な指揮のしかたを覚えなければ、疲労だけで死んでしまう。
 できれば誰かに指揮権を委譲したかった。しかし血縁関係と魔術の能力を除けば一介の貴族の少女に過ぎないアリスが未だこれほどの権力を振るっている理由は、人材不足のせいだけではない。
“要するに、輝やかしかったのですよ”
 大火の中で旗を持ち魔術を行使していたアリスを評し、誰かがそう言っていた。
 せいぜいが移民の終わりまでだろう。ただ、それでもアリスは認められている。
 それが嬉しかった。疲れの中で自分から指揮を続ける理由になるくらいに。
「……姉さん、いつ合流して来るのかな」
 ふと呟く。
 ロビンは〈穴〉で気絶したところをアリス達に運ばれ、そして目覚めた直後に可能な限りの速度でアリスから離れていった。
 地竜パウルの血流が絶えていく最中、〈水の広塔〉管理者がどこにいるべきかなど分かりきった事だ。
 ――彼女と〈水〉の群集が合流すれば、問題は人口と共に加速度を付けて増えていくだろう。
 この進軍の危機を見逃すまいとすればロビンに会う機会すら無い。さよならと口にしたのは、きっとそういう事だ。
 だけど、それでも〈水の広塔〉の進軍・・を、早く目にしたい。
“私はおかしくなってた、それだけ”
 アリスの腕の中で目覚めて、ロビンはそう言った。
〈穴〉でのロビンは、誰も彼も忘れたような顔で、死にたいと叫んでいた。
 目覚めた後はそれが嘘のようだ。記憶は明確、思考も冴え、挙動も言動も普段と何も変わらない。
“姉さんは頑張ったんだよ”
 そんな彼女を、アリスはできる限り優しく抱き締める。
“誰にも真似できないくらい頑張ったんだよ。姉さんを責める人なんてどこにもいないよ。……姉さんは負けたけど、誰にもそれを責めさせなんかしないよ”
 交わしたはずの別れの言葉を嘘にして、彼女がアリスにずっとついていてくれるなら、ずっと彼女を守ってみせると思った。
“――だから姉さんは、もう頑張らなくても良いんだよ?”
 そしてアリスのささやきを、彼女は微笑んで否定した。
 だからだ。
 だからロビンが苦しくとも辛くとも、彼女が管理者として胸を張っている証拠を、もう一度見たかった。
 二度目の別れは正しかったのだと、今は信じたかった。
 
 
 そして予想通り〈水〉との合流後もロビンとは会えず、彼女とは伝令を通じて事務的なやり取りをするだけの関係になっていた。
〈地の広塔〉管理者ノエル・パウルには進軍の開始前から渦竜ノアとの外交を任せていて、そのせいかどうか〈地〉の合流はやや遅れている。
 誰もが痩せ、一度は何らかの病にかかり、幾十人かが力尽きた。
 兵団と警吏は事実上統合されたけれど、その過程では兵長と警吏長とは何回も話し込んでいる。
 アリスは地面に座ったまま眠れるようになった。皆がそれ以上の驚きを目にしていたからだろうか、吸血種と人間の対立事件は意外なほど少なく、10万を遥かに越える・・・・・・・・・・隊列は順調に進んでいた。
 気高き黒森。〈水〉の進軍を見ていると、そんな言葉が浮かぶ。
 ――人が全ての能力を使って生き延びようとする意思が、気高くないものである筈がない。
 現実の森が急速に枯れていく只中で、彼らは何よりアリスを安堵させる確実さで歩いていた。
 けれど〈風〉の進軍は今は止まっている。希少な懐中時計を使っての小休止は、十分ではないにしろ定期的にやって来た。
 現在先頭集団は廃村に引っかかっている。子供と病人を優先し、入れる限りの数を放棄された家屋に入れて暖を取らせていた。
 村中に死体が転がっているが埋葬はしない。こんな状況で数十人が必要な労働などは一度も命じたくないのに、前例を作ればこの先何度も・・・・・・同じ行為を強要する羽目になってしまう。
「ねえさま、アリスさま――」
 もうすぐ夜が来るだろう。そんな具合に雲がざわついているさなか、女の子の声がした。
「――ニーナちゃん、どうしましたか?」
 大火の中で命を助ける事のできたあの娘が、ぱたぱたと走り寄ってくる。
 笑顔で振り向く。小さな子供に慕われるのは、大人にかしづかれるよりも安心できるものだ。
「アリスさま……どこか、行くの?」
「えっ?」
 驚いたのは、何しろ図星だったからだ。
「アリスさま、そわそわしてたから」
「――――」
 そわそわどころかさっきまで半分眠りかけていたのに、どうして見抜かれたのだろう。
「ええ、ちょっと用事が……15分くらいなら皆の迷惑にもならないと思いますし、それだけ外します」
 子供のカンもあなどれないと内心で呟きながら、地の顔で言葉を返す。
「何しに行くんですか? あ――わかった」
「?」
「アリスさま、好きな人に会いに行くんです」
 明るく笑んで断言される。
 そうされると、左目よりも右腕の傷が疼いた気がした。
「……ごめん。それは多分、違うと思う」
「え?」
「ごめんね、ニーナちゃん。また後で」
 そう言い置いて、脚をほぐしつつ歩いていく。
 不思議そうに首をかしげるニーナを残して、アリスは小高い丘へと分け入った。
 他の者には絶対に入るなと、厳命している場所に。
 時間はかけられない。そう思いつつも踏み入れば踏み入るほどに、その“丘”の本性が見えてくる。
 そこは過去の残滓のような場所だった。
 血と泥の匂いがある、地面に精骸の流れがある、紛れなき生命の気配がある。
「バベル――」
 過去にソレに対して呼んでいた言葉を、アリスは忘れていた。
 コレが自分を生み育てた男なのだと、自分自身の心が認めていない。
 ――完全に破壊された竜の心臓は、さぞかし多くの精骸を流出させた事だろう。
 人間だった男を、どこまでも竜に近づけていってしまうほどに。
 地面は常に波打っている。変化と増殖の速度は目に見えるほどで、今立っている場所が肉塊に過ぎないとも言い切れなかった。
 今のバベルに理性が残っているとは思えない。危険な行動をする可能性はあるが体内に精骸のない・・・・・・・・アリスには反応すらしない事がそれを証明している。
「――――ディイ」
 精骸の塊であるディイが、バベルの肉体に取り込まれた事も傍証となる。
 バベルの魔術によって敗北し、しかし彼はその後もなお戦い続けていた。
 そして生きていけなくなる事を死ぬと言うのなら、彼はバベルに殺されたのだろうか?
 脚がなかった。腰がなかった。腰から下がなかった。
「久しぶりだね、アリス」
 下半身をバベルによって取り込まれ、彼は地の中にたたずんでいた。
「あ……」
 まるで、それを予測していなかったかのような声が漏れる。
 ――見た目に悲惨さが無いならば、刺激は少ない。
 ――選択は間違っていなかったと誇れるならば、癒される余地はある。
 ――誰かを見殺しにしたのが初めてならば、衝撃を受けるだけで済むだろう。
「……あたしね、アベルを殺したんだよ」
 右腕の傷は、飼っていた筈の犬に噛まれたものだ。
「火事の時はあの子の姿が見えなくてね。すぐに死体を見てその後炎が燃え出してね、あの子の事はいつの間にか頭の中からから消えてたの。
 見つけたときはお腹が裂けてて、舐めながら歩いてて……近寄ったら、噛まれた。それで、逃げられた。
 泣きたくなるくらい痛かったよ。でも犬って、誰かを殺したい時に腕を噛んだりなんてしないよね?」
 言葉は涙の無い悔恨に似て、とうとうと響いた。
 謝罪の言葉だけが欠けている。
 死んだ者に謝った時何かが終わってしまうという信念は、アリスとロビンを同類たらしめているものだ。
「――それで僕はアベルと同じように、見殺しにされたのかな」
 ディイの結論よりも、その響きにアリスは震えた。
 彼の声はいつも透明で、空っぽの色彩を帯びていた筈だった。
 なのに、今はそこに悲しみをこらえようとする揺れがある。
「……恨んで良いよ。
 必ず、助けに来るから」
 心が折れそうになる中で、引き裂かれたような言葉を、搾り出すように落とした。
 ――アリスは底から凡人だった。
 冷酷でも献身的でもない、理性にも感情にも偏れない、自分の信念にすら殉じられない、完璧な精神というものに生涯縁が無い。
「待ってるよ」
 そんな資格も無いのに、彼の言葉に崩れそうになる。
 沈黙。やがて踵を返すのは、アリスからやるしかなかった。
 一度動き出した足は休めない。誇る価値もなく折れる余地もない心を携え、削れるままにして歩いていく。
 たとえその先でアリスを出迎える声が、行軍の中で命を落とした者の報告だったとしても。
 ――空の彼方、渦竜ノアの影がわずかに見えた。
 地竜パウルを数時間停止させるのは、その竜の最大の魔術のひとつだった。
 では通常の軌道に逆らい、あの竜を自らここまで近付けるだけの魔術は、渦竜ノアにとってはどれほどの魔術なのだろう?
 そんな魔術を使わせるには、どれだけの外交術が必要だっただろうか?
 地竜パウルの突端まで、皆が辿り着く日は近い。
 多くの者がこの進軍に合流できず、死にゆく竜と運命を共にするだろう。
 バベルはディイを捕えたまま、膨張しきった後の行動は予測できない。
 その全てを踏まえて進む。
 平気な顔は下手な芝居で、内心の疲れも痛みもさして癒せず、わずかな安息を十分としてただ進む。
 今からはただ、移民のための魔術に向けて邁進するだけだ。
 ――地竜パウル渦竜ノアの突端を近接させ、融合させ、橋を作る。
 不確定要素バベルを無視するならば、広塔の管理者一人でも十分可能な魔術だろう。
 そしてこの進軍は、目的を持つ攻性の集団だ。
 あらゆる障害を生存欲によって乗り越えると覚悟した、牙の代わりに蹄を武器とした獣だ――
 ――その獣達のためならバベルを害する事も厭うまいと、今やそんなアリスの確信すらもが覚悟に近い。
「アリスさま、なかないで」
 帰って来た時にそう言われた。
「アリスさま、ないてないけど、ないてるから。
 だから、なかないで」
 
 
 皆が寝静まった後、ほんの少しだけ泣いた。