*その朝*
「――それじゃ、準備はこれでおしまい。いってくるね、桃歌」
「苺々ちゃん……ほんとに、明日の朝までに帰ってこられるんだよね?」
「大丈夫だって。今日の賞金首はそれなりの相手だけど、こっちは大勢だし、仕事は囲んで捕まえるだけ」
「…………」
「……えっと、桃歌?」
「だって苺々ちゃん、いっつも危ないことばっかり……きょうも、賞金稼ぎだなんて」
「……ごめんなさい。でも今回は、本当にすぐに済ませて帰ってくるから」
「ほんとに?」
「――ほんとに」
「うん――あ、そうだっ。苺々ちゃん、これ見て?」
「これは……ケーキのレシピ?」
「うんっ。あのね、わたしおべんきょうしてたんだよ。いちごクリームを使ったケーキの作り方!」
「い、いちご? なんだか、それって……」
「ふふ。苺々ちゃんのおなまえに合わせたんだよー。……照れてる?」
「そ、そんなこと……」
「えへへ……でもいちご、食べるの好きでしょ?」
「……うん」
「それじゃちゃんと楽しみにして、ちゃんと帰ってきてねっ」
「わ、わかった。それじゃ、明日ね。…………」
「……? どしたの?」
「いってらっしゃいのキス……」
「もうっ! ――んと、いってらっしゃい。苺々ちゃん、わたし、特製のケーキを焼いて待ってるからっ」
「うん。私、楽しみにしてるから――」
*三日後*
「…………まいまいちゃん、おかえりなさい」
「え、えっと、その……た、ただいま?」
「……けがはない。まいまいちゃん、だいじょうぶ」
「だ、だだ大丈夫ですよっ。……あのね? その、今回は、ちょっと仕事が長引いちゃって――」
「そっか。だいじょうぶなんだね。よかったなあ」
「桃歌……し、仕事が、あのっ、だってあいつ賞金首のくせに逆にこっちを襲ってきたの! 一瞬たりとも油断できなくて、もう――」
「へー。おしごとじゃしかたないよね、たいへんだったねまいまいちゃん」
「だから私たちずっと『塔』の荒野で逃げたり追ったりしてて、仕留めたのはほんとついさっきで……」
「…………」
「と、桃歌……お、怒ってる?」
「ううん。わたし、おこってなんかないよ」
「い、いや……怒って、る……よね……?」
「……怒っても、いいの?」
「ひぃっ!?」
「どうしてもっと早く帰ってきてくれなかったの……わたし、ケーキがだめになっちゃう寸前まで待ってたのに……」
「ご、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
「ひとりでケーキ作って、ひとりで食べても、おもしろくもなんともないよぉ……苺々ちゃんのばかぁ……」
「う、うぅ……ほ、本当にごめんなさい……」
「……反省してる?」
「し、してるっ! してますっ!」
「なら――苺々ちゃん。今夜、私の部屋に来て」
「え……?」
*その夜*
桃歌の私室の扉をノックする時、苺々は喉の渇きを覚えていた。
私室に呼ばれた理由を考えると、手が止まりかける。
――何か、大事な話があるのだろうと思う。
でも、その内容が分からない。
苺々は心の底で、自分を臆病な人間だと思っている。
私室の中で、別れの言葉でも告げられてしまうかもしれないと、そんなことを考えて――
「苺々ちゃん?」
「あ……うん」
「いいよ、入って」
桃歌の声は、いつも通りの穏やかなものだった。
それに少しだけ安心して、苺々は扉を開ける。
「桃歌……」
彼女はベッドに座っていた。
その服装は、いつもの夜に見かけるものと変わりはない。
何の変哲もない、白地のバジャマだ。
ただ、桃歌の表情に苺々は違和感を覚える。
彼女の口元のほほえみは、今まで苺々が見た事もないようなものだった。
「苺々ちゃん、緊張してる?」
「え? あ……」
答えようとした時に頬に触れられて、言葉が止まってしまう。
「ほら、こっち」
頬にわずかに力を入れられると、それだけでするすると引き寄せられる。
まるで、舞踏の行程のひとつを、取り出して見せたかのようだ。
「桃歌……」
「うん?」
「……その。はずかしいよ」
距離は、簡単に縮まった。
苺々の頬に赤みがさしても、桃歌の笑みはそのままだ。
「ふふ。苺々ちゃんでも、こんなことをはずかしがったりするんだねえ」
「わ、私だって……その……」
「じゃあ――こうされたりしたら、もっとはずかしくなっちゃうのかな?」
「え、桃歌……ひゃうっ!?」
びくりと震えた後で、理解が遅れてやってくる。
お尻に桃歌の手が触れた、と気付くには、少しの時間が必要だった。
「と、桃歌、なにを……!?」
「苺々ちゃん、おしりもひきしまってて、うらやましいな」
「なに言ってるの! と、桃歌は、そんなこと言うような子じゃ……」
「……おしおき、したいの」
「え……?」
「わたし、苺々ちゃんのお尻、ぺんぺんしたいな」
苺々は桃歌から一歩後ずさり、呆然と彼女を見る。
目の前の少女のささやかな笑みが、信じられなかった。
「おかしいよ、桃歌……ど、どうして、そんなこと言うの……」
「いけないのは苺々ちゃんだよ。……今日苺々ちゃんがしたこと、忘れたの?」
「そ、それは……」
「反省、してるんだよね」
「…………う」
「いけないことをした子が、反省するために、しなきゃいけない事は何かな?」
「そ、それは……」
――夢だ。
まだ眠ってもいないのに、これはなんだか夢みたいで。
苺々の思考は、どこか非現実へと傾いていく。
「……ば、罰を、受ける?」
「よくできました」
桃歌の指が、苺々の額に、ちょんと乗せられる。
――柔らかくて気持ちいい指先、と、苺々はぼんやりと思った。
「苺々ちゃんは、わたしに触られるの、いや?」
「そ……それは! そんな事、あるわけないっ!」
「じゃあ、痛いのが嫌なの?」
「そんなこと……だから、そうじゃなくて――」
「わたしは、ヘンなこととか、しちゃだめなの?」
「そ、そうよ! 桃歌は、だって、桃歌は……」
「でも苺々ちゃんは、わたしに痛いこと、されたいんだよね?」
瞬間、苺々の心の、全ての力が抜けた。
「……え?」
「ほら、じゃあベッドに横になって」
「ちょ、桃歌、それはどういう……きゃあっ!?」
「……うう」
「だいじょうぶ? おひざとか、痛くない?」
苺々はベッドに膝を立て、四つんばいにされていた。
うつぶせの姿勢に近いと言えば近いが、格好は就眠時のそれには程遠い。
慣れない姿勢を取っているせいで、どこか身体に負担がかかっている気がする。
「……どうせ、痛いことするんでしょ?」
「それはそうだけど、苺々ちゃんが苦しいのはやだからね」
「むう……ひゃあっ!?」
「あ、もうちょっとお尻あげてくれるとやりやすいかなあって」
ごく軽く叩かれただけで、苺々は声をあげてしまう。
ほとんどなでられるのと変わらないほどの力なのに、先ほど触られたのとも違う感触がする。
「こ、こう……?」
「ありがと。じゃあ……叩くよ?」
「え、あ――」
焦りと怯えが、急に苺々の心を支配する。
誰かに叩かれるなんて、怖くもなんともない。
あの時賞金首に襲われるのに比べたら、多少叩かれることなんて無いようなものだ。
なのに、どうして――
「ま、待っ、て……」
「だぁめ」
「ひ、ゃあああっ!?」
ぱしん、と小さな音。
お尻から痺れが走り、頭まで走り抜けていく。
「う、ぅ……うぅ……」
叩かれてから数秒して、苺々は自分の目に涙が浮かんでいることに気付いた。
このくらいで泣いてしまうことが情けなくて、桃歌の前で混乱してしまう自分が嫌で、それでもこんな事をする桃歌への悪感情は微塵も沸かない。
それよりも恥ずかしくて、桃歌の顔をまともに見られない。
「こ、これで……終わり?」
「なに言ってるの、苺々ちゃん。一回だけで終わったら、おしおきにもなんにもならないよ?」
「そ、そんな……ひぅぅっ!」
「にかいめ……」
「や、はっ、いやああっ!」
「……さんかい、め」
桃歌の腕力は、決して普通の女の子以上のものではない。
叩かれるのも服越しで、桃歌自身それほど手に力を込めているとは思えない動きだった。
なのに、苺々の喉からは、叩かれるごとに悲鳴が迸る。
「ぃ、ぁ――!」
「よんかいめー。まだまだだよ、苺々ちゃん」
「……、して……」
「よく聞こえないよ?」
「許して……ごめんなさい、反省したから……もう、約束破ったりしないからぁ……」
苺々はいつしか、本当に泣いていた。
ひく、としゃくりあげる、その動作も止められない。
「そんなに、叩かれるのがだめだったの?」
「違うの、桃歌に叩かれるのが……」
「わたしに、叩かれるのが……?」
「桃歌に叩かれると、すごく……怖く、なるの。自分が自分じゃ、なくなるみたいで……」
「……ふしぎだね。それは、どうしてだろう?」
「だって……桃歌が優しいままなら、私もいつもの私のままでいられるのに。二人は、なにも変わらないままで……」
桃歌はいつしか苺々を叩く手を休めて、静かに話に耳を傾けていた。
「桃歌との関係が変わらないのは、ちょっと……寂しい、けど。変わらないのは、桃歌が少しずつ離れていってるようにも見えるの」
「そっか。寂しがらせてごめんね、苺々ちゃん」
「……ううん。桃歌は優しいのに、悪いのは勝手に寂しがる私だから」
――じゃあ、と、桃歌は息をつく。
「ふたりのかんけい、っていうのを、変えちゃえばいいのかな?」
「そ、それは……こ、怖いよ。第一、今更何を変えるの?」
「だよね。じゃあ、また別の方法があるのかな?」
「また別の方法……?」
その頃には、苺々も薄々気付いていた。
自分が望むことを。
「……ねえ、桃歌。私が前、あなたとの指輪を欲しがってたの、覚えてる?」
「うん。忘れないよ、苺々ちゃん」
「私は、印がほしかったの。二人の間の変わらないモノ、結びつける絆が」
「苺々ちゃん……」
「指輪は象徴に過ぎない、印は目に見えるモノならなんでもいい、きっと痕になるならばなんでもいい」
「――そっか、苺々ちゃんは、わたしと」
「うん」
それは、言葉にすると、とても陳腐になってしまうもので。
けれど人の手でどうにかしなければ、蜃気楼のように消えてしまうもの。
「だから――」
「だから……?」
「……私は、桃歌に痛いことを、されたい、みたい」
「そっか」
桃歌はちょっと手を伸ばして、苺々の頭をなでた。
「やっぱりかあ。苺々ちゃんは、変態さんなんだねえ」
「……違う。桃歌にされたい、だけだもん」
「そっか」
桃歌は嬉しそうだ、と苺々は思う。
実際にうれしがっているのならいいな、とも彼女は思う。
「お、お願い……手加減とか、しないで。やるなら、もっと……」
「わかった。じゃあ――ここからは、思いっきりいくね?」
ぱちんっ!
「きゃぁうっっ!?」
「苺々ちゃん……痛い? やっぱり、やめよっか?」
「ぅあ、あ……痛い、痛いよお……!」
ふたたび苺々の目から流れる涙は、恐怖によるものではなかった。
身体に痺れと痛みが刻まれている。
その感覚の形は、確かに桃歌の手の形だった。
「……痛い、からっ! 痛くていいから、もっと、このまま、続けて――」
「わかった――これで、ろっかいめっ!」
ぱしぃっ!
「ひぅぅっ!?」
「ななかい、はっかい……!」
「やぁっ! はっ、ぁはっ、はぁぁぁっ!」
身体から噴き出る汗が引かない。
頭の中が熱くて、それを鎮める気も起きない。
冷静になんかなりたくない、このままずっと考えないでいたい、と苺々は強く思う。
「とーか、とーかぁ……!」
「苺々ちゃん、このままじゃお尻にアザができちゃうよ……?」
「つけてよっ……いいからっ! もっと、もっと強く、してよぉ……!」
「わかった――じゃあ、きゅうかいめっ!」
ぱぁん!
「ぅあ……っ!!」
叩かれた瞬間に広がる痺れは、今や明確に甘いものになっていた。
服越しの触れ合いがもどかしい。桃歌の腕で内臓をかき回されたい、と妄念が浮かんでは消えていく。
「……ああ。……しぃ、のぉ……」
「苺々ちゃん……?」
「桃歌の……痕が、ほしいのっ! 傷痕でいいからっ! 傷痕がいいからっ!」
自分の叫んでいる言葉の内容すら、今の苺々には無自覚だった。
「ほしいの、桃歌ぁ……! 好きなの、大好きなのぉ……」
「……わたしも、苺々ちゃんのことが、大好きだよ」
それでもその返答が、何よりも嬉しい。
「わたしの好きと、苺々ちゃんの好きは、きっと違うけれど。……今していることでなら、二人はちゃんとつながれる」
悲しかった。
悲しいけれど、嬉しかった。
「……じゃあ。きついの、いくよ?」
「ひ、ぅ……ひゃああああああっっ!?」
桃歌のやわらかな掌が、苺々の身体に思いきり印を刻みつける。
最後の衝撃は、身体の中ではじける爆弾も同然だった。
嬉しかった。全身をぞくぞくするような衝動が走り抜け、四肢から力を奪っていく。
「ふわ……あ……」
膝を支える力も失せ、苺々はぱたりとベッドに崩れ落ちる。
「……十回目。おしおき、終わりだよ」
その声もどこか遠い。
苺々の意識は、まどろみの中に落ちていった。
*その朝(リピート)*
「……苺々ちゃん、寝ちゃったの?」
「えっ?」
「だいじょうぶ、ねぼうしてない? 今日はだいじな日なんでしょ、賞金稼ぎのお仕事とか……」
「え……仕事? お、おしおきは、終わりなの……?」
「おしおき? なにそれ、ヘンな苺々ちゃん」
「ご、ごめん。……夢、だったのかな」
「したく、できたかな。……ほんとに、明日の朝までに帰ってこられるんだよね?」
「…………」
「苺々ちゃん?」
「やめた」
「え、えええっ!?」
「仕事はキャンセル。それより、桃歌といっしょにいたいの」
「う、ううん……いいの?」
「桃歌は私と一緒なの、嫌?」
「それは、嫌じゃないけどさあ……うーん、いいのかなあ」
「いいのよ。洗濯もうやった? 細かい家事なら、手伝うわよ」
「苺々ちゃんが!? めずらしい……」
「うん。私ね、なんていうのか……反省したの」
「? もっと家事しようってこと?」
「……なんだかぼんやりして、うまく言えないけど。
でも、もっと桃歌といっしょにいたいとは思ってる」
「ん。……ありがと、苺々ちゃん」
「どういたしまして」
「じゃあ、お菓子作り手伝ってくれるかな?
あのね、わたし、おべんきょうしてたケーキのレシピがあったんだ――」