小話『笑えない妹』

 ――これが、あたしの左腕。

 あたしの街は、病気に支配されている。
 街すべてが均一に、同じ病に覆われている。それか、あたしの住む国全て、世界全てが同じ病気にかかっているのかもしれない。

 家の外に出れば、いつでも立ち尽くす末期の患者が見られる。
 患者の姿は多種多様だけれど――だいたいの患者は、樹木に似た姿をしている。
 たとえばそれは、たっぷり果実の成った、バナナの樹に酷似している。

 病気の進行は画一的だ。それはまず、片手の指先のしびれから始まる。
 次にそれが腕全体に広がり、徐々に腕が動かしにくくなってくる。手は無感覚になり、痛みすら感じなくなっていく。
 痺れが胴体を侵し始めるころに、肉体の変貌が始まる――ここからの症状はやや多様だ。
 腕全体が骨のように硬化したり、フルーツのように均質な果肉に変化したりする。
 だが何にしろ、変貌は身体全体を侵食するまで止まらない。

 ……雨が降っている。
 あたしは、晴れというものを知らない。青空というものに対して、あこがれも待ち遠しさも抱けない。
 この病原菌が雨に乗ってやって来たと聞いたことはある、けれど雨に対して嫌悪の情が沸いたりもしない。
 この病は、もはや病と言わないほどに当たり前すぎて、ふだんは話題に出す価値すらないものだ。

 むしろ病は恩恵、と言えるのかもしれない。
 末期患者の肉は切除しても再生する。それこそ果実をつける樹のように、あたし達の栄養源になってくれる。

 この街の文明はすっかり曇っている。
 商店はない。何かを届けてくれる車もない、ずっと知ることはないだろう――だからあたしにとって《山田さん》というのはスープにして食べるもののことで、《伊藤さん》というのはハンバーグの材料のことだ。
 雨粒をはねのけて、外を何かが飛んでいる。ハンバーグの材料を実らせてくれる《伊藤さん》と、外で飛んでいるそれの形は案外似通っている。
 それが変異し飛行する人間なのか、変異した鳥か何かなのか、あたしにはよくわからない。

 確実にわかることはひとつ。あたしの病も、いずれは末期に達するということだ。
 
 文明が曇ってしまう以前の人なら、病気にかかった肉は食べてはいけないと言うだろう。
 そんな馬鹿な真似をしたら知らないよ、と――
 でも飢えをしのぐための選択肢は多くなくて、そしてこれが今のあたしの左腕だ。
 まだ変貌はしていなくて、でも感覚がなくて、棒のようにあたしの身体からぶら下がっている。

 ただそれは、何を置いても思い煩うべき、というほどのことでもないと思う。
 最初に考えるべきは明日の食事、雨漏りの修繕、廃墟から探してくるべき日用品、そんなことだ。
 あたしにも今の暮らしがある。ごはんと寝ることが中心の暮らしは、いちいち笑うほど楽しくはないけれど、わざわざ止めるほどの憂いもない。

 延々と続く雨は、希望という言葉の意味を分からなくさせる。
 待ち望むほどのものはなく、何かが明けることはなく、良くなるものはこの世にない。
 ただ、胸に抱くべきだと思うものがひとつある。

 それはもういない両親が、あたしにつけてくれた願い。
 今でも一緒にいるきょうだいが、あたしを呼んでくれる言葉。
 この左手が動くうちに触れてみたいと冗談に言う、それは、あたしの名前。

 あたしの名前は、虹という。

萌理賞投稿しそびれ作『指に鬼女』(ユビ ニ キジョ)/残酷表現含む

 指は性器だと思う。

「だからね、お兄ちゃんがいけないんだよ」
 ミキはもうずっと前から、ぼくの指を舐めている。
「ん……ふぅ……」
 ミキの頬は淡く陶酔に染まっていた。
 第一関節から血で真っ赤になったぼくの薬指に唇で吸い付き、肉の削げた部分に犬歯を食い込ませて遊ぶ。
 痛みはない。
 感覚は麻痺している。
「……ゆうくんの手はあったかいね、だったかな」
 あの子が口にしたセリフだ。
「あっかたいね」
 ミキは何でも知っている。
「あったかいね。あったかいね。あったかいね。あったかいね」
 言葉の合間にキス。指を噛み切るには、顎の力だけが足りない。
 ――ぼくはミキから隠れて、あの子と生まれてはじめてのデートを。
 けれど、どうしてか、あの子の名前を今は思い出せない。
 むしろどうでもいい。
 さっきゴミ袋に詰められた肉が、どれほど長い髪を生やしているかとか、そんなことはどうでもいいことだ。
「へへ」
 とても嬉しそうに、そして少しだけ恥ずかしそうにミキがはにかむ。
 前歯が「こりん」と音を立てて、ぼくの薬指の骨にぶつかった。