小説のよすが・第二話『日記の価値、嘘の価値』

 私――西東よすがと友達のアリチェ、そしてつい数日前に知り合った大人の女性であるところのマリナ。
 その三人で遊びに行ったのは、アリチェからの電話を受けた翌日のことだった。


* * *


 マリナが連れてきてくれた場所は、私もアリチェも知らないお店だった。
 喫茶店のある大通りから、路地を裏に抜けたところにある雑居ビルの中。
 ごくこじんまりとした店構えは、マリナに教えてもらわなければずっと来ることはなかったろうと思わせる。

「アンティークショップなんて初めて来たよ……」
「わたしもー。てか狭っ!」
「まあまあ。アリチェ、こういうカップとかは趣味じゃない?」
「あかい! かわいい!」

 コーヒーカップとソーサーの組み合わせに夢中になったアリチェを横目に店内を伺う。
 コーヒーミル、カメラ、レコード、小さな本棚の中には洋書が詰まって――
 雑貨屋に入ったという感じはしなかった。骨董店に抱いていた漠然としたイメージとも少し違う。ざっと100年ほど前のイギリスの書斎に迷い込んだ、という趣だ。

「本もたくさんあるねー。ここは本屋さんだった?」
「こういう本はインテリアとしての意味合いが強いだろうけど……
 でも、中身もちゃんと書かれてる。英語みたいだけれど、アリチェはわかる?」
「んー、だいたいイギリス文学。このへんはシェイクスピアで、下に行くとボードレールとかのぽえむで……」
「……アリチェって、実は読書家だったの?」
「ちっちゃい頃にムリヤリ読まされただけです。中身はほとんど忘れてるし、古典じゃない本の方が読みた――――あ、っ!?」
「――アリチェ、どうしたの!?」
「っ……な、なんでも、ない……よ」

 前にお茶を飲んで倒れた時とは違う――アリチェの身体はなんともない、ということにまず気付き、私は心から安心する。
 けれどアリチェは、まるで指を焼かれたように本から指を引っ込めていた。
 否応なく興味を惹かれて私はその本のページを覗き見る。中身は、私でも知っている吸血鬼ものの古典――をもとにした、写真集だった。
 マントを羽織り、牙をむき出す中年男性。
 レトロな吸血鬼の装いを、雰囲気と格式を併せて再現している。それには感心するけれど、怖いという感じではない。

「……ほんとに、大丈夫?」
「うん。いまどき吸血鬼とかないわーって、びっくりしただけ」

 笑っているのはもういつものアリチェだ。
 それを強いて追求はできず、私は口を閉じる。

「――じゃあ、こういう可愛い本の方がいいんじゃない?」

 横からマリナが顔を出すのは、絶妙なタイミングだった。
 彼女が差し出してきたのは外国の絵本に見えた。
 表紙に描かれているのは二人の女の子のイラスト。アンデルセンの童話か何かだろうか――
 そう思うけれど違った。中身は白紙、こちらは純然たるインテリアのようだ。

「おお、これはじゆうちょう? 中身は好きにかいてね、てきなやつ?」
「いやアリチェ、これは部屋に飾るための――」
「そう? 案外、アリチェの言う通りかもしれないわよ」

 マリナがほほえむ。
 柔らかで優しそうな、そのほほえみの真意が、けれど私にはわからない。

「……むかしむかしあるところに、二人の女の子がいました」

 なにを考えているのかよくわからないまま、彼女は物語を紡ぎはじめる。

「二人の女の子はとても仲良しでした。どちらもそのねっこから、とてもやさしい、よい心の持ち主でした。
 女の子たちは、けんかをすることもあったけど――二人ともがよい心の持ち主だから、それは、本当のけんかではなかったのです。
 だから、本当に悲しいことは、なにひとつ起きなかったのです」

 そんな童話は知らない、と私は思う。
 アンデルセンもグリムも、そんな退屈な話は書きそうにない。
 それにそもそも、マリナの語っている言葉は、物語というよりは――

「そして二人は、いつまでも仲良く、しあわせに暮らしました」
 
 ――物語というよりは、彼女なりの夢想なのだろうと、私に思わせた。
 結果として何も惨事が起きない物語だってこの世にはある。
 けれどマリナのことばは、ただただ何も起きないという――悲しいことは何も起きないという、その状態だけを、純粋に想ったものなのだろう。

「マリナ。そのおはなし、ものすっごいつまんない」

 アリチェは笑顔で辛辣なことを言う。
 彼女がマリナのおはなしに、どういう意図を汲み取ったかはわからないけれど。

「そうね。こんな“おはなし”は、きっとつまらないわ」

 マリナも気を悪くした様子は微塵もなかった。

「けれど――あなた達は、いつまでも仲良く、しあわせに暮らせるといいわね」

 ……私は、うなずく。
 アリチェは、応えなかった。


*  *  *


 アンティークショップを出た後に、またいつもの喫茶店に行く。
 アリチェは宿題がある、と早めに帰ってしまった。
 様子は少しおかしい――吸血鬼の本を見たときから、それが心配だったけれど、彼女は別れる時も元気な笑顔を崩さなかった。

「アリチェが頼んでたスペシャルティーって、こういう味だったのね」
「……マリナ、おいしい?」
「そうねえ。独特っていうか、スパイシーっていうか……」

 テーブルの向こうでお茶を味わっているマリナに対し、私はあいまいな笑みを作る。
 そういえば、マリナと二人きりになるなんてこれがはじめてだ――

「……よすがは、アリチェと付き合い長いの?」
「え? ううん、はじめて会ったのはそんなに昔のことじゃないけど……どうして?」
「大したことじゃないわ。ただ、あなたがアリチェに随分惚れ込んでるように見えただけよ」
「そっか。わたしがアリチェに――え、えっ」

 ……どう返せばいいのかわからない。当然だ、なんて言えないし、でも否定するのも違う気がするし。

「ま、マリナ……どうして、そう思ったの?」
「怖がるアリチェに対して、あなたは本気だったから」

 そう言われて、私は改めて先のお店のことを思い出す。

「……アリチェは、吸血鬼の格好をした男の人の写真を怖がってたよね。私には全然怖くは見えなかったけど、アリチェのあれは演技なんかじゃ……」
「吸血鬼に対する恐怖症は実在するわ。あの子がそう、という可能性も一応あるけれど……」

 マリナが言葉を濁したのは、アリチェがそういう恐怖症だとは思えない、ということだろう。
 私にもそう思える。こういうことを直感で判断してはいけないのかもしれないけど――でも私のカンは、理由は別にあったと告げている。
 彼女が吸血鬼すべてを恐れていると考えては、根本的な間違いを犯すことになるかもしれない、と。

「……なんにせよ、あなたはあの子のことを、心の底から心配しているのね」
「それは――」

 ……私は。
 心から、アリチェを心配して動いていたのだろうか。
 こんな私が、純粋に何かを想うなんてできるんだろうか?

「私は……きっと、アリチェに借りがあるんだ」
「借り?」
「うん。彼女に隠し事をしてるっていう、借りが……」

 そんな言葉が自然に口をつく。自然に、というには随分ひねくれた物言いだけれど。
 そんなこと言ったら、どんな人だってみんなに借りがあることになっちゃうわよ――
 マリナなら、こんな風に軽く返してくるのだろうか?

「よすがは、その隠し事のことを気にしてるの?」
「え……あ、うん……」

 けれど予想と違って、マリナの物言いは軽いものではなかった。
 軽くも重くもなく、やさしい口調。

「アリチェがこんなことを言ってたのよ。うそや隠し事にも、いろんな種類があるよね、って」
「それは……アリチェは、どんな種類があるって言ったの?」
「やさしい嘘と、やさしくない嘘」

 軽い口調でマリナは言う。
 やさしい考えでなら、隠し事をされてもいい――そう、アリチェは言っていたらしい。
 私はそんな彼女の言葉を聞いて、少しうつむいてしまう。

「……アリチェがそう言った通り、隠し事自体は悪いことじゃないのかもしれない。でもマリナ、アリチェは私にこうも言ったの」
「なんて?」
「私が隠し事をするのは、さみしいって」
「そう。……よすがは、アリチェのその言葉が気にかかったのね」
「うん。私が心を開いてくれないのがさみしいって、あの子は言ってた――」

 おかしい。私は会って数日もしないマリナに、ひどく踏み込んだ話をしてしまっている。
 けれど言葉を止めるには、マリナの口調は柔らかすぎた。病院のカウンセラーはこんな風に患者の言葉を受け止めるのだろうか、と少し思う。
 ……さみしい。そう言われた時、せつなかった。アリチェに申し訳なかった。
 でも思ったことは、それだけじゃなくて。

「ねえ……うれしかったよ。アリチェがさびしがってくれて、私、うれしかった……」
「よすが――」
「友達がさびしがってるのに、それを喜ぶなんて酷いよね? でもさびしいっていうことは、好きっていうことなんだよ……」
「……そうね。好きでもない人が心を開いていなくても、どうでもいいと思うものかもしれないわね」
「うん。私、アリチェに好かれてるのがうれしい。うれしいよ」
「――もっと、アリチェに好かれたい?」
「そんなの決まってるよ。だって、アリチェはいい子だもの――!」

 声が跳ねる。
 あのお店でのアリチェの表情を、きっと私は忘れない。
 それは恐怖にひきつる顔だけのことじゃない。
 その後に見られたのは、やっぱりいつもの、わたしが好きなアリチェの笑顔で――

「……嫌われたくないし、好かれたい。だから――」
「――だから、アリチェのことは好きだけど、それでも話せないことがあるのね」

 こくん、と子供のように私はうなずく。
 アリチェはきっと良い子で、私はたぶん悪い子だから。

「そう。それは……」

 マリナは次の言葉を探して、少し考え深げにする。

「――うん。それ、いいことじゃない」
「……え、は?」

 マリナの言葉の意味が分からない。
 私の耳は、もしかしてとっくにおかしくなっていたのだろうか。

「か、隠し事があるのが、いいこと……っていう意味?」
「そういうこと。ちょっと突飛なこと言っちゃったかと思ったけど、通じてくれてよかったわ」
「いや、じゅうぶん突飛だと思うけど……」
「それもそうね。じゃあ、ちょっと話を戻すけど――隠し事の内容はともかく、アリチェにそれを知られたくないのは、嫌われたくないからなのよね?」
「う、うん」
「でも、もっとアリチェに好かれるには、今のままじゃいけないと思ってるんでしょう?」
「それも、うん……」
「それなら――いずれよすがは、アリチェに自分の秘密を話すことになると思うの」

 ――ぁ、と声が漏れる。
 マリナはなんでも当然のことのように言う、と私は思う。
 わたしの胸はあなたの言葉で、小刻みにふるえだしたのに。

「よすがの悩みも、好意も、いずれ“そこ”に通じる。いずれ話すことなら、後ろめたさを感じることなんか何もない」

 流暢に続ける今のマリナからは、カウンセラーのような感じはしない。
 むずむずする。不安だ。でも、嫌な感じはしない――

「それに……よすがも、いろいろ考えてるんでしょう?」
「え?」
「どうやって秘密を話すか、よ。どこから切り出すか、どう言えば受け入れてもらえそうか、いつまで黙っていようか――」

 マリナの言葉が胸に届く。
 そうだ。アリチェと友達になってから、そのことを考えてなかった日なんて一度も無い。
 いや、それを考えだした時にわかったんだ。
 いつか街で長話した時に、“今度はよすがの家に泊まってみたいな”ってアリチェが笑って、そんなことはとてもできなくて、でもいつかそうしたくて、それなら私の秘密も話さなければいけなくて――
 そしてわかった。私はアリチェを、もう友達と思っているんだって。

「よすがはもしかしたら、自分のそんな考えを臆病や卑怯と思うかもしれないけど――それは、ただの優しさよ」

 ……嘘にはやさしい嘘と、やさしくない嘘があるとアリチェは言った。
 やさしい考えでなら、隠し事をされてもいいと彼女は言った。

「そして本当のことにも、やさしい本当と、やさしくない本当があるの。
 よすが。あなたはきっと、そっちもやさしい方を選べるよ」
「それは……もし、もしそうであってくれるなら……」

 胸が苦しい。私の息は、いつのまにかあがっていた。
 マリナはそんな私にうなずき、表情をわずかに変えてみせる。

「――きっと、もっと仲良くなれるわよ」

 その時マリナが浮かべたほほえみで、私は確信する。
 この人が何を思い、何のために私たちと一緒にいるのか、理解したわけじゃない。
 でもきっと、マリナは――仲良しという言葉を、心の底から希う人なんだ。


* * *


 たぶん、これが最後の加筆になる。

 ――そうして私は、自分の秘密をアリチェに話すのだった。
 アリチェはやさしく笑って醜い私を受け入れてくれる。
 そして二人は友達から親友になり、マリナともいっしょにいつまでも楽しく過ごしたのでした。

「めでたしめでたし……なんて、そんな風になれば良いんだけど」

 喫茶店から家に帰ってきた夜。今のところはそうなってはいない、当たり前だけど。

「……もっと、仲良くなれるのかな」

 はあ――はあ。
 変身はまだ解いていない。あまり持ち時間に余裕はないけど、なぜか皮を脱ぐのを先延ばしにしたくなる。
 今夜は自分の息が、妙に耳障りだ。

「仲良くって……はあ、なに、なにをするの……?」

 何かにすがりたい、何かを抱きしめたい。きれいなひとに、抱きしめられたい――
 そんな回り続ける妄想を断ち切るために、私は自分の頬を平手で張る。
 ぱん! といい音。遅れて痛みがやってきて、私は目が覚めたような気分になる。

「はあ……」

 無意識についたため息に、熱や艶はなかった。

「……みせたい、なあ」

 けれどため息に続いた無意識の独り言は、私自身が驚くようなものだった。
 見せるって……誰かに見せる? 何を?
 意識と無意識が混ざり合う中で、私の視線は部屋の本棚に向いている。
 本棚の本の裏に隠されているのは、一冊の特別なノートだった。
 私の日記だ。日付を書いていないから、日記と言うより手記に近いかもしれないけれど。
 鍵をつけられるノートなんて、雑貨屋で見つけるまでに随分苦労したっけ。
 勿論誰にも見せてはいない。確か、私の容姿が呪われる、少し前からつけはじめた日記だったと思う。
 自分を含めた世界を客観視し、文章化する――自己を客観視できない魔術師は魔術師とは言えない。私はそのために日記をつけていたし、その理由は今でも変わらないはずだ。

 ……いや、本当にそうなんだろうか?
 当初はただの覚え書きだったかもしれない。でもそれにしては、この日記は文章の装飾が過ぎる。
 けれどこの日記が、今誰かに読ませるための“物語”になっていないと、どうして断言できるだろう。
 それも特定の理由を持って書かれた物語だ。
 それは私の、本当のことを教えるために。
 私をわかってもらうために、私はこの日記を書き続けていたのではないだろうか。

“それなら――いずれよすがは、アリチェに自分の秘密を話すことになると思うの”

 私は妄想する。性欲じみた要素のないことを、欲情よりも必死に妄想する。
 ――私はアリチェに日記帳と、その鍵を渡す。
 たぶん私の手は震えている、アリチェの表情は怪訝で、少し心配げだ。
 それでも私の勧めに従い、アリチェは日記帳に目を通す。
 そして日記を読み終わったアリチェは、やさしく私にほほえんでくれるんだ。
『つらかったよね、よすが。今まで誰にも話せなかったんだね、がんばったね』って言うの。
 そして二人は友達から親友になり、マリナともいっしょにいつまでも楽しく過ごして――

“そして本当のことにも、やさしい本当と、やさしくない本当があるの”

 欲情のようにいずれ失速するかと思っていたこの妄想は、勢いがやむことがなかった。
 今の私の考えに、優しさなんて欠片もない。でも、嘘もどこにもない。

「ああ、そうだ……わたしは、もうとっくにうんざりしてたんだ」

 その声は無意識のものではない。
 この日記に書いたっけ、“このままでも、たぶん、いいんだ”って――

 そんなのは、良くないに決まってる。
 今想いが堰を切ったきっかけは喫茶店のマリナの言葉だったのかもしれない。でも、理由ならいくらでもあった。
 私にはもっと仲良くなりたいひとがいる。嘘の皮の奥に閉じこもって、いつかその子と別れる日まで何もできずにいるなんて嫌だ。
 一人でいい。
 私を捨てないでくれる家族に加えて、たった一人でも私を選んでくれる友達がいるならば、私はもうそれでいい。
 そして私は、本棚の奥に手を伸ばす。日記帳に、今日の分の加筆をするために。
 これが、最後の加筆になるだろう。

 だから――日記の最後は、これを読んでいるあなたのために。
 たぶん、アリチェに。
 そう。これが、そうなんだよ。
 この日記は、きっと全てがあなたのためにあったんだ。

 いままでありがとう。
 はなしてくれて、わらってくれて、あそんでくれてありがとう。
 あなたがこれからもそうしてくれるなら、とってもとってもうれしいの。


* * *


 でも、おかしなイメージが湧く。
 イメージの中の、私の気持ちを告白されたアリチェは、なぜか完全な無表情だった。
 そしてイメージの中のアリチェは斧を持っていた。
 映画の中の殺人鬼みたいに。
 彼女はその斧で、私のことを大雑把に切って捨てていた。
 私は他人事のように、自分自身の性欲を思う。
 ……何か異様なイメージが内申に湧いてくることは、今までも時たまあった。
 その後は決まって、自慰が止まらなくなる。
 それはとても嫌なことだけれど、どうやら私には性欲があるらしい。
 前は我慢して我慢して我慢して、誰も見ていないのにがまんして――我慢が切れた後は、何時間も続けてしていたっけ。
 その時に浮かぶ妄想は、私が抽象的な“誰か”と絡み合うイメージだった。その時も事後は酷い気分になったけれど、恥ずかしいなりに脈絡はあった。
 今回は最低限の脈絡すらない。アリチェを汚すような妄想なんておぞましいけれど、これは更に輪をかけてねじれている。
 大切な友達になぜ斧を持たせたがるかなんて、もう金輪際わからない。
 それでもアリチェの足元で私は死んでいて、やがて彼女はそこから去っていく。
 後には私の死体しか残らない。それを思って身体が疼く。
 それが本物の気持ちなら。
 それは被虐趣味ですらない。
 私は虚無に発情している。



* * *


 ……よすがは息をつき、日記帳をテーブルに置く。
 日記帳の傍らには役目を終えたシャープペンシルが置かれている、中学生の頃から使っている品だった。
 しばらくの思案。複雑な表情、わずかに震える手先。
 そして――その後、迷いげな表情ながら、彼女は筆入れに手を伸ばした。
 紙を傷めないという触れ込みの消しゴムを取り出す。それを片手に、彼女は再度日記を開いた。
 日記に少し手を入れる。けれどあくまで誤字やおかしな表現の修正をするだけ、そのつもりで彼女は日記に消しゴムをかける。
 だが、その手先からは、いまだ震えが止まらない。

“――ほんとに?”
“ほんとにアリチェに、こんなもの読ませるの?”
“ねえ、よすが。西東よすが――あなたは、アリチェに、選ばれたいんだよね?”

 自問自答を繰り返すうち、その“修正”は、じきに日記そのものの内容を侵食していく。
 最初に消えたのは、よすががアリチェに性欲を抱いていた、というくだりだった。
 自分が性欲を我慢しきれなくなった後に止まらなくなるほど自慰をすることも、男女の区別もなく抽象的な妄想に耽っていたこともかき消した。 
 そしてアリチェを交えての異常な妄想――本当に異常な妄想、としかたとえようがない、一秒たりとも考えたくないような自分自身の考え――それは全て、消しゴムのカスになる。
 
 修正はずっと過去にまで遡る。
 それは喫茶店でのマリナとの出会いの更に前。
 アリチェとの軽いケンカの思い出、アリチェの言動に苛立った些細な記録、アリチェを悪く書くような全て――
 
 ――結局、よすがは消しゴムよりもカッターを選んだ。
 
“――やっぱりあの服、すっごいかわいかった! ピンクとか趣味じゃないけど、あれだけはホント買っておけばよかったなって……!”

 このやりとりよりも前のページを、一枚ずつ切り取って排除していく。
 そもそもこんな分厚いノート、頭から読ませられる訳ないよね――
 そんなことをつぶやきながら、彼女は自らの日記を短縮し、編集していった。
 作業は丁寧に。ページは根元から切り取り、文章を消す時は不自然な空白が残らないよう書き直しを。

 ――アリチェに選んでほしい。あるいは、アリチェにわかってほしい。
 ――自分がどちらを本当に望んでいるかは分からないけど、改めてわかったことはひとつある。
 ――わたしは、骨の髄まで、うそつきだ。

 彼女が意図的に漏らした苦笑いは、しかし泣いているような響きを残して密室に消えていく。


 ――ノートから切り取られた紙を、よすがはそのまま手持ちのカッターで粉砕していく。
 作業はあくまで丁寧に。シュレッダーがやるような行程を人力でなぞり、紙に書かれた文字が文字でなくなるまで。
 今の自分は冷静さを欠いているな、と他人事のようによすがは思う。
 今まで一日も欠かさずつけていた日記を、大事と思えない訳がない。
 だがその大切さの重みすら、今は邪魔だった。
 アリチェに話したい。
 今すぐ、残らず、自分のことを話したい。

“それなら――いずれよすがは、アリチェに自分の秘密を話すことになると思うの”

 直接的なきっかけはマリナとの会話なのだろう。彼女は記憶を遡り、そう結論づける。
 だが記憶を遡り、過去を回想する中で、よすがは心中の灰色の堆積とも対面していた。
 友達に隠し事をするのは嫌だという小さな愚痴が、しかし悲鳴をあげるほど大量に、心の中に積み重ねられている。
 高校を止めた理由も話せない、おかげでなんでフリーターをやっているかもぼかさなければいけない。
 友達を家にも招けず、その理由もしゃべれないままでなんていたくない――

“だからよすがは、本当の自分を、家の中に置いてきてるような気がして”

“……ほっとしてたのは、わたしのことがきらいだったからじゃないよね?”

 ――アリチェからあんな言葉を、もう聞きたくない。
 虫だって巣に水を流し込まれれば、溺れる前に巣穴を出てくる。これはそんなレベルの単純な事柄だ、とよすがは自嘲する。
 そして心に流し込まれた“愚痴”を消す手段はないし、もう自分は一秒たりともそれを我慢できないのだと、よすがは確信している。

 カッターの施術を終え、ノートを小さなかばんに入れたよすがの手が、淀みなく家の電話に伸びる。
 それは彼女にとっての、アリチェとつながる唯一の糸だ。
 時計が示す現在時刻は午後八時。夜こそ一番の元気を見せるアリチェのことだ、きっとすぐに出てくれる――
 そんなよすがの期待通り、がちゃ――と小さな音が、アリチェが通話に応じたことを知らせてくれた。

「あ、あ……アリチェ? あの、わたし……――ッ!?」

 おずおずと呼びかける声は数秒も続かず、よすがは思わず電話から遠ざかるように身をすくませる。
 受話器から聞こえてきたのは、柔らかいアリチェの声からは程遠い、無機物のたてる轟音だった。
 最初に聞こえたのは近く、ひどく近くで固い塊が砕ける音。そしてしばしの無音、その後は不通を示す電子音が鳴るばかり――

「アリチェ! アリチェ――!?」

 返事はない。よすがの心の中で、不吉なほど素早く推測が展開される。
 ――あれはアリチェが使っていた電話そのものが、砕けて壊れた音だ。
 持っていた携帯電話を取り落としたのでは、と一瞬思うが――違う。そんな穏当なことで、あんな酷い音は出ない。
 携帯電話を、思いきり地面に叩きつけでもしない限りは、あんな音は出ないだろう。

「どうしてなの、アリチェ――!!」

 切迫した状況。電話を奪われ、壊されたアリチェ――
 とても耐えられなかった。心のイメージが、中途でねじれて消える。
 よすがは部屋着にいつものコートを肩にかけ、後は脇のかばんだけを掴んで自分の部屋を飛び出していく――

 ――走りながら施した変身の魔術は、幻術の達人もかくやとばかり、瞬時によすがの姿を整えてみせる。
 今彼女が何をしているかはわからない、どこにいるかすらわからない。
 そんなアリチェをどう探すのか、仮に会えたとして何をすべきなのか。部屋のドアを開けてすぐに、そんな現実的な思考が襲ってくる。
 だがよすがは止まらない。彼女は電話が切れた瞬間、足が動き出した瞬間の情動こそを自らの本性と決めつける。
 他の全ての嘘の想いと、本当の言葉とを振り捨てて、アリチェと一番よく話した“あの”喫茶店を目指して走っていく――

 ――私は、今すぐにアリチェに会わなければいけない。
 今すぐに。



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