『黒須沙那と麦わら帽子』 後編

 わたしはなにをすればいいのでしょうか。


 
「……結局、もう二週間になるんですね」
 幼いさながこの基地に現れてから、そんな時間が経った。
 兵士として任が与えられるでもなく、さりとて民間人同様の処遇とも言えない。さなについては浮いた立場のまま、なんとなくリゼットが世話をする事になった。
 基地の中でも幼い部類に入るさなは、皆に可愛がられた――だが、寝物語を語るように、さなに何かを教えたのはリゼットだけだ。
 例えばこの場所について。人に喜ばれる掃除のしかた、書類の運び方。
 例えば小さい身体を使っての、自分の身の守り方。
 例えば身体から羽根が生えそうになった時の、気持ちの落ち着け方。
 さなは、良い生徒だったとは言えない。
 リゼットも、自分が良い教師だとは思えなかった。
 だが今日もさなは、リゼットの話をぼんやりと聞いている。
「――だから天使力っていうのは、予定調和を作り出す力でもあるんです」
 天使についての講義には、最後にそんな言葉を付け加えた。
 さなはそれも分かっているのかいないのか。
 ただ、全ての講義が終わった後、こんな事を聞かれた。
「……あの、りぜちん」
「リゼットおねえちゃんです」
「……リゼットおねえちゃんは、どうしてやさしくしてくれるの?」
 ――どうしてだろう。
 この基地にはお節介な善人が揃っている。
 塚守狩魔や、黒須沙那は、機会さえあればさなの世話役になってもおかしくない人間だ。
 なんとはなしに聞いてみた。
「あなたも、狩魔さんの事が好きなんですか?」
「ふえっ?」
 見つめると、すぐに目を逸らされる。
「さなちゃんは、おませさんですね」
「……ふえ」
 その顔を見て、大丈夫だろう、とリゼットは思う。
 きっと他の誰かが、この娘を癒し、助け、救ってくれるだろう。
 
 ――でも、誰が?
 
「……こわいの」
 さなは、そうつぶやく。
「ひとりぼっちがこわい。
 むりやりに××されるのがこわい。
 ×されるのがこわい」 
 つまるところ、それは産まれてから×年を経た肉の塊だった。
 温もりを持つ。
 声帯を持つ。
 性器を持つ。
 特定の用途を持つ。
「でも、ひとりぼっちがいちばんこわい」
 沈黙。
「りぜちん、おしえてください。
 さなは、なにをすればいいですか」
 
 ――誰が、教えられるのだろう。
 
 
「――さなちゃんについては、そんな感じです。
 おねえちゃん、何か質問はありますか?」
 その夜リゼットとかざみは、電話を通して連絡をとっていた。
『事情はだいたい分かったよ。
 でもリゼット。あの、そのさなちゃんにヘンな……』
「? ヘンな、なんですか?」
『……い、いや、なんでもないよ。リゼットはむやみにそんなことする子じゃないよね、うん』
「はい、そういう事は最初にしかしませんでしたよ」
『したの!?』 
 そんな会話もした。
 
『――うん。それじゃ、遅くても明日の夜には帰ってくるから』
「はい。わたしの部屋で、お茶とお菓子を用意して待ってますね」
 出向先のかざみとの電話は、本来ならそれで終了していたはずだ。
 それでもリゼットには、まだ受話器を置くことが出来ない。
「……あの。わたしには、まだ良く分かんないことばかりですけど」
 今までしていた“彼女”に関する話が、今になっても自然に口からこぼれる。
「――九歳の頃の沙那ちゃんは、おねえちゃんの言うところの“お屋敷”につとめていました」
 受話器の伝える沈黙は、リゼットの言葉を暗黙のうちに肯定していた。
「そういうことなんですか、おねえちゃん? 彼女は、その時の沙那ちゃん、なんですか?」
『……どういうことなのかは、まだ誰にも分からないよ。“お屋敷”には、強い天使力を持つものなんて全くなかったし、実害があるほどのエーテルの流れを感じた事もなかったんだから』
 かざみの慎重な返答を咀嚼してから、リゼットもまた慎重に言葉を落として。
「それに、あの子は、かざみおねえちゃんの名前を知りませんでした。
 やっぱり、もうちょっと調べてみるしかないですね。……ありがとう、参考になりました」
 そしてまた、少しの沈黙。
『――リゼット』
「え?」
『大好きだよ』
「え……」
 完全に不意を打たれて、頭の中がよくわからなくなる。
『わたしは、リゼットのことが大好き。世界中の誰より一番好き。……ほんとに、ほんとに好きなの。たとえこの事がなくたって、もし帰れるんなら一秒でも早く帰りたいよ。電話越しにリゼットがえっちな事をしてくれるんなら、わたしも喜んでえっちな声を出すよ。あの、私……わたしは、ほんとは、リゼットの、モノ、だから……』
「…………」
 何を言えば良いのか分からずに、沈黙したままでいた。
 そうしていると、少しだけ空気が変わる。
『……なんで』
 それは、泣き笑いのような声だった。
『なんで……なんでわたしは、そんな大好きなリゼットに、辛いことをさせちゃうのかなあ……』
 そんなかざみに何を言えばいいのか、リゼットには良く分かっている。
「――それなら、だめなことをしちゃったおねえちゃんには、おしおきが必要ですね?」
『え……えっ?』
「なんですか? ……おねえちゃんはわたしのモノなのに、わたしのおしおきから逃げるんですか?」
 くすくすと笑い声をさせると、慌てた声が帰ってきた。
『ち、ちがっ。ちがうようっ! ……い、今、から……?』
「そうですね。おねえちゃん、さっきもすごくはしたない事を口にしてましたから――」
 そんな会話を交わしつつ、リゼットにはもうひとつだけ考えるべき事があった。
“彼女”が大事そうに抱えていたボロ屑は、一体何だったのだろう?


 何がありましたか、とわたしは聞く。
 いろいろな事がありました、とあなたは言う。
 あの人のことが好きですか、とわたしは問う。
 あの人にだけは言えないんです、とあなたは言う。
 あの人のことが好きですか、とわたしは問う。
 せんぱいのことが大好きですとあなたは言う。
 私達は似ていますね、とあなたは言う。
 似てなんかいませんよ、とわたしは言う。
 背中と背中を合わせている。
 少しだけ暖かいので、わたし達は少しだけ笑う。


「狩魔おにいちゃん」
 廊下で猫なで声で狩魔を呼びとめると、慌てたような反応が返った。
「わっ。――な、なに?」
「さなちゃんについての事は、ご存知ですよね?」
「さなちゃん? さなちゃんがどこに行ったのか、リゼットは知らない?」
「……え?」
「さなちゃんがいないんだ」
 そう呟いた狩魔の顔は、どこか思いつめたような。
 その顔を見ていると、自然に言葉が漏れた。
「――あの子は、寂しがってました」
 
 いろいろな事がありました、と狩魔に言う。
 せんぱいのことが大好きなんだそうです、と言う。
 さなは沙那ですよ、と言う。
 
 そうして、狩魔はどこかに走っていった。


『にゃー。塚守先輩、まだご用ですか? 引き延ばし作戦? むしろぎゃくたまです?』
 いつにも増して猫っぽい沙那の声を聴きながら、狩魔は言葉を選んでいる。
「ねえ……あの、沙那ちゃんは、」
『沙那ですよー。ですです。ですだよ?』
「……ねえ」
『え?』
 その声は、なんだろう。
 彼女の声を止めた自分の声に、何が宿っていたと言うんだろう。
「――いいんだ」
 沈黙。
「そんなこと、しなくても、いいんだ」
 塚守狩魔は、声を静かに引き絞る。
 電話線の向こう、もうひとりの黒須沙那に向けて。
『……なに、いってるんですか?』
 ――ああ。回線の向こうの声が、なんて細い。
   まるで死に際みたいだ。
   地獄の淵にいるみたいだ。
   まるで、あの沙那ちゃんが、地獄のような場所でずっと頑張っていたみたいだ。
「僕は……」
 君を助ける、ではない。
 ましてや塚守狩魔に、彼女を救うなんて言える訳がない。
「……僕は、君に聞いて欲しいことがある」
 ――黒い肌の女の子から、ごまかしと真実の混じった言葉を受け取った。
 そしてただ一人のあの子の、少しだけの素顔を見た。
「これは、可能性の話に過ぎないけど――」
 塚守狩魔は物語る。
 たとえその物語が救えるものが、この世に何もないとしても。
 
 
 
 少女は草原にたたずみ、静かに風を受けている。
 想像の中でのみ無限だった平原は、その時真実無限の広さを得た。
 ならばその風はきっと音速を遙かに越え、無限の速度で吹くはずだ。
 ――無限の速度で吹く微風は、少女のシルエットをわずかに揺らす。
 麦わら帽子は少女の頭にぴったり合って、決して落ちはしないけど。
「……あ」
 風が止む。
 少女にとっての、最後の敵が現れる。
 それは、シュネルギアではなかった。
 
 その敵の名は、黒須沙那という。
 
「こんにちは、わたし」
 ぺこりと頭を下げる。
 十三歳の黒須沙那は、九歳の黒須沙那と似通っている。
「こんにちは、夜天使(レリエル)の残骸」
 幼いさなは、その全身がうっすらと発光していた。
「あの時は、瑞穂基地が森で覆い尽くされるくらいの力があったけど――
 ――今は、自分自身をねじまげるくらいの力しかない」
 私にはむずかしいことは分からないけど、と笑う。
「あなたがしなければいけないことなんて、何もないんですよ」
 ――だってあなたは、もういないモノだから。
 この草原も、一時しのぎの偽者だ――
 苦し紛れに写し取られた、沙那の心だけが本物だった。
「沙那はいろいろな人から、たくさんのものをもらいました」
 だから、怖くない。
 たとえ彼女が沙那に何を見せたとしても、ゆるぎないものが心に残っている――それが何かは、まだ恥ずかしくていえないけれど。
「帰ろう、わたし。
 いつまでもこんなところにいたら、風邪をひいちゃうから」
 ――彼女は、何もしなかった。
 そっと手を引くと、幼いさなの体が光となって崩れ落ちる。
 ただ、元は麦わら帽子だったボロ屑だけが残った。
「――ん」
 沙那はそれを抱きしめる。
 いとおしげに、なつかしむように。
 
 
 その日以降、幼いさなの姿を見る者はなくなった。
 
 ――リゼットは、沙那の事が好きではない。
 それはたとえば、いつでも笑っている暢気なところとか。
 その陰で笑顔を形作る仮面とか。
 そしてその仮面を、いつしか本当の笑顔に変えてしまったところとか。
 リゼットも知らないうちに、自分の過去を受け入れていた強さとか。
 そんなところが、好きではない。
 だからリゼットは、幼いさなに対しても何もしていなかった。
 何もしないうちにさなは、リゼットの前から去ってしまった。
 
 ただ、リゼットには分かっている事がある。
 彼女は夏に死ぬのではなく、夏にもといた場所に帰ったのだ。
 
 
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