『いつかまた』挿話“ひたいねこ”

 おれはもうすぐ死ぬだろう。
 その前に、おまえに伝えておきたい事がある。


 
 おれの名はひたいねこ。
 仲間内では、額についた向こう傷からそう呼ばれている。一介の猫だ。
 特技は片手の爪だけで食い物をちょうどいい大きさに引き裂くこと、趣味は縄張りに〈二本足〉のおもちゃを集めること。
 縄張りは〈二本足〉の言うところのコウエン、仲間内で言うところの〈緑の社〉だ。で、ねぐらはその中の茂みに――
 いや、おれの事はこの際どうでもいいんだ。
 ともかくおれはただの猫だ。おれの中に特別なものは何もない。
 そんなおれがあいつとつるみだしたのは、いつの頃からだったろうか。
「めざし、食う?」
「んー」
 欲しいのかどうなのかわからない声をあげながら、そいつはおれが押しやった干し魚のかけらを受け取った。
「……さっきも聞いた気がするけど、寒くないの、おまえ」
 灰色の紙ぶとんの上で寝ているおれに対し、そいつは石畳に直に身を横たわらせている。
 時刻は深夜だ。夜露の降りも厳しいというのに、身体が濡れるのが嫌じゃないのだろうか。
「寒いけど、動くのめんどい」
「そか」
 手持ち無沙汰になり、おれは沈黙して自らの顔を撫でる。
「ま、月夜はいつもだらけてるからな」
 そいつの名前は月夜と言う。
 彼女は、今おれの目の前にいる、真ッ白な猫だ。
 灰色の石畳に、純白の長毛。
 消えかけの月光が、頭の裏から伸びる毛を信じられないような銀色に見せている。
「……おまえ、なんで目だけは赤いんだ?」
「いや、そう言われても」
 他はこんなにも白いのにな、と呟く。
「たぶん、他が白いからじゃないのかな」
 月夜はそう言った。どういう意味か聞き返そうとして、数秒の後に止める。月夜の方も深く考えて言った事じゃなかろうし。
「眠いな」
「眠いね」
 彼女の方を盗み見ると、めざしは数秒で噛み砕いてしまったらしい。退屈そうなあくびを、わずかに月夜は漏らした。
 寒さをこらえるのと同じように、月夜はよく空きっ腹を抱えてどこかにうずくまっている。
 けれど本当に餓えている月夜を、おれは見たことがない。
 彼女にはしもべのような猫たちがいる。月夜が餓えるならば、めざしどころでない獲物をそいつらが捕らえてくるだろう。
 不思議な話ではない。おれとは違って、月夜は普通の猫じゃないんだ。
 彼女が具体的に何をした、という話ではない。犬一頭を独りで食い殺したとか、〈二本足〉を縄張りから追い返したとか、そんなのはただの噂だ。
 縄張りすらない放浪の猫だった。たいていは誰かの縄張りに邪魔をするか、姿を見せず街のどこかをうろついている。
 ただ月夜の瞳がその名の通りに輝くとき、あいつと睨みあえる奴はいなかった。
「お魚、ありがとうね」
 月夜の唇が微妙に動く。〈二本足〉の言うところの、“笑う”という仕草だろう。
 猫らしくないしぐさだとは思う。けれどあいつが“笑う”のが、おれは嫌いではなかった。
 おれも月夜のしもべなのかもしれない。多分そうなんだろう。
「そうだ」
「ん?」
「子猫、産まれたんだってさ」
「どこの?」
「ほら、こっから近い〈二本足〉に取り入ってる三毛の」
 そういうのは飼い猫って呼ぶんだよ、と月夜の気のない声。
 どっちにしろそういう猫と俺らは没交渉だ。だが、大まかな情報くらいは伝わってくる。
「飼い猫に子供か、珍しいね。お祝いを持っていってあげようかな?」
「追い返されるぞ。あそこの〈二本足〉は乱暴だし……」
 少しの間。
「……考えてみれば、どうでもいい話だな」
 俺は会話を打ち切って、目を閉じることにした。
 その子猫はしばらく生き延びるだろう。〈二本足〉に取り入った猫の子は、そうそう飢え死にする事もない。
 家の外に出ないならば、縄張りや食い物で面倒を起こすこともない。要するに、俺たちの生活には関わりのない話だ。
「その子、どういう名前をつけられるのかな?」
 月夜の質問はそのままに、俺は眠るために目を閉じることにした。
 ――月夜が名前を気にしているのは、たぶん彼女の名前も〈二本足〉によって名付けられたものだからだろう。
 けれど俺には関係ない。
 子猫にどんな名前がつこうと、俺とそいつが出会う事なんて、考えずともありえない話だ。
 
 
「……と、思ってたんだけどな」
「みぃ?」
「なに抜け出してんのおまえ。噛むぞ」
 こう、尻尾のあたりをがじがじと。
「みぃ」
 脅してやったつもりだが、その子猫には俺の言葉も良く分からないらしい。
〈二本足〉のねぐらから抜け出してきた子猫が、俺の前肢にすりよってくる。
 月夜と話してからしばらくも経ってない。話した時が産まれたばかりとするなら、まだこいつは足腰の立ったばかりじゃないのか。
 脚に未熟な毛皮の感触が心地良い。が、
「うーむ」
 困った。
 開いた窓か扉の隙間か、どういう穴から抜け出したのかは知らないが、訳も分からずこんなところまで来なくてもよかろうに。
「――おまえ、どういう名前をつけてもらったんだ?」
 そう聞いても答えがあるわけでもなし、おれは業を煮やして唸り声をあげはじめる。
 ほら、蚤がうつるぞ。あっちいけ。
 おまえの毛皮は、蚤もいなくて綺麗なもんじゃないか。
「?」
 それでも名無しの子猫は、〈二本足〉が探しに来るまでその場を動こうとしなかった。
 
 
「――へえ、そんなことがあったんだ」
「あったのさ」
 夕暮れのおれの縄張りで、月夜とおれは子猫のことを話していた。
 今度はめざしもなし、夜露もなし。そこにあるのはおれと月夜だけだ。
「迎えに来た人……〈二本足〉たち、慌ててなかった?」
「ん?」
 そういえばそんな感じもしたが、どうして月夜がそれを分かるのだろう。
「その名無しのお父さん、亡くなったから」
 一瞬、何を言うべきか分からなかった。
「――なんだそりゃ、聞いてないぞ」
「それは……まだ二日しか経ってないからね。名無しの子が産まれた後の事だったし……」
 おれは言葉を止め、月夜の言葉に聞き入っていた。
 ――今話されている事は、それこそ歯の生え揃っていない幼猫(こども)でも分かるような事だ。
 おれたちはいつか死ぬ。
 仲間の言うところの〈泣き叫ぶもの〉――月夜が自動車と呼んでいる塊に踏み潰されて死ぬか、老いて体内を病んで死ぬか、川に落ちて溺れ死ぬか、飢えと寒さによって死ぬか、さもなければ不運にしてもっと珍しい死に様を晒す。
〈二本足〉のねぐらにこもっても同じことだ。誰しもがいつか死に、死ねば柔らかい土になる。
 土はおれと関わらない。生まれ落ちた名無しと同じ、おれとは関係の無い話だ。
「でも」
 まるでおれの心を読んだかのように、短く月夜がつぶやいた。
「でも、寂しいね」
「……ああ、寂しいな」
 月夜は頭がいい猫だが、忘れっぽさは他のと似たようなものだ。
 もうすぐ夕日が沈んでしまう。おれも月夜も、その前の自分が何をしていたのかを思い出すことはできないだろう。
「――――」
 誰かが死んだという事実も、近く忘れてしまうかもしれない。
 だとしたら残るものは、寂しさの思い出だけだ。
 月夜は何者なんだろう。
 俺の目の前の猫は、いつから思い出だけを抱えて生きてきたんだろう。
「――なに、考えてるの?」
「いや、何も考えてない」
「ほんと?」
 覗き込んでくる視線を、受け止める事はできない。
「おれは平凡な猫だからな。ものを考えるような頭はないんだ」
 月夜から目を逸らして、おれはそう呟いた。
「……あなたに妖の血が混じってないとは、言い切れないんだけどな」
「ん?」
「いや、なんでもない」
 言葉の代わりに月夜に寄り添い、おれは彼女の顔を舐めた。
「――なに、してるの?」
「なんとなくさ。ほら、目にヤニがついてる」
「ついてないよ、そんなの」
 言葉は冷たいがさほど嫌がるでもなく、月夜はおれの舌を茫洋と受け入れている。
「おまえさ。結構、長く生きてるだろ?」
「うん。少なくとも、もう百年は生きたかな」
 百年か。どれほどの時間なのかはよくわからないが、とにかくそいつは長そうだ。
 他の猫との別れを、月夜は何度目の当たりにしてきたのだろう。
「なあ」
「ん?」
「春になったら、おれとつがってくれないか?」
 さして意味があっての言葉ではない。
 ただ、そうしたくなったから言ったんだ。
「覚えてたらね」
 月夜は笑顔で返答する。
 それは約束というものだ。
 おれもおまえも、この約束を忘れないでいられますように。
 
 
 
 その〈二本足〉は、おれの縄張りの中を、長くて大きな袋を右腕で抱えて歩いていた。
 厚くて丈夫そうな布袋だ。袋が直線ではなく〈二本足〉の頭の上で折れ曲がった形をしているせいで、小さな街灯でも袋に収めて持ち歩いているように見える。
 中に何が入ってるのかは知らないが、あの大きさならばひどく重いものだろう。
 けれど彼女は――黒っぽい肌で小さめの身体だ、どうやら雌らしい――足取りはゆっくりとしているものの、ふらつきはせずに歩いている。
 ――――ふう、三分休憩しよ。
 そいつが何を言ったのかは、〈二本足〉ならざるおれには分からない。
 彼女は何事かを呟いた後、縄張りの中の……なんだっけ、長椅子に腰かけて息をついた。
 そいつが汗をぬぐう仕草は、猫が顔を洗うのに似てなくもない。
 ――――よく考えてみたら、こんな街中で大鎌ほど持ち歩きにくいものもないね。職質とかされなきゃいいけど。
 おれがそいつの前に顔を出したのは、彼女が何を言っているのかが気になったからじゃない。
〈二本足〉とはいえ縄張りの中に踏み込まれた警戒と、だがもしかしたら食い物をくれるかもという期待からだ。
 ――――ん? きみ、どうしたの?
 反応は予想より早かった。おれの走りで二十歩も離れていたというのに、長椅子の上の彼女はあっさりとおれに気付く。
 ――――おいでよ。チーかま、食べるかな。
 地面に何やら魚のにおいがするものが置かれた。
 あれは、妙に甘いが食べられるものだ。警戒しつつ近寄るおれ。
 ――――わ、来た来た!
 良く分からない色の食い物を端からかじっていると、また頭上から呟きが落ちてきた。
 ――――ねえ。ちょっと、いいかな?
 もしかしておれに向かって言ってるんだろうか。〈二本足〉の言葉は分からないんだがどう返すべきか、と思っていると、背中の辺りをわずかに上から押された。
 そのまま背中をゆっくりとなぞられると、彼女がなにをやりたかったのかを理解する。
 ――――ありがとう。きみは、なでさせてくれるほうの猫なんだね。
 身体を触られながらだと食いにくいんだが、まあいいさ。それくらい。
 どうやらおまえは笑ってるみたいだから、いいさ。
 そうしておれは食事にのみ専念する。独りでかつかつぱくぱくとやれば、片付けるまでに大した時間もかからない。
 ――――おいしかったかな。それじゃ、ばいばい。
 しばらく後におれが食い物を片付けると、すぐに彼女は長椅子から立ち上がった。
 そして袋を重そうに、けれど辛くはなさそうに腕で抱えて歩いていく。
 ――――ううん。ばいばいじゃなくて、ごめんね。
 色黒の彼女は、最後にそう言って去っていった。

 
 月の()く冴えた晩だった。
 おれは珍しく縄張りから離れ、なにを求めるでもなく、道端にうずくまっていた。
 いるのは文字通り道端、大通りの端の生垣の隙間だ。
〈吼えるやつ〉――月夜の言うところの自動車は、道の中にみっちりと詰まって、ぴかぴかと明かりをまたたかせている。
 これからおれは歩き出してもいいし、そうしなくてもいい。
 腹が減った、調達に行けば食い物も手に入るかもしれないが、この辺りで眠るのも耐え難いというほどじゃない。
 独りでいるのは、何をしてもいいと言われているのと同じだ。
 何をしてもいいのだと月夜に言われたら、おれはその時に何をするのだろう。
 そう考えたときに、おれは悲鳴のような轟音に気付いた。
 ――何かが突っ込んでくる。まずいな、とおれは思う。
 そう思ったのはおれが逃げ出そうとする直前で、つまり生垣を破って飛び込んできたそいつは間違いなくおれを轢き殺そうとしていた。
〈吼えるやつ〉――の中でも、最も大きな部類に入るだろうやつ。形も他とは違っていて、異様に大きく長く重そうだ。
 おれは吼えた。ただの猫でしかないおれは、猫の咆哮を生まれてはじめて耳にした。
 反射。風を切る、しかし絶望的に足りない跳躍。
 目の前に来る。月の反射。銀色。
 腹の辺りが一瞬だけ凍りつき、それからひどく熱くなった。
〈吼えるやつ〉の真ッ黒の輪が、白いひもを踏みつけていく。
 それがおれのはらわただと気付いた時、おれはこれから死ぬのだな、と理解した。
 
 
 おれが気を失っていたのは、それほど長い時間ではなかったと思う。
 けれどおれが目を覚ましたとき、あたりの様子は一変していた。
 まず気付いたのはひどく焦げ臭いにおいだ。辺り一面に油が撒かれ、その上を炎が舐めている。
 死ぬほど冴えて夜空に浮かぶのは、鎌のような三日月だ。
 小さな〈吼えるやつ〉が、目の前で大きな街灯になっていた。
 そいつは身体ごと炎に包まれ、中からは黒焦げのにおいだけが漂ってくる。
 誰かが泣いている。誰かが叫んでいる。〈二本足〉の言葉でも、助けてという悲鳴くらいは分かる。
 おれは這いずった。死にかけた身体で何を助けられるとも思わず、ただ狂ったように這いずった。
 腹を石畳にこすりつけ、血の痕をこすりつけながら動いた。〈二本足〉の脚に踏み潰されかけた。死体を見た。
 炎に巻かれかけてる子猫を見つけた。気を失っていた。そいつの首ねっこを口でくわえると、なぜかおれは歩けるようになった。
 
 ――ああ。
 よく見たらおまえは、いつかの子猫じゃないか。
 
 おれは歩いた。決して速いとはいえない速度で、しかし炎の進軍よりはまだ速く。
 子猫の身体はあっというまにおれの唾と血で汚れたが、それでもおれは構わず歩いた。
 ――こいつにはきっと、誰かが付けた名前があるのだろう。
 けれどおれが名無しと呼んでいたら、こいつは本当の名無しになってしまった。
 こいつを名前で呼んでいた〈二本足〉は、みなどこかに消えてしまった。だから今のこいつは、本物の名無しだ。
 
 おれはもうすぐ死ぬだろう。
 その前に、おまえに伝えておきたい事がある。
 
 月夜という名の猫がいる。
 綺麗な猫だ。全身は白い長毛で覆われて、瞳は満月のような赤。
 よく喋る猫だ。月夜はふと会話の最中に自分が何を話していたのかわからなくなる事もあるが、おおむね彼女と話すのは楽しい事だ。
 長生きの猫だ。百万回も生きたような顔で、一度しか生きてない猫の話をよくしている。
 一度だけを生きた猫の話を、百年分。大部分は忘れてしまったが、月夜も少しは誰かの話を覚えている。
 だからたぶん、月夜は寂しがりの猫だ。
 おれはそろそろ歩けないので、あいつはまた少しだけ寂しがるかもしれない。
 だからあいつが寂しがらないよう、これからはおまえが月夜のそばにいてやってくれ。
 月夜が腹を空かせるなら、おまえが食い物を用意してやれ。
 月夜が何かを忘れるならば、おまえがそれを覚えていてくれ。
 おまえがそうしてくれるならば、おれは寂しがらずに死ねそうだ。
 
 ――心残りがあるとすれば、名無しの子猫よ、おまえの名前の事だけだ。
 おれは結局、おまえを名前で呼んでやることができなかった。
 いや、おまえに名前をつけてやりたかった。さっき夜空を見上げた時、せっかくおまえのための名前が思いついたのに。
 きっといい名だ。百年が経った後でも、誰もがその名の意味を分かるような単純な名前だ。
 けれどおれはおまえを口にくわえたまま、もう少しだけ歩いていたいので、その名を口に出して呼ぶことができない。
 この名前を誰も知らずに死んでいくのが、おれには少しだけ悔しい。
 
 三日月よ。
 おれは死ぬが、おまえは百年も生きろ。
 月夜とつがってみるといい。それはきっと、悪いことじゃないだろうから。


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