外伝『姿変えの魔女、白い翼』(中編)

 私は語る。
 あなたにまだ、何も知らせていないから。


『……の途中経過。
 ヴィイはかなり大きくなってきた。体毛もふわふわというよりさらさら、昼子はまだわんちゃんと呼んでるけど、もう犬には見えないよ。
 神経群も発達してた。シナプスの密度は人間並みに贅沢なのに、感覚器が脳神経を兼任してる? というか、反射と思考が分化してない?(よくわからない、今度調べてみようか)
 でも、もう彼女と会ってから何ヶ月も経つのに、あの子は鳴き声以上の言葉を覚えてくれない。
 このままだとヴィイは考えるという機能に見切りをつけ、生物として私達と袂を分かってしまうかもしれない。
 巌はそれもひとつの在り方だ、と言っていた。でも、私にはその在り方が寂しい。
 だから今日、私は、あの子に日記をプレゼントする。
 贈ろうとしてるのは、今現在書いているこれ(・・)。もっとも特注なのは、日記帳ではなくそれに書き記すためのペンとインクだ。
 使い手の思考を読んで筆記するシステムはほとんどが思考ノイズの海の中で沈没したが、あれは最新型。言葉を知らない子のために手取り足取りの辞書までついてくる。
 今もそれで書いてるんだし。……ほら、改行とか整形もちゃんと。
 ともかく私の日記は今日で終わる。記憶なんて適当に石化させておけばいい、事実を日記につけて記憶を保持しようとするのは人間だけだ。
 日記は自分の記憶じゃなくて、自分の心を大切にするためのものだけれど、今の私が大切にしたいものは他にある。
 ……この世には、言葉というものがあるんだ。
 それはヴィイ、きっときみを幸福にしてくれる。
 幸福というものが何かを、きみに分からせてくれると思う。

追記:
 私とヴィイが出会った日から、あと三ヶ月で一年になる。これはなに記念日って言うのかな?
 とにかくその時には、もっと良いものをプレゼントしたいんだけど』


 それからちょっと後。


「……………………きゅ」
 黒い塊が、変哲もない紙束を、その身体でくるんでいた。
 塊――〈仔犬〉は全部で十ページもない(・・・・・・・)紙束を、百ページ(・・・・)ほど黒髪(からだ)を使ってめくった後、閉じては開き直して遊んでいる。
 この紙束の意味は分からない。〈仔犬〉、あるいはヴィイは、自分の脇にこの紙束を置いた女性がもう一度近くに来る時を待っていた。
 けれど自分の事をどう呼ぶのかも知らない〈仔犬〉でも、その翼持つ女性の名前だけは知っている。
 だから今日の日記には、
 
『キョウコ』
 
 とだけ書かれ、そして捨て置かれた。


 その翌日。


『   、 
 キョウコ ■■。
 キョウコ 、?
 
 こ?
 
 !
 きょうこ!
 お    、おんなのこ?
 てんし さま!』

 今の〈仔犬〉に尻尾があるなら、ぱたぱたとそれを振っているだろう。
 何しろようやく、この紙束が何者かによって書き換えられていることに気付いたのだから。
 動かず、語らず、だが何らかの意思によってその姿を変える断片。
 そしてその変化に応じて、〈仔犬〉の内部をくすぐる小さな刺激――それは、感覚器を揺らす光や風によるものでは、決してない。
 今まで〈仔犬〉を動かしていた原始的な好奇心が火花を散らす。キョウコの正体を見極めるために触感を使ったように、刺激されている何か(・・)を使って刺激者の正体を確かめようと。
〈仔犬〉は、ただ反射していた。
 日本語を一語たりとも知らない者には、日記帳に付属する辞書も無意味だ。言語以前の思考のパルスまでを辞書が無理矢理言葉にしようとしたら、日記はノイズの塊になる。
『きょうこ!』
 だから〈仔犬〉は、一言だけ知っている言葉を基点に、ひとつだけ染みている意味素を知能の代替として、言葉の系統樹を辿っていく。
 リアルタイムで組み代わる神経群の中身は、まるで際限なく加速する球技。選手の数が億を数えて増え続けるなら、光速で這いずるサーブもまだ遅い。
 ――その反射の重積が見せた、短い夢の連なりを、人は思考と呼ぶ。
〈仔犬〉は理解するだろう。
 この日記を書き換えているのが、他ならぬ自分自身であることを。
 自分には意味があることを。
 この世には、意味というものがあることを。


 またその翌日。


「……で、なんですか、この落書きの山」
「そしていつになく良い調子ですりよってくるヴィイ。これを俺らに見て欲しいのか、おい?」
「ふふふ。いいじゃない、かわいいし」
「羽ぱたぱたさせてんじゃないよこの親馬鹿。まあ……」
「なんです?」
「学習は早いよな、ってこと。
 辞書の方も使いこなせば自分の知識だしな、一日にして精神年齢激増って感じ?」
「あ、この日記帳、インターネットに繋ぐ機能まであるんですか。あちこち接続した形跡がありますね」
「えらいねー、がんばったねー、なでなでー」
「……はあ。巌さん、私、急に出かけたくなってきました」
「同感だ。角の店でうずらバーガーとかどうよ?」
「早速行きましょう。まあ、親馬鹿さんは自家発電でもしててもらうとして――」
「?」
「――ヴィイちゃんは、そろそろものを食べられると思いますか?」


 二、三日は経ったっけ?


『もうすでにこの辞書のたいはん(50わりくらい)をよんでしまったヴィイは、かなり頭いいと思う。
 むしろ頭いいってキョウコに言われたから。へへー。
 
 キョウコ、羽はえてる。おんなのこ。
 キョウコは色々あっていろいろあるけど、言葉で言うとうにゃーってかんじ。
 昼子、羽はえてないけどおんなのこ。ケーゴをおしえてくれるって言ってたけど、ケーゴはケーバツとかに似てるからこわいとおもう。
 巌、かたい。はだのいろがヘン、だっこされるといたい。おとこのこ?
 
 ジュースとか。昼子がもってきたけど、どうすればいいのかよくわからなかった。
 キョウコの言うこともたまによくわからない。さっき「ねむい?」ってきかれたけど、ねむいってなに?
 でもねむる、はわかる。それはキョウコがヴィイのとなりで、すこしこわれること。
 いまもこわれてる。でもそのこわれるのは、いいこわれかたなんだって。んー?
 
 あ、キョウコがふにゃってなってる。
 へへー。
 ぎぅ』

 
 一週間経過。


『キョウコに言われました。

「ねむりかた、しりたいの?」
 
 はい!』


 さらに一週間。


『そうしてヴィイはみんなに眠れるカラダにされてしまいましたとさ。
 なんか、でもあんまりいじってないんだって? ヴィイのカラダはもうそういうカラダになりかけてたって言ってたけど、なんで?
 うーん、カラダさんはすでにねむりたがってた?
 でもいいや。
 巌は眠るのがイヤらしいけど、キョウコに昼子も、寝るときはふにゃあってなってきもちいいって言ってたよ。へへー。
 よーし、ねる! ねるぞー!

 ねむれねー!』
 

 四日、そのくらい経った。
 

『なんか、わかってきた。
 ヴィイはせいちょうしていると巌が言ってた。
 でもせいちょうってなに、と聞くと巌はなんかこまってた。やーいやーい。
 
 ほんとはせいちょうくらい何か分かってるもん。
 せいちょう……成長、うん、成長。
 それはおっきくなって、つよくなって、あたまがよくなることです。
 
 ヴィイも成長してると思うの。
 夢見るごとにあたまがよくなる。
 きのせい、かな?』


 一週間後。


『あれ?』


 一週間後。


『昼子にジュースを飲ませてもらった。ずっと前、140時間くらい前に。
 おいしかったよ、キョウコにものませてもらったし。
 いい味。いいにおい。
 
 でも、
 におい?
 味?
 それは、ちょっと前のヴィイが、分かってたことだったっけ?
 
 ヴィイのジュースの飲み方。
 ジュースはおいしかった。飲み方。よくおぼえてない。
 
 これも成長なのですか。
 でもなんか、かがみとか、みたくない』


 もういちどだけ、一週間後。


 はじめはそれを、鈴の響きだと思った。
 キョウコの家からサイセイキョウトの町並みに降り立ち(別に特記することでもないが、彼女の家は空中にある)、〈仔犬〉は通りを動いていた。
 誰かを伴っているわけではない。通常独りでの散歩はキョウコが止めるし、〈仔犬〉にもそんなことをする理由はない。
 少女の声を追っているのだ。
 はじめにそれを聞いたのがいつだったのか、〈仔犬〉はよく覚えていない。
 ただささやかな声が、誰もいない部屋に響いたのが、気になっただけだ。
「――――」
 少女が目の前にいたとしても、かけるような言葉はない。〈仔犬〉はもともと言葉を文字以外の形で発するのは苦手だし、発する音は聞くべき声を阻害してしまう気がする。
 歌うような、ささやくような――あるいは、単に楽しそうな声。
 七頭八腕の獣、美貌だがうずくまるのみの少女、意思を持った煙草の煙、響き続ける残響音。そんな者達を脇にして、〈仔犬〉は動き続けている。
 その理由は単に、楽しそうだから、混ざってみたいだけかもしれない。
 そうして、異質な――どこか根本的に異質な少女の声に、耳を澄ませようとしたその時。
「――ひ、あっ!?」
 何かに。
 見えない何かに、身体を撫でられた(・・・・・)
 
〈仔犬〉はパニックを起こし、転げるようにその場から逃げていく。
 あなたはまだ、何も分かっていない。


 翌日。


『女の子の声は怖くない。それより透明なおばけの方が、ずっと怖かった。
 ヴィイはそれをゴーストと呼んでみた。ごーすと、おばけ、辞書にのってたの。
 でもキョウコに聞いたら、それは“人間”という生き物だと言っていた。
 納得いかない。人間っていうのは、キョウコみたいな形をしてる生き物だよ。
 あれに形なんてなかった。見えなかった。
 だからヴィイにとっては、それは亡霊(ゴースト)なんだ。
 
 ねえ。
 人間って、なに?』

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