『いつかまた』第1話後編“my mew pet”

 月夜との出会いは、たった四時間前の事だった。


 群雲に月光が隠された、憂鬱な夜空だ。
 彼女は路地裏で眠っていた。
 猫耳と猫の尻尾が付いたその姿を見て、本当にねこがいると思った。
 そんな彼女に手を伸ばせば、他者からは同胞を求めたようにも見えるだろうか。
 ――ぱさり。
 苺々の人でない耳を覆っていた帽子が落ち、眠たげな視線に晒される。
 
 
「ねえ、とうかって誰?」
「――――――へ?」
 そして苺々は、気が付いたら月夜に不思議そうな目で見られている。
「な、なんで、その名前を、」
 月夜に手を引かれてからの半時は、完全な忘我の時間だった。
 何を言っていたかどころか何を考えていたのかも覚えていない。恐ろしくなって問い返す。
「わたしに後ろの方をいじられてる辺りで、とーかとーかって何度も何度も」
「……あ、う」
 わめきだすよりも先に突っ伏した。
 ここはホテルの三階。嵌め殺しの窓を突き破って飛び降りたくなる。
 客観的に見て最低だし、主観的にも最悪だ。
「聞かれたくないこと?」
 小首を傾げる月夜から目を背けた。
「……というか、その」
「ん?」
「嫌じゃ、ないんですか?」
 ようやく外気の冷たさを自覚して、裸の身体にシーツを被せる。
 一枚のシーツをふたりで使うと、視線を逸らしにくくて気が焦った。
「……こ、こういう状況なんだから、私がその、桃歌をどう思ってるかくらい分かるでしょう?」
 頬が赤らむ。女同士だろうが何だろうが、付き合いにはルールがある。
 ベッドの中でこんな事を言うのが無粋なら、いきずりの相手との最中に別の女の名を叫ぶのは、醒めた眼で見られたい類の馬鹿だろう。
 なのに目の前の月夜は、茫洋と微笑むだけだ。
「浮気なんだ」
「――――」
 浮気なのだとしたらどれほどいいかと、一瞬だけ思ってしまった。
 だって桃歌は苺々の、
「わたしも、浮気なんだ」
「……はい?」
 沈黙する。
 ちょっと待て、と思ったが、月夜は待たなかった。
「お姉さまのことが好きなんだ」
 ――ああ、そうか。
 その顔を見て理解する。
 苺々にも嗅覚がある。正体不明かつ初対面の女性に感じて当然の、危険と不安の匂いをどうして嗅ぎ取れなかったか、ようやく分かった。
 そしてどうして月夜が、初対面の苺々の誘いを受けたのかも。

 この場所にいない誰かを好きと言う。
 告白をした顔に何もない。

「……怒った?」
「まさか。――ねえ」
「ん?」
 傍目から見れば綺麗なままで、月夜は酷く欠けている。
「殺されそうになった事って、あります?」
「あるよ」
 言葉に合わせて猫の耳が微動する。
 苺々や彼女のような異形は、この世界では存在すら認知されない身だと言うのに、真面目に隠す気もないらしい――ホテルへの道すがら“苺々の耳を見てなければ、なんとか誤魔化そうとしてたよ”と言っていたけれど、どんな誤魔化しを試みていたのか怪しいものだ。
 もっとも、それはそうだろう。
 誰だって、半ばどうでもいい事・・・・・・・・・をいちいち気にしたりなんかしない。
「……殺されかけて、その後はどうしました?」
「食べちゃった」
 ふとももの付け根を撫で、ほとんどはね、と彼女は言い置く。
 思った通りの答えだ。
 あるいはあの路地裏で、既に演じていた答えだったのかもしれない。
 たとえ苺々がナイフを振りかざしたとしても、彼女はそれを受容するだろう。受容の形はともかくにせよ。
 ――それが先天的なものかは知らないけれど、彼女は純粋すぎる生き物だ。
 行き先には安全を、出会いには愛情を、傷病には寛解を――人間ならば当然の、世界への期待と言うべきモノが、ほとんど完全に削ぎ落とされている。
 たとえ内面が嵐だったとしても、傍目からは隠者のように見えてしまうほどだった。
 ため息をつく。
 危険な匂いも何もない。この白いひとは、世界で最も安全な女性だ。
 恐らくは、彼女がまだ人間のふりをする理由にさえ触れなければ。
「聞かれたくないんなら、いいんですけど――」
 それでもなお彼女は魅力的だ。
 益もないというのに、気紛れの分だけ深入りをしてしまいたくなる。
「あなたの“お姉さま”ですけど、今は会えない理由があったりしません?」
「……なんで分かるの?」
「行方不明とかなら、せめて名前だけでも聞いておこうかと思いまして」
 驚く月夜に、質問には答えないままで意向だけを口にする。
 もっとも答えるのも馬鹿らしい。先ほどまでのやり取りから考えれば、何をどう見たって今までの絡みは代償行為だ。
 旺盛に影もなく苺々を求めていたと言うのに、本命には気まずくて手を出せないという事はないだろう。となると、後は分かりきっている。
「あなたは、他人ひとのことばかり見て過ごしてるんだね」
 そして苺々がそんな事を考えている時、いつの間にか月夜の顔は、困ったように笑っていた。
 ――いつも、他人の事ばかり考えながら生きていたかもしれない。
 けれど桃歌の事を考えるのに比べれば、こんなのは片手間だけれど。
「お姉さま……夜姫よるひめ、という名前の魔術師でね。腰の辺りに大きなリボンがある、変わった服を良く着てた」
 彼女が妙に考え深げな顔をしているのは、何かを隠しているからなのだろうか。
 ともかく苺々は首を横に振る。聞き覚えは無いと示すサイン。
「その人は、今は――」
「……今は、どこで何をしているかも分からないよ」
 今になって寂しげな顔が覗く。
「長生きをしすぎてね。色々な事を、忘れてはいけない事まで、忘れてしまったの」
 それは彼女が初めて見せた顔だというのに、苺々にはどうする事もできない。
「あのね」
 どうしようもない沈黙が訪れる前に、眠ろうと考えかけていた。
「おっぱいを出しても良いよって言われたの、ちょっと嬉しかったよ」
 軽い頷きだけを返す。
 どんな生き物でも、母乳が出るのは出産の後と決まっている。
 けれども彼女の本命は女性らしい。
 ――本当に、ながく生きたのだろうか。
 苺々は男は嫌いだけど。そういう気持ちは、分からないでもない。
「……ねえ、もう眠い?」
 ささやくような声に、少し、とささやき返す。
「かえるって、寒いと眠っちゃうんだったかな」
 指で耳をつつかれると、ちょっと痛い。
「私はクマです」
「髪からして緑色なのに……」
 無視してうつぶせになり、月夜の視線から顔を隠す。
「また会えるかな?」
「――――」
 また会えば悪くない時間を過ごせるだろうけど、あまり会いたくはない。
 彼女なら自分の心を受け止めて、そして受け止めた上で何もしないでいてくれる・・・・・・・・・・・のではないかと。
 そんな妄想を引き起こすから、どちらかというと会いたくない。
「――あなたが会いたければ、会えますよ」
 ゆっくりと顔を上げて言ったのも、どちらともつかない言葉だ。
 期待をするだけならともかく、それを表に出してもしかたがない。
「苺々、さっきから優しい」
 そんな風に言葉を濁したのに、なぜか月夜は微笑んでいる。
「なんでですか」
 軽く睨むと、面白そうな顔で見返された。
「苺々ってさ、わたしに似てるよね」
「似てませんし、それじゃ自画自賛です」
 そう言われて月夜が目を瞬かせる。
「――あ、わたしが優しいってことじゃなくて。
 一見他人に興味が無いように見えるのに、思い返せば案外干渉してるっていう意味」
 そんな、苺々の人物評を知っているような事を言ってくる。
「初対面なのに、似てるも何もありません」
 自分が月夜を評価した事は棚に上げて、常識的な言葉を口にする。
「これでも身体を重ねたのに?」
「…………」
 顔を覗き込まれると、目を逸らすことしかできない。
「……美味しい所だけつばを付けてるんです。興味がなくなったら、さっさと忘れますから」
「なら、ますます似てる」
 穏やかに楽しそうに笑って。
「――ねえ、また会えるかな?」
 そう言って悪戯っぽく手を伸ばしてきたから、すぐに彼女のしたい事が分かった。
 けれど腹が立っていたから、あえて彼女の希望を無視する事にする。
「……ん」
「ん……」
 子供がやるように互いの指を絡める代わりに、互いの指にくち付けあう。
「……それじゃ、いつかまた」
「うん、いつかまた――あ、ところで」
 月夜の表情が消えていた。

「桃歌って、誰?」
 その問いに何と答えるべきかは、それこそ分かりきった事だ。


 月夜と別れたその足で苺々が目指したのは、勿論彼女と桃歌の家だった。
 玄関を開けると、さらさらと鎖の落ちる音がする。
 廊下を歩くと、だらだらと鎖の流れる音がする。
「……あ」
 桃歌がいる。
 月夜が猫だとしたら桃歌は子牛だ。ゆるく垂れた黒い耳、角、尻尾。どれも普段と変わる事はない。
「苺々ちゃん……」
 彼女は普段通りに首輪をつけ、そこから鎖を垂らしていた。
 どこにも繋がっていない鎖だ。狭い部屋の中に縛り付けてしまえば、彼女は歩く事すら不自由になるから。
 部外者が見れば、普通の金属からなる鎖ですらないと気付くだろう。
 月夜に魔術師などという単語を出されても、驚けるはずがない。この首輪を作り上げたのは、元より怪しい異次元――〈塔〉と呼ばれる世界の技術だ。
(どうやっても切れないけど)軽くて頼りなげで、首を吊る事すらできないような鎖。
(どうあがいても外れないけど)柔軟で薄くて、眠る時にすら身体に干渉しない首輪。
 何の役にも立たないまま存在を叫ぶ拘束具。
 虐待に似て溶接された約束の輪エンゲージ
「――――」
 桃歌の足が萎えていく姿を見たくない。行動の制限は完全なオートロックと、存在しない合鍵がまかなっている。
 ――だから・・・罪悪感を感じないでいられるほどに狂ってしまえば、あるいは楽だったのしれない。
 だが、そう思いかけるたびに桃歌が苺々を正気にした。
 桃歌はまっすぐにどこまでも正気だった。自らのすべき事を考え、あるいは家の中を単独で行動し、あるいは苺々に語りかける。
 鎖を揺らすままで桃歌が作ったケーキを口にした時、苺々は声をあげて泣いた。
「……あのさ、苺々ちゃん」
 けれど今の桃歌は、どんな甘いものも持っていない。
 
 ――彼女の顔を見るたびに気が触れる。
   それが優しさだとしたら、この世は滅んだ方がいい。
 
「どうして、放してくれないの……?」
 それはこの世にひとりきりの、特別なあなたがそこにいるから。

 出会った時からいつまでも、期待する事すら恐ろしい。



 桃歌は苺々の奴隷だった。



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